第7話

 沈めた指先が影から釣り上げたのは黒猫の前足だった。

「……」

 ポイッと再放流して、もう一度手を伸ばす。次に掴んで引きずりだしたのは白い腕だ。女のように滑らかだけど骨張った関節は男のものだと分かる。

 あまり美味そうではないその骨付き肉に噛み付くと口の中に血の味が広がり、嚥下と同時に人の身には強烈過ぎる魔力が熱く駆け巡った。

「……っ」

 用が済んだので口を離すと、途端に顎を掴まれ親指と中指で顎を固定される。無理矢理人差し指を口腔内に突っ込んでこようとするのでペシッと腕を叩いて吐き出した。

 ただの戯れであったのだろう。抵抗も、それ以上の嫌がらせもなく、白い腕が離れていく。

「……」

 サラは息を整えて

 身体の中の熱を放出するように

 奪った魔力を声に込めて古い唄を歌った。


『まだ起きるのには早い時間。

 お眠りなさい。

 月も太陽も眠りについて、世界は真っ暗闇の中。

 ひとりぼっちで起きているのが怖いなら皆手を繋いで夢の中へ。

 誰も目覚めなければもう怖くない……』


 それは眠気と怠惰を司る女悪魔、ブーシュヤンスターがかつて聖人を眠らせる時に奏でた音色だ。

 子守唄みたいにゆったりと柔らかく、童謡マザーグースみたいに軽やかで不穏な旋律。

 魔界の言葉は人の耳には認識出来ないだろう。しかしこの歌を聞いた人間は眠らずにはいられない。

「……」

 歌い上げたサラが目を開けると辺りに拍手が響いた。この歌を聞いた人間が眠らずにいられないなら、起きているのは人ならざる者だということだ。

「久々に聞いたな、君の歌を」

「魔力を貸してくださってありがとうございます、アスモデウス閣下」

「構わないよ」

 大きな羽を広げ空中に浮かんだ黒衣の悪魔が美しい瞳でサラを見下ろしていた。

 その姿を直視した時、なかなか強い精神力で沸き上がる欲求を否定しなれば、人間であるこの身体は簡単に跪いてしまいそうになる。

「しかし無償ただで貸した訳じゃない、分かってる?俺を呼び出してその力を使ったのだから君は対価を支払わなければならない」

「分かってますよ。魂でも声でも寿命でも運気でも、お好きな物を好きなだけ持っていって下さい」

「幾らでも好きなだけ?大安売りだな」

「私に私自身の価値は分かりません。閣下が価値があると感じた物があるのなら過不足なく取り立てて下さい。悪魔との契約はそういうものですから~」

「へぇ……」

 長い睫毛を微かに伏せて思案する様は、芸術家が何本筆を潰しても表現しきれない程に麗しい。

 しかしそれほど美しく悩む程、サラから取り立てられるものは多くはないと思うが。

 アスモデウスが口を開いた。

「それなら……記憶は?」

「記憶?」

「前世から続く君の記憶、そのほんの一部……一日分でもいい。それでどうかな?」

 その提案はやや予想外だった。サラは少し迷って、それから首を振った。

「記憶はあげられません」

「へぇ?何故?」

「私の記憶は魂に刻み込まれていて、無理に引き剥がそうとすると魂ごとバラバラになるように呪いをかけたので」

「……誰がそんなことを?」

「前世で死ぬ前の私ですね」

「何の目的でそんなことをしている?」

「死んだ後の肉体から記憶を覗かれるのが嫌だったからですね~」

「……それほどまでに」

 そこで初めてアスモデウスの声に怒気が宿った。

「それほどまでに聖人を想うのか……?」

「閣下?」

「君が前世で死んだのは魔力の補給を怠ったからじゃない。魔力を消耗しすぎたからだ」

「とんでもない誤解です。怠惰の悪魔がそんなに働く訳……」

「悪魔としての使命などではない。君は聖人をまもっていた。愛していたからだ」

「……私が、聖人を?話が飛躍し過ぎですよ。貴方が少し前に話していたことなら認めます。かつての私には聖人となる人間を探し当てる力がありました。けどそれを隠していたのは私にとって特別なご飯である聖人を横取りされるのが惜しかったからですよ」

「君は本当に嘘つきだね。人間になってもっと嘘にまみれたようだ」

 羽を器用に折り畳み、アスモデウスはサラの前に降り立った。

「君が護っていたのは悪魔ぼく達からだけじゃない。天使からもだ。聖人と呼ばれる者とは即ち殉教者だ。神に命を捧げることで人間は聖人に成る。君はを神の使命から護っていた。一人で魔界と天界を欺いて、魔力を使い果たして死んだんだ」

「本当にそうならドラマチックですね~」

「ああ。まるで君の方が殉教者だ」

 サラが微笑む。

「君の聖人が誰なのか、私が知らないと思っているのか」

「知っているのなら私は用済みでしょう?これ以上何を聞きたいんです」

「君の口からその名を聞きたい。そうすれば魔界に取り成して君を再び悪魔として転生させてやることも出来る」

「……」

 そこで初めてサラは驚いて取り繕うことを忘れてしまった。

 誰が信じるだろう。

 色欲を司る大悪魔、地獄の公爵と讃えられる彼がこれ程友情に篤いとは。

 固まっているとアスモデウスが蠱惑的な金緑の瞳で覗き込んできて、サラは目を逸らすことが出来なくなった。

「サラ?」

「……はい」

「いい子。返事ができてとてもいい子だね。もっと深く、俺の目を見て」

 声に誘導されるように瞳を覗き込むと、無意識に膝が震えた。良くない状況だ。先程彼の血を取り込んだことで暗示にかかりやすくなっている。

「跪きたい?いいよ、好きにして」

「したくない、ですね~……」

「そう?出来れば自分から言うことを聞いてほしいな。人の頭をかき混ぜ過ぎると壊れてしまうから。悪魔はあまり繊細な魔力の制御が得意ではない……サラ?」

「……おっとぉ?」

 気が付けば随分床が近くにある。

 いつの間にか両手両足を床についた姿勢になっていることに気付いて、サラは苦笑した。

「君は人間に生まれ変わったんだろう?それとも犬か猫になったの?」

 クスクスという笑い声が頭上から溢れてきて、サラの後頭部に当たって砕けた。……一瞬友情に篤いと思ったのは、どの角度から考察しても勘違いだった。

 しかしこれで眼を見ないで済む。

「サラ。悪い子だね。すぐに反抗心を抱く。俺にも魔界にも天界にも、君は唾を吐かなければ気が済まないのか?」

 サラの意図に気が付いてアスモデウスは溜め息をつく。

「閣下?膝を折る快楽は私には必要ない……」

「綺麗だね君の魂は。昔から」

「……」

「そんなにも彼が気に入っているのなら、彼も悪魔にすればいい。そうすれば天命も関係ないし、ずっと傍に置いておけるよ」

 悪魔の優しい声。


「言いなさい。聖人の名前を」


 サラはのろのろと頭をあげ、真っ直ぐ悪魔見つめたまま言葉を紡いだ。

「言わない」

「……」

「言ったら死ぬ」

「……どういうことだ?」

「聖人の正体を言おうとしたら舌が割ける呪いもかけてるから、ですね」

「狂信者め!」

 ははっ、とサラは心の底から笑った。

 その時奇妙なことが起こった。階下から香ばしい匂いが漂ってきたのだ。

 アスモデウスの顔色が変わった。

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