本文
三月上旬にしては暖かい日だった。
空は曇っていて、日差しが少ない。風がないために、気温が上がったのかもしれない。
院内を歩く男は、コートを着たままだった。銀ぶち眼鏡の奥は暗く淀んでいる。その後ろを女のヒールがたてるカツカツと高い音だけが響いた。
「いつの時代も病院というのは陰気で気がめいる」
男の独り言に女は黙ってうなずく。黒い肩までの髪がかすかにゆれた。 男は歩きながら慣れた様子で手袋をはずす。
病室まで来ると、何のためらいもなく中へと入る。昼間だというのに、物音一つしない。患者のベッドを仕切るカーテンは何の妨げにもならなかった。
骨ばった手が静かに眠る患者の額に触れる。
男の眼に写るのは、 黒い亀だった。
患者が息を吸う。苦しげにまゆをひそめ、両腕が助けを求めるように動いてシーツを掴んだ。
男は亀が消えても無表情のままだった。隣のベッドに向かい、同じことを繰り返す。
「人が一番恐れているものが、君に分かるかい」
男の声は見た目以上に年老いていた。しわがれ、陰気なものだった。
女はまたも答えなかった。
「お前のような人間には分からない」
女に言い聞かせるものではなく、独白だった。
「全く、 貪欲も大食も罪だというのに」
亀は人間の上をはいづりまわり、何度も口を動かす。
「恐怖は美味いだろう」
ただ口からこぼれた言葉には、何の感情も見えなかった。
二人は廊下に出る。薬品と、患者の生活する臭いが混ざった空気を吸う。
「やはり病人には耐えられないのかもしれません。私も、他の二人も身体には問題はなかった」
「そう、身体にはね」
馬鹿にした口調で吐き捨てると、次の病室へ向かう。
看護士も警備員も現れる様子はなかった。
夕暮れの境内に金木犀の香りが漂っていた。うっすらと星が姿を見せ、空はすみれ色に染まる。
巫女姿の伏見瑠子が軽く伸びをする。首の後ろでくくられた黒髪は、艶やかに流れた。
「お兄ちゃん、頑張ってるよね」
独り言の後、箒を神社の裏へと仕舞いに行く。イチョウの葉がひらひらと落ちてくる。巫女の朱い袴にまとわりついて、模様を描いた。瑠子は上を見上げていて、足元に気づくのが遅れた。
「きゃあ」
手についた砂を払って、顔を上げる。すぐ隣に黒い塊が横たわっていた。それはうつ伏せになってピクリとも動かない。瑠子が心配そうに声をかける。
「起きてよ」
頭をそっと撫でる。
「瑠子がいるから怖い夢なんて見ないよ。でもさ、こんなところで寝てたら風邪引くよ」
小さな声に少年が目を覚ましたのか、肩が震えた。
ゆっくりと起き上がる。掠れ声は何を言っているのか聞き取れなかった。瑠子が走ってその場から立ち去ってしまう。
学ラン姿の少年はその場に座り直した。虚空を見つめたまま、動かない。
慌ただしい足音が近づいてきた。瑠子の手には柴犬のイラストのマグカップがあった。なみなみと注がれた水がこぼれて、地面に濃いシミを作る。少年はぼんやりとしていたが、受け取って飲む。
「ごめんなさい。すぐ出て行きますから」
下を見たまま少年が言う。
「今からご飯作るから、一緒に食べよう」
「だめだ」
厳しく叱る声に瑠子は首をすくめた。
「知らない人を家に招き入れたら、だめだよ」
泣きそうな大声が響く。
足音もなく薄闇の中で銀色に輝く犬がそばに来た。少年は何度か瞬きをした。毛並みが美しいせいで銀色に見えたのかもしれない。
「シロがいるから大丈夫だよ」
にっこりと笑った瑠子の左目の下に泣きぼくろがあった。
「そんなに、これ、気になる?」
小首をかしげると、また音もなく黒髪が流れた。
瑠子がにっこりと笑った。
「よく言われる。全然泣かないのに変なのって」
薄闇の中、二人の間を風が通りぬけた。
「ねぇ、寒くなってきたし、とにかく家の中に入ろうよ」
少年は全く動こうとしない。瑠子は隣にしゃがみこんで、小さな声で言った。
「あのさ、瑠子はね、お父さんとお母さんに拾ってもらったんだ」
少年が初めて顔を上げる。微笑んだままの瑠子は言葉を続けた。
「二人は困ってる人は助けなさいって、よく言ってたの。お兄ちゃんも警察の人なんだ。あなたを傷つけたりしない。約束するよ」
「違うよ。僕があなたを傷つけたくない」
