第8話 開戦

 紫苑は学校を出る前に華恋の自転車を拝借し、後部のリアキャリアに華恋を乗せて公園の中を疾駆していた。

 途中、シェパードが鸞に掴まって追いかけてきたのが見えたが、加速で振り切った。

 深追いはしてこないだろうと紫苑は予想していたから、わざわざ追いかけて来たことは意外だったが、それも逃げ切ってしまえば関係のないことだった。


「どこに向かってるの?」


 顔を上げていると強い風が顔を打つ為、紫苑の背中に左頬を埋めている華恋が質問を投げかけた。


「俺の家だ」


 その問いに端的に答えた。

 シェパードに紫苑の家は既に割れている。それに、家には監視がもう一人ついている。だが、デメリットを承知でも向かうだけの価値がそこにはあった。


 あっという間に公園を抜け、平日の昼間とあって閑散とした繁華街を超えると、灰色のレンガ調のマンションが見えてきた。

 その前の駐輪場に自転車を止めると、彼らはエレベーターに乗り込み、最上階の部屋の東雲とある表札の前に立った。

 バッグから鍵を取り出し、回す。その音を聞きつけたのか、扉を完全に開け放つより早く、居候の声が中から響いた。


「遅かったな。どこで道草食ってた?」


 リビングに置かれた木製の椅子に腰を下ろし、背もたれに肘を掛けて、銀髪の女が鋭い三白眼をこちらに向けていた。

 歳は二十代後半と言ったところ。反った姿勢で振り返っているので、床につきそうな長い髪と首に掛けたネックレスだけが地面と垂直に垂れていた。


 彼女はさらに言葉を続けようと思ったが、華恋の姿を見て話の接ぎ穂を失った。

 目を見開く様に驚くが、それも一瞬で、次に彼女は何故か諦念の様な悲しげな表情を浮かべた。

 紫苑にはそれが理解できなかった。だが、かねてから感じていた彼女の奥底に溜まった闇が表層化した様な感じを受けた。


「赤羽、こいつが居候のアネモネだ。それで、アネモネ。実は今——」

「あぁ、言わなくていい」


 彼女は紫苑が纏う仄かな血の匂いをかぎ取っていた。それで、粗方の事情に察しがついていた。


「まぁ、色々と言いたいことはあるが——」


 いつも通りの調子に戻してから、小馬鹿にするように口の端を上げて、


「ぬかったな、紫苑」


 アネモネはそう言い放った。

 紫苑はその真意を計りかねたが、それにたどり着く前にアネモネが彼の肩の辺りを指し示した。そこへ焦点を合わして、紫苑はギョッとした。


 そこには、小指の爪ほどの虫が止まっていた。六脚で、ただの昆虫の様に感じるが、胸部が凹む様に湾曲していて、羽がぎとぎとと脂ぎった様に照り返す。

 それが、まがいであることを、無意識に理解していた。


 なぜ、こんなところにまがいがいるのか。嫌でも最悪の考えが脳裏を掠める。

 その時、ベランダに続くガラス戸が大きな音を立てて割れた。

 神々しい鮮やかな青い鳥が丸い姿勢をとり、翼を盾にして部屋へ侵入してきたのだ。床に足を下ろすと、その中からはシェパードが出てきた。


 先の会敵した時間から察するに、恐らく学校からここまで一直線で来たのだろう。

 アネモネを頼るべく家に戻る可能性が高いことは考えつくが、それでも迷わずやって来たのには何かカラクリがある。紫苑は彼の薬指を注視した。


 第四席。

 第五席が空白だったことで、すっかり第四席までは前回戦った時と同じだと思い込んでいたが、それが失態の原因だったのだ。

 恐らく、肩に止まったこの霊蟲が新たなる第四席。効果は、おおよそ発信機の様なものと考えるべきだろう。


 シェパードは落ち着き払った様子で左手を横に振るう。それに呼応して、鸞と霊蟲が消失し、代わりに壓虎と土蜘蛛が現れた。


「すまない、アネモネ。後は頼んだ」

「承知した」


 彼女は部屋に立てかけていた彼女の背丈ほどある大太刀の鞘を左手で握り込んだ。そうして、右足に重心をおき、すらりと立ってシェパードを鋭い眼光で睨みつける。

 座した姿勢ではよくわからなかったが、立ったアネモネは意外にも身長が高く、スタイルの良さを周囲に見せつけた。


「一体、単身乗り込んで来てどうするつもりだ? お前一人で私をどうにかできるとでも?」

「俺様もそこまで驕っちゃいないさ。だが、直にジャックも来る。それに、今の目的はお前らをどうこうすることじゃない。華恋とかいう女の確保だ」


