第9話

 「……」

 閉ざされた扉を見つめてサラは言葉を失った。

 この状況が天使の言った『或いは』の方か。ここでトビアはサラを喪うのではなく、あの少年の事を心に刻むことになる。

 それで『貴族による悪政に苦しむ人々や貧困といった問題に強い関心を持つようになる』のか。

「……サラ?」

 兄の声が聞こえた。

 地面に倒れたまま後ろを振り返ると立ち上がろうとするトビアの姿が見えた。

 アスモデウスの血を使って紡いだ唄を聴いたのだから暫くは夢の中にいるはずなのだけど……流石聖人となるべき魂の持ち主ということなのだろう。

「大丈夫か、サラ。……何で俺は外にいるんだ?」

「……」

 周囲を見回してもラファエルの姿はなかったが気配はまだ近くに感じる。それから馴染み深い黒猫の気配も。

 魚の臭いから立ち直って天使を牽制してくれているのか、それとも……。

 天使と悪魔の関係は一言では言い表せない。天と地が分かれて以来の宿敵とも言えるし、一方で旧知の仲とも呼べる。悪魔の好む美味しい魂は神の教えを守ることによって洗練されるし、天使が顕れるのは地上に争乱が起こり、人々が疲弊している時と相場が決まっている。しかしいつの時代の争乱にも影には悪魔の姿がある。

 敵対しているのは本当だし、協力関係というのでもない。けれどお互いがその暗躍も勘定にいれて動いているのは確かだろう。彼らはそれを『運命』とか『必然』とか宣うけれど、人の世ではもっと適切な表現を使う。

「出来レースかな」

「今何て……。怪我をしてるのか!?直ぐに治療してもらわないと……っ」

 近づいてきたトビアが足の怪我に驚いて声を上げたが、同時に建物から上がる炎にも気付いた。

「火事……?何が起こってるんだ、強盗達は?」

「まだ中に」

「!助けないと!」

「でもあの子が中から鍵を閉めてしまいました」

「あの子って……ジョミーっていう名前の少年か?」

「はい」

「何でそんなこと……いや今はいい。とりあえず助けないと。サラの足の怪我は」

「出血死するような傷ではありません。後で平気ですよ~」

「ここは危ない。先に離れよう」

「いえ、ここで」

「危ないって言ったろ」

「はい。貴方が危ないことをする時は私も傍にいます」

「駄目だ」

「どのみち少し離した所で這って戻ってくるだけですので。いっそ最初からここで」

「……」

 トビアは押し黙った。妹がこう言う時は土下座しようとも泣き落としを試みようとも無駄だと知っているからだ。結局、兄は言い争う時間がないこともあって妹のわがままを聞き入れた。

 傷の具合を見て「すまん」と謝ってから扉を叩いた。

「ジョミー!聞こえるか?開けてくれ!」

 返ってくる返事はない。

「君達を助けたい!頼む!」

 返事がない。

 もうすでに室内には煙が回っているのか?倒れているのかもしれない。トビアの顔に焦りが滲んだ時だった。扉を隔ててすぐ向こうで声がした。

「……もういいんだ」

 それは確かにあの少年の声だった。しかし先程までトビア達に向けられていた声音とは違う、不思議ほどに穏やかだった。

「もういいって何がだ。何もよくないぞ」

「もういいんだ」

 少年は繰り返した。

「俺が生きていると母さん達に迷惑をかける」

「何でだ」

「俺は罪深い」

 少年の声が奇妙な荘厳さを纏って、そんなことを言った。

「さっき知らない紳士が来て、俺に新聞を見せてくれたんだ。俺には読めなかったけど、何て書かれてるか教えてもらった。……俺はさ、金持ちどもをちょっと驚かせて、俺達が奪われた分の金を取り返してるつもりだったんだ。人を殺してるなんて、誰かの人生を滅茶苦茶にしてるなんて……知らなかったんだよ、本当に。だけどそんなこと誰も信じないし、それにもう取り返しがつかない……」

