第8話

 香ばしい匂いの正体は見なくても分かる。誰もが分かることたろうが、魚だ。誰かが階下したで魚を焼いているのだ。

 問題は全ての人間が寝入っているはずのこの廃墟で誰がそんかことをしているのかという事と、もう一つの重要な問題は……色欲を司る大悪魔、地獄の公爵と讃えられるアスモデウス閣下の唯一の弱点が魚の内臓だという事だ。

 パッと黒衣の悪魔の姿が消えたかと思うと四つん這いになっていたサラのもとに黒猫がよろよろと寄ってきた。パタリと倒れ、苦しそうにうんうん唸っている。

「閣下……。ずっと疑問だったのですが何故魚嫌いなのに猫に擬態しているんです……」

「これなら魚嫌いだとは誰も思わないだろう……?」

 いや、好物だと思って皆持ってくるんじゃないかな……?

 そう思ったが口にはしなかった。それどころではなさそうだったからだ。

「閣下。ここでお待ちください。今度はと話をしなければいけないようです」

「俺も行く……」

「魚に近付けるんですか?」

「……」

「お待ち下さいね。大丈夫です、彼は人間わたしを傷付けることは出来ないはずですから。どれだけ私の事が嫌いでもね」


 階段を降りて一階の食堂に入ると、屈強な男達が床に倒れ皆死んだように眠っていた。

 カビのはえた子守唄もアスモデウスの魔力を借りることでそれなりの効力を発揮したらしい。

 そんな光景の中でパチッ、パチッと油が弾ける音が聞こえ、魚が焼ける匂いが漂うというのはあまりに不調和だった。

「こんにちは~」

 サラは部屋の奥に佇む青年に声をかけた。

 彼は暖炉に直接生魚を投入するという雑な方法を用いて魚を焼いていた。

 淡く輝くような蜂蜜色の髪が揺れ、彼が振り返る。黒縁眼鏡の向こうの理知的な碧眼がサラを射抜いた。

 トビアの友人、アザレアだ。

「ああ、無事でしたか。トビアも大事ないですね?」

「……あまり私の友をいじめないで下さい」

「友?誰のことですか?」

「うーん、魚嫌いの猫のことです。ラファエル様」

「……」

 その名を呼んだ瞬間、建前上張り付いていた愛想笑いが消え去り、彼の本来の表情が戻った。 

 いかなる悪も許さない断罪者、あるいは神意を体現する偉大な天使の顔だった。

 大天使聖ラファエル。それが彼の本当の名だ。

「……三百年も前に滅んだ亡霊がどうしてまた聖人に取り憑いている」

 サラを睥睨し、凍てつくような声でラファエルが言った。

「聖人?誰のことですか?」

 彼の言い草を真似ると青い瞳が更に冷える。

「トビアのことだ。彼は三百年前も……いや、それより前の生でも、神意を民衆に示すという役割を担っていた。それを成し遂げれば彼は聖書に名を刻む聖人となっていたはずだ。それを……何度邪魔すれば気が済むのだ、怠惰の悪魔め」

「……お言葉ですが~、私は天界の邪魔をしようと思ったことは一度もなくてですね。悪魔わたし悪魔わたしらしく欲望の赴くまま気の向くまま。やりたい事をやっただけでしたが、それが結果的に天界を出し抜くような形になっていたのなら申し訳なかったです~」

「貴様……」

 聖人と呼ばれる者達は皆、人々を安寧の世に導く為の偉業を成している。そしてこの行いに聖性を持たせるのは聖人の殉教だ。

 命をかけて信仰を貫くからこそ、その行いは尊く、気高く、聖書に名を刻まれるほどの価値があるのだ。

 神の試練。

 聖人達にはそれを乗り越える力がある。

 そのことをサラは知っている。

 彼は、……トビアは決して悪魔の誘惑に堕ちることはないだろう。どんな険しい神の試練にも打ち克つだろう。

 自ら輝く唯一無二のダイヤモンドみたいなあの魂。

 それでもサラは神の試練など糞食らえだと思う。平和を愛する者に平和にしてやるから敵を殺せという神託。神を崇める者に神の為に身を捧げろという天使。自分の幸せを犠牲にして人々の為に死ねという民衆。