 その言葉にアネモネは咄嗟に華恋の方へ振り向いた。

 その隙に、壓虎が腕を振り下ろす。何倍もの重力がアネモネに押しかかり、反動で膝をついてしまった。

 その間に、土蜘蛛が糸疣をひくつかせて粘ついた糸を紫苑たちの方へ向けて飛ばした。それで、華恋をシェパードの側まで引き寄せて、再び鸞に掴まって逃走する気である。


 だが、糸が彼女へと付く前に刀がそれを断ち切った。

 それは、強引に重力の呪縛から脱却し、紫苑と同じ鍵を用いて加速したアネモネだった。


「そう簡単にはいかないか」


 シェパードはそう呟くと、再び壓虎が腕を振り下ろした。

 かくして、超人的な技の応酬が始まった。そんな彼らを傍観していた華恋がとうとう然るべき言葉を溢した。


「一体、何なの。訳もわからずあの男がまがいを操って私たちを襲ってきたり、そしたらあなたが魔法みたいな技を使ってたり。まがいに関しては百歩譲って、フィリング・デビルの件があるから信じるわ。だけど、あなたたちは何者? 人間? それとも、まがい?」


 紫苑は、その言葉を聞きながら、床に腰を下ろした。シェパード相手に油断した訳ではない。

 学校からぶっ続けで鍵を使いながら、自転車を漕いできたのだ。体は限界に近い。

 むせ返るように咳をすると、口から鉄臭い血が溢れてきた。


「何者……、か」


 右手にこぼれたその血を眺めながら、紫苑は思案した。

 最早、ここまで巻き込んでしまった以上、隠し立てする理由もない。だが、どこから話せばいいかに少し迷った。


「お前は神を信じるか?」

「神?」


 唐突に出てきた単語に彼女は質問に質問で返してしまった。


「まぁ、信じるか信じないかは大して問題じゃない。結論から話そうか。——神は存在する」


 華恋はその言葉に息を呑んだ。

 胡散臭い響きだが、信じさせる何かが彼の口調には宿っていた。


「前に、まがいは人の心が揺れ動いた時に生まれると件が言っていたな。なら、ほぼ全ての人類が普遍的に心を委ねる神という存在は、地球上において最も巨大なまがいと言えるだろう」


 淡々と彼は言葉を綴った。


「よく、神は全知全能と形容されるが、人々が各々の『完璧』のイメージを神に押し付けたが故に、意志は無私の領域まで及んでいて、神が何かを思って何かをするということはなくなった。しかし、全知という部分に関しては、過去、現在、未来の神を想う人々の知識が集約され続けている。その機関と成り果てた知識の宝庫を俺たちは『アカシックレコード』と呼ぶ」


 終わりの見えない話に華恋は閉口するが、構わず彼は続けた。


「そのアカシックレコードにアクセスする手段を俺たちは持っている。そいつが『鍵』であり、鍵を持って、理を超えた力を持つ者。まがいと同じ領分まで身を堕とした者を、敬愛と侮蔑を込めてこう呼ぶ」


 言葉を区切り、紫苑は十分に溜めを作り、


「——『まがいもの』と」


 そう言い放った。目の前では、依然シェパードとアネモネが戦いを繰り広げていた。


「だから、さっきの質問に答えるなら、俺たちはまがいもの、ということになる」

「……まがいもの」

「あぁ、俺やアネモネは『統劫刹那』という鍵を持っている。……去年の春にアネモネに出会って、鍵の半分を譲渡されちまった。それから、俺もまがいものだ」


 紫苑は、視線を戦いから華恋へと動かした。くりくりと大きな眼球と目が合った。


「そして、どういうわけかお前も俺たちと同じ鍵を持っている」

「私も?」

「そうだ。さっきの土蜘蛛から逃れた時に使ったあれは、間違いなく統劫刹那だ。同じ使い手の俺が断言する」


 華恋は俯いた。無論、理解が及んだわけではない。だが、それ以上に今、紫苑に尋ねなければならないことがある様な気がした。


「そう。それじゃあそれはそれとして、もう一つ。どうして、今、私は狙われているの? フィリング・デビルは消滅したでしょ?」

「それは、俺も分からない。ただ、俺たちは去年、アネモネに鍵を譲渡されてから何度かシェパード、ジャック、スカイイーターと相見えたが、それは奴らから一方的に襲われてのことだ。ただ、俺は統劫刹那を手にした時から襲われ始めた。そして、お前も同じ鍵を手に入れ、シェパードに狙われている。これはどうにも関係がある様に思う」