 知らない紳士、ラファエルか。

 少年の声には諦念が宿り、己の運命を受け入れた者特有の穏やかさがあった。

「……俺は罪深い」

 少年は繰り返した。

「神様なんて信じてなかった。でも今日やっと分かったんだ。神の言葉はずっと俺の中にあって、それが俺がこれからどうすればいいのか教えてくれる」

 天使。

 あれは洗脳なんて使わない。

 ちょっと人の罪悪感を弄って増幅させてやるだけでいい。それだけで神というのは人間に感謝されながら死なせることができる。

 神も天使も悪魔も、どれもこれも人にとって良いものではないのだ。

「だからもういいんだよ」

「よくない」

 トビアが言った。

「何にもよくない」

 はは、っとジョミーが笑った。

「あんた変な人だな。あんたみたいな人にもうちょっと早く会えたらな」

 室内から爆発音がして、それから何かが割れる音。

「ジョミー!」

「……誰かを信じる気持ちなんかもう忘れたと思ってたけど、あんたは本当にいい人そうだからさ。ありがとな……」

 少年の声が遠ざかっていく。

「……っ」

 トビアが扉を叩いた。何度も何度も何度も。

「何が怖い!償いが恐ろしいのか、それとも家族に自分のしたことがバレるのが怖いのか!逃げるのも怖くて、だから死ぬのか!?」

 サラの頬に熱い雫が一滴が落ちてきた。頬に触れ、それから掌を見ると赤く汚れていた。

 ドンッ。

 トビアが扉を殴りつける。

 扉を見ると彼が殴り付けている箇所が赤く染まっていた。

「君が罪を償っている間のことなんか心配するな!君の家族は俺が必ずなんとかするから。罪を償ったら俺の所へ来てくれ。一緒に働こう、俺が君の力になるから君も俺に力を貸してくれ!頼むから信じてくれ!」


 ドンッ!


 その音を聞いた時、サラの心臓が殴られたのかと思った。

「……」

 サラは足の痛みも忘れて立ち上がった。ポケットをまさぐると固い感触が指に触れた。

「お兄様、これを」

 それを握って渡すと、兄はぎょっとした。

「け、拳銃?」

「さっき強盗から拝借したものです。これで鍵を壊して下さい」

「……分かった」

 引き金を引くと銃声が響いた。扉が開くと兄が室内に飛び込んでいく。

 サラも身体を引き摺りながら後に続いた。

 室内は大分火が回っていて一刻を争う状況だった。ジョミー一人くらいなら引き摺ってこられるだろうが、この場にいる全員というのは難しいだろう。

「……」

 いや、トビアは全員助けようとするだろう。全身を炎に舐められても、焼け落ちた梁に熱烈にバグされても。善も悪も今は考えていない違いない。もし頭をよぎったとしても後から考えればいいとか思っているだろう。

「やぁ、お嬢さん。お困りかな」

「どうも」

 床を這うサラの至極近くから声が聞こえた。

「助けようか?力を貸してあげよう」

 声の方を振り向くと黒猫がサラを見つめていた。

「出来レースかな」

「人聞きの悪いことを言わないでくれ。天使が聖人を導くための試練を課すのは当然のことで、俺がそれを止めなかったとしてもそれは君を騙したことにはならないだろう?」

「勿論そうですね」

「さぁ、どうする?君の聖人はこのままでは助からない。天使がいるから偽善に身を焦がして死にはしないだろうが、ここでの経験が聖人へと至る道への扉と繋がっている。その道の終着点には名誉の殉死が待っている。彼の代わりにこの場の全員を救いたいなら俺が力を貸そう」

「……」

「ただし対価は貰う。俺の望む対価は君が再び悪魔となることだ」

「……」

「分かっているだろうが天使の邪魔は入らない。天使の試練は幾つもあり、この機を逃しても次がある。一先ず天使は元悪魔きみを聖人の傍から引き離したいようだ」

「なるほど。閣下の仰りたいことは分かりました」

 以前アスモデウスが言っていたが人の世に悪魔が紛れ込むのは容易い。しかし一緒に暮らしていけるかと問われればそうではない。悪魔になれば人の食べ物は受け付けなくなるし歳も取らなくなる。数年は誤魔化せてもずっと暮らしていくのは厳しいだろう。

 そして人として生まれたサラが穏便に、かつ家族に迷惑をかけないようにシンフィールド家から離れるには……。

「八番目の婚約者のもとに来るといいよ」

 黒猫がぺろりと唇を舐めてきた。

「どうする?」

「……」

 サラの指先が動く。

 触れたのは舐められた唇ではなく、赤く汚れた頬だった。

「アスモデウス様」

 ふ、とサラは微笑んだ。

「私は怠惰を司る悪魔です。私を動かしたいなら、もっと……」

「もっと?」

「尻に火をつけてくれないと」

 サラはさっと指先で頬の血を拭うと、それを口に含んだ。トビアの、聖人の血が身体を巡る。

 それは毒のように苦く、業火のように熱かった。

 サラは上体を起こしテーブルに艶かしく抱き付くオレンジ色の炎に、顔が触れるほど近付き囁きかける。

『食いしん坊さん』

 ぼうっと炎が揺れた。

『この建物すべて食べてしまうつもりなの?それは少し困るな~』

 サラは炎に向かって手を伸ばした。その揺らぎにそっと触れる。

『あなた方にも子守唄を歌ってあげるから、もう眠りなさいな』

 そう言うと、掌中の炎が無邪気に弾けた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

女悪魔が人間に転生したら友人だった悪魔が堕落させようとしてくる のむらなのか @nomurananoka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画