目をそらしていたが、はっきりと言った。
「へぇ。どうやって瑠子のこと傷つけるの?瑠子強いんだけどな」
自信ありげに、にやりと笑った。
「僕は、僕のやったことは」
言葉は、続かなかった。瑠子が手を繋いでも、振り払うこともなかった。
「ほら、行こう。これから栗ご飯を炊いて、 鮭のホイル焼きもつくらなくちゃいけないんだから」
少年はただ首を横に振る。
「お願いがあるの。瑠子とごはん食べてくれないかな」
今までのように少年の目を見ることなく言った。
「誰かと食べる方がおいしいと思うの」
「僕は、すぐに、出ていきます。本当に」
結局少年の方が折れた。
「僕は、おなかが減ってないので食べませんが、それでもいいですか」
「無理に食べてなんて言わないよ。ありがとう。嬉しい」
そのまま少年の手をひいて家へと向かう。 神社の裏手にある平屋の家は一見すると広くない。
「伏見さんちへようこそ」
「お邪魔します」
靴をぬいで家に上がると、床はひんやりと冷たい。
「ごめんね、寒いよね。今お兄ちゃんの服を借してあげる」
「いえ、僕なら本当に平気です」
瑠子は廊下をパタパタと走っていってしまう。
シロは大人しく玄関でまっている。
「そうか。足をふくまで入れないのか」
独り言にシロが鼻をならした。
「僕がふいたら怒るだろうな」
「いつのまにシロと仲良くなったの?」
手には灰色の男物の部屋着があって、本人は真っ白なふわふわの部屋着になっていた。
「十五夜ってもうすぐだったよね」
「あれ、十五夜って九月じゃないの?もう十月だよ」
「そうだね。ごめん」
シロの手を脚を布でふくと、すぐに家の中を歩いていく。
「伏見瑠子です。よろしくお願いします」
「星守勇希です。こちらこそよろしくお願いします」
二人ともおじぎをすると照てくさそうに笑った。
「あの伏見さん、その服だと料理するときに汚れませんか」
「そうなんだけど、いいの」
先を歩く瑠子の表情は分からなかった。
「廊下のつきあたりがトイレで、 手前の部屋は来客用」
部屋の中に入っていき、ふすまを開ける
「 窓ぎわの部屋はお兄ちゃん」
さらにふすまをあける。
「 隣が瑠子の部屋」
時計まわりに家の中を案内していく。
「瑠子の部屋は台所に近いの」
左手側がお風呂場で、正面のガラス戸を開けるとトイレのすぐ前に出る。ずいぶんとせまい。
「勇希はどっちで寝る?」
「どっちって、僕はすぐに出ていきます」
「あとで考えよっか」
軽い足どりで、イスの上のエプロンをとりにいく。
シロが勇希との間の間に現れた。
「僕も何か手伝いします」
二人はずっと目を合わせないままだった。瑠子がご飯を作っても、勇希は食べないまま黙って座っている。
シロは大人しく瑠子の足元に伏せていた。
「本当にお腹が空いてないんだ」
箸を手に取る素振りすらみせない。瑠子はゆっくりと食事を終えていた。
ちょうど午後七時を知らせるラジオの音は、二人の沈黙を埋める。
「先日の西区での事件に続いて、三件目です。今日も通行人が倒れる事件がありました。いまだに原因はわかっていません」
男性アナウンサーの声に瑠子が顔を上げた。
「勇希、ねぇ、お茶とコーヒー どっちがいい?お兄ちゃんはいつもコーヒーなんだ」
わざとらしく一段明るい声だった。
「もう少し、ラジオ聞いててもいいかな」
「うん」
勇希が真剣に耳を傾ける。
ラジオはしばらく事件についての内容を放送していたが、時間が来ると次の話題に移っていった。
優希は時間を忘れたように椅子に座ったままだった。
「あのさ、僕が吸血鬼だったらどうする」
独り言にも聞こえた。
「瑠子の血をあげるよ」
瑠子は即答した。それも、鉛筆を貸してあげるくらいの気安さだった。
「何で」
「だってお腹空いてるでしょ。さっきから何も食べてない。」
不思議そうに勇希を見返す。
「勇希の言うことが本当なら、いいよ」
「良くない。そんなこと許しちゃだめだ」
聞いたくせに、反対のことを言い始める。
「平気。吸血鬼だっておなかが減ってたらかわいそうだよ」
そんなことはあり得ない。
お腹が減ってるからって、吸血鬼に自分の血を差し出すのか。
勇希は自分の唇をかんで耐えた。 足元を這う亀と同じように、何日も飲まず食わずでのどが渇いていた。水すら体は受けつけない。