「……きら~い」

 思わず溢すと天使が聞き咎められた。

「何だと?」

「独り言です~。……って、ん?何か煙たい……?」

 不意にサラは随分焦げ臭いことに気が付いた。ちらりと暖炉を見るとラファエルの放り込んだ魚がただの黒い炭と化しており、ぼうぼうと燃えている。

 嫌な予感がした時、バチッと大きな音がして魚が弾けた。飛び散った火花がそばに置いてあった麻紐に飛び込み、ちょっと不味いかなと思った時にはすでに遅かった。サラの見ている前で麻紐を火種に炎は一気に大きくなった。

「……雑な焼き方するからですよ。火を消して下さい。このままでは皆焼け死んでしまいます」

 サラはラファエルを見る。

 しかし天使は顔色一つ変えず、動く気配もなかった。

「……まさかこれも聖人に至る為の経験の一つだと言うんですか?強盗達を焼き殺すことが?」

「ここがトビアの人生の分岐点だ。彼はこの経験で悪を強く憎むことになる。貴族による悪政に苦しむ人々や貧困といった問題に強い関心を持つようになる」

「或いは?」

 どういうことですか、という疑問は口にはできなかった。突然背後で爆発が起こった。途端足に鋭い痛みが走り、サラは床に倒れた。

 火薬?……爆弾?

 強盗団はそんなものまで用意していたのか。引火して爆発した衝撃で酒瓶が割れ、その破片がサラの足首に突き刺さっていた。しかも神のお導きかご丁寧に両足だ。

「……天使は人に攻撃できないはずでは?」

「攻撃?誰が攻撃している。事故が重なることは不幸だが、それは神の定めた運命ではない。偶然と運命は違う」

「屁理屈ぅ~」

 サラは朗らかに天使を非難した。

 この火事で人が死んでも……ああ、なるほど不幸な事故だって?

 ラファエルが階段に向かって歩き出す。すぐに彼はトビアを抱えて降りてきた。そしてそのまま外に出てしまう。

「或いは、って何だろう……?」

 天使の奇妙な言い回しに首を捻る。

 ここがトビアの分岐点とラファエルは言った。サラが死ねばトビアは悪を憎むことになる?もし死ななかったら……或いは、ということだろうか?

 サラがトビアに望むことは一つだ、ずっと。

 幸せになってほしい。

 偉業なんて成し遂げなくても、平凡な人生でいいから。どうか幸せに。

 彼が幸福な人生を全うする為に、ここでサラが離れた方がいいのか。それともまだ傍にいるべきなのか。

「……」

 強盗達と同じように埃っぽい床に転がり染みの付いた天井を見つめて考えていると、突然ぐいっと手を引っ張られた。

「貴方は……」

 そこに立っていたのは、先程サラとトビアの見張りをしていた少年だった。ああ……倉に酒を取りに行くと言ってたっけ。だから子守唄を聞かなかったのだろう。

「えーと、ジョミーさん?見ての通り火事ですから逃げてください」

「……」

 少年の顔色は悪かった。赤い炎に照らされているというのに。

「どうし……っわ!」

 グイグイとジョミーが引っ張ってくる。いや、引き摺ろうとしている。足を負傷して立てないサラを助けようと玄関まで連れていこうとしてくれている。

 足から流れる血を踏んでジョミーの足が滑った。サラの上に倒れ込んでくる。

「おっと!大丈夫ですか。もうここで平気ですよ。ここからは這っていくので貴方は先に逃げてください」

「……っ」

 少年は返事をしなかった。立ち上がるとまたサラを引き摺ろうとする。

 何か様子がおかしい。ラファエルが彼に何かした?いや、天使は人に直接危害は加えられない。暗示や洗脳も使わないはずだ。なら……。

「何か言われたんですか?」

「……俺達は罪深い」

 少年が言った。

「俺は人をたくさん不幸にした。俺のしたことがバレたら病気の母さん弟も妹も今よりもっと不幸になる」

「んーどうした?知らない怪しい人の言うことは全部嘘だよ」

「……これでいいんだ」

「ジョミーさん?」

「こんな事頼めた義理じゃないけど、もし出来るなら……母さん達に伝えてほしい。元気でって」

 ドンッと突き飛ばされて外に出た。次の瞬間扉が閉められ、鍵の閉まる音が響いた。

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