第12話 深い沼を覆えば

 窓の外でスコールのように降り続ける兄の影。地面で弾ける音が教室の中にまで聴こえてくる。

 私は堪らなくなって、窓を開けて叫んだけれど、自分の声も聴こえなくて、何を伝えたいのか分からなかった。


「ははは。全然、声でてへんやん」

 しゃがれた声が轟音を裂くように教室に響いた。ハッとふり返ると、よく知ったタバコの香りが鼻をくすぐる。

「……沼賀」

 彼の声を境に、外の音がぼんやりと聴こえにくくなった。まるで、ぶ厚い繭に包まれたように。

「よっ!一時間ぶり!

 えーっと。それで、愛がなんやっけ?」

 彼がふぅーっと息を吐くと、半透明の煙がスゥーッと伸びた。それは、教室の中をぐるっと回った。まるでそういう生き物みたいだった。そして、消えることなく、窓の方へと伸びていくと、人の手のようにガラスにそっと触れた。

 すると、ガラスはまるく穴が空いた。煙の手がスルッと外へ出ると、落ちる兄の影のひとつをキュッと掴んだ。

「やっぱり自殺したんや」

 沼賀は教壇で頬杖をついて、つまらなさそうに廊下を眺めていた。煙の掴んだ兄の影には見向きもしない。抵抗するようにもがく影。そのうち、煙の手をスルッと抜けて、再び窓の方へと駆けていく。

(待って!)

 思わずこぼれた言葉は声にはなってなくて、追いかけようとした私のことは白い煙が引き止めていた。黒い影はそのまま落ちた。


「しゃあないんやって。あぁいうヤツは」

 淡々とした沼賀の声。お兄ちゃんの弾ける音は、もう雨音くらいにしか聴こえない。

「不満ばっかりでも、行動はせん。何かするのが怖いから。だから、ちっとも成長せん。だけど、そんな自分でいるのも不満。それで、いっつもだらだらしとる。まるで沼に浸るみたいに」

 ニヤッと意地の悪い笑みを浮かべた沼賀の視線の先を追うと、ぺたんと床に座り込んだ少年の後ろ姿。

「おに、……少年!」

 駆け寄ろうとすると、教室の床がグニュッと沈んだ。まるで泥の沼みたいに。

「おい、沼賀!」

 彼は私の声に返事はせず、嬉しそうに天井を仰ぐと、また白い煙を吐いた。

「生ぬるい沼の中で、ぼんやり空を見あげんのは楽しいわなぁ。空は夜も綺麗やし、下に落ちる心配もないし」

 ふわふわと天井を漂う彼の煙。それはだんだん膨らむと、今度は白い雪の降らせ始めた。雪は教室の床に触れるとふわっと色が薄くなった。その上にどんどん雪が降ってきて、あっという間に教室のあちこちで半透明の綿みたいに積もっていた。しかし、少年の側には積もっていない。じっと見ていると、彼に触れた雪はドロッと溶けて、彼の身体を黒く汚していく。

「沼賀、これは一体何?!」

 彼は厭らしく白い歯を見せると、しーっと人差し指を一本立てて、少年の方へ視線を向ける。何かが可笑しくて堪らないとでもいうように。

 何なんだ、コイツは!もし死神に鎌があれば、こんなヤツとっくにぶん殴ってるのに。せめて、精一杯罵ってやろうとしたときに、

「そうだよね」

 と少年が口を開いた。妙に澄んだ声だった。

「そうなんだよね。沼の中って気持ちいいんだよね。意外と温かくって。柔らかくって。横になると、包まれてるみたいで安心する。仰向けになると、空もよく見えるし」

 そういう彼自身は床に座り込んだまま、ちっとも沼に沈んでなかった。仰向けになろうともしていなかった。

「だけど、ここからじゃあ上しか見えない」

 私には彼がどんな顔しているのか分からなかった。彼の方に近づこうとしても、足元がぐんぐん沈んでいって、私の視点が低くなる。

「だから、ちょっと見てみたかった。高い所から世界がどんなのか」

 少年の顔はまだ見えない。慌てた私は両手を床につけてしまって、四つん這いで沈み始めた。

「それで、どうやった?」

 沼賀がニヤけ面で尋ねると、少年は振り向いて、少し恥ずかしそうにはにかんだ。泥にまみれた彼の頬は思ったよりも紅かった。

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