瑠子の手首は細い。周囲に人もいない。この家には二人きりだった。
―今ならお前にだってこの子を食べられる―
悪霊の恐ろしい誘惑の響きは優希にしか聞こえない。
もらうだけだ。何も悪くない。人間だって家畜を殺すだろう。お前は その子を食べつくすわけじゃない。少し貰うだけだ。
「そんなこと言って」
実際のところ、亀は一言も話していない。 勇希が聞いたのは幻聴でしかない。
ふらつきながら立ち上がると、歩き出す。どこへ行けばいいのかも知らなかった。
瑠子と目が合った。
二人の足元で、シロはじっと身を潜めていた。
「瑠子さん、僕の目を見て」
闇夜の満月のように薄い色の瞳だった。一瞬目が合う。
人間の感情を食べる。
口の中に錆びた鉄の味が広がる。生臭い臭気さえ感じるほど。固まりかけた血液か内臓のように暖かく、弾力のあるのものが口の中に存在した。全身から冷や汗が吹き出るのを感じる。
喉の奥に押し込む。その不味さに声が出ない。
胃の中まで落ちてくると、火が付いたように体に力が戻ってくる。めまいやだるさが嘘のように消え、渇きも止まった。
「あの、瑠子さん、気分とか体調に変わりはありませんか」
恐怖とは違う味がした。
「あんな変な味がするなんて一体どういうことだ」
囁きにシロが耳を揺らした。
「全然平気だよ。それよりも何か食べた方がいいよ。」
顔色も変わらないし、普通に歩いて台所へと向かう。
「瑠子さん、ご両親はいつ帰ってくるんですか?」
ポニーテールが揺れて、元気な笑顔を見せる。
「お父さんとお母さんはもういないの。 お兄ちゃんはそのうち帰ってくると思う」
「ごめんなさい」
謝る以外できることはなかった。
「何で謝るの」
「悲しいことを思い出させてしまったから」
「そうだね。二人が亡くなったことは悲しいけど、思い出まで消えた訳じゃない。勇希は知らなかったんだから、気にしないで」
ひらひらと手を振る。ラジオからは曲が流れてきた。
「今日は課題も終わったから寝ようかな」
普通、異性と二人きりなんだから、もう少 し警戒するものではないのか。勇希は言いたいことを飲み込んだ。
「ワン」 と、シロが牙をむき出しにして吠えた。
「僕の考えていることが分かるのか」
うんざりしたような言い方にまたも、鼻をならす。
「僕はそろそろ帰ります」
雨が降ってきたのか、屋根をたたく音がする。 最初は、カッ、カッと高い音が、一定のリズムを刻む。
続けて、サーッと音が増えてくる。
「今日の予報はずれちゃったのかな」
瑠子の独り言が聞きとりづらいくらい大きくなる。
シロがうなり声を上げた。
「シロ、僕は瑠子さんと仲良くしようと」
足元にいるはずの亀が腕をよじのぼって くる。
思わず、手をふりはらうが、くっついたままだった。
「どうしたの?虫でもいた?」
毛を逆立てるようにシロがうなる。瑠子の服をくわえ、あとずさるように引っぱる。
「シロ、そんなことしちゃだめだよ」
家の中に、薔薇の香りが漂ってくる。
シロが鼻をひくつかせ、たて続けに吠える。
「近くに薔薇なんて植えてない」
瑠子は眉をひそめた。
雨戸が外からこじあけられる
「勇希、かくれんぼの時間はお終いよ」
叱りつける女の声は、外から二人にもはっきりと聞こえた。
「家族?」
「僕に家族はもういない」
勇希は玄関から外へ出る。
植物のつたが足にからみついて、引きずられる。
地面に爪を立てても、何の意味もなかった。
「海人と英莉だけじゃなくて、お前も言うことを聞かないんだから」
庭まで引きずられる。
闇の中に立つ女は、白いレースのブラウスに、黒のタイトスカート姿だった。一見すると、 秘書のようにも見える。
肩の上で切りそろえられた髪が風にゆれる。薔薇の香りが強くなる。
「久遠はどこだ! 」
喉の奥から怒りと共に吐き出された言葉 は別人のようだった。
「お馬鹿さんね。私がちゃんと躾なおしてあげる」
勇希は体から血が抜けていくような気がした。
④虚ろな人形は不味い愛を食べる 登崎萩子 @hagino2791
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