 そこまで、述べてから、彼は再び顔を前へ向けた。


「まぁ、それを今話したところで埒は明かないさ。……それよりも、どうやら決着みたいだ」


 眼下のアネモネは、その大太刀で壓虎の前脚を切り落としていた。これでは、重力の攻撃は使えない。土蜘蛛も三本の歩脚を折られ、自慢の鋏角は削ぎ落とされていた。

 徐々に顔が青くなっていくシェパードはゆっくりと後ずさった。


「どうしてだ。どうして、ジャックが来ない」


 怯えと苛立ちを交えて呟く。


「お前に恨みはないが、再三、私と紫音を狙ったツケだ。……ここで、その命、貰っていくぞ」


 アネモネは、一気に自身を加速させ、その大太刀を上向きに振るう。鋒が少しだけフローリングを抉った。

 そして、刀がシェパードの肉を捉えて、派手に血が飛び散る。


 しかし、彼はそれでもまだ存命だった。

 シェパードは斬られる直前に鸞を顕現させ、それに左腕を引かせて強引に避けたのだ。だが、完璧に避け切ることは叶わず、軌道上に残った右腕が大太刀の餌食となってしまっていた。


「いってぇ!」


 溢れ出す血液を抑えるように、切り口を左手で抑えた。だが、それでも指の隙間から凄まじい水圧で溢れ続けた。


「外したか」


 アネモネは太刀を横薙ぎに振るい、刀身に付いた血を払った。半月状の血痕ができる。

 シェパードは右肩から流れ出る血液よりも、その血痕の方が余程恐ろしく思えた。

 アネモネは再び刀を構える。だが、今度はそれを振るえなかった。

 突如として、シェパードを庇うように立ちはだかる女が現れたのだ。


 軍服調の黒い衣服を纏ったそれは、低く結んだ艶やかな長い黒髪や外人のような目鼻立ちもさることながら、最も目を引く特徴は猫の様な耳とその尻尾であった。

 さながらアニメキャラにも見えるが、頭頂部から髪をかき分けるように飛び出た耳が拍動に呼応して微かに上下に動き、それが偽物ではないことを証明する。


 音もなく現れたその女は、紛れもなく華恋にとって初対面の人間だったが、再三シェパードが口にしているジャックという人物で、彼女もまた同じまがいものであるということを直感的に確信していた。


「無様な姿だな」

「お前がさっさと来ないのが悪いんだろ。一体何してた?」


 ジャックが押し寄せる激痛の波に顔を歪ませながらも、恨み節を口にした。


「上への報告だ」

「そんなもの後回しでいいだろ!」

「よくはない。私も貴様もいつ死ぬか分からぬ兵士の身。連絡は不可欠だ」

「クソが! だが、まぁいい。あそこにいる女、——分かるな?」


 震える手つきでシェパードは華恋を指さす。


「赤羽幾月会長のご息女だろう? それがどうした?」

「あいつが『発現』した」

「発現……、バベル計画の落とし子か」


 ジャックの視線が紫苑たちに向けられる。その瞳は獲物を見定めるが如き殺気を湛え一瞥した。それだけで、紫苑たちの背筋は凍りつく。

 だが、それ以上は何もせず、彼女はシェパードの襟を掴んだ。


「何をする?」

「退くんだよ」

「何故だ! 今がチャンスだろう?」

「阿呆。アネモネは無傷。東雲紫苑は深手だが意識はある。赤羽華恋は発現した上に、殺さず生け捕りが必須。これのどこがチャンスだ。おまけにこっちには負傷者もいる」

「それは、お前が来ないのが悪い——」


 ジャックはそれより先を言わぬよう、襟を捻って、首を締め上げた。


「貴様が連絡もよこさず、一人で突っ込んだのが事の元凶だろう? 腕はその戒めにおいてゆけ」


 割れた窓から風が吹き抜ける。悪戯にジャックの髪をかきあげ、広がった黒髪は一輪の花の様に咲き誇った。


「待てよ」


 彼女らを制止したのはアネモネだった。


「私がみすみすお前らを見過ごすと? どれだけめでたい頭をしてるんだお前らは?」

「ならば、逆に訊くが、貴様はまだ戦いを所望か? ならば、止めておいた方がいい。私たちは確実に勝てぬから退くだけだ。それでも、まだ戦うなら——」


 ジャックは金色の瞳に鋭く光ったものを宿して、


「地獄の果てまで付き合おう」


 そう言い放った。

 先程とは比べ物にならない突き刺すような殺気はその場の誰をも黙らせた。

 決して叶わぬと知りながらも抵抗を続けるシェパードを強引に引きずって、ジャックが窓から逃げ去る。しかしそれでもずっと押し黙ったままで、誰も言葉を口にできなかった。

 壓虎も土蜘蛛も消失し、ふとすればただの幻だったのかもしれないと思わせる程の静寂さだけが後に残る。

 だが、その場に残った腕と血痕が生々しく現実であることを物語った。窓から運ばれる夕暮れ時の冷たい風が血の匂いを緩やかに運んでいく。


 この日を境に、幕が上がった。

 ——紛い物とも言えるような本物によく似た少年少女らの贋作の青春が。

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まがいもの 多雨書乃式 @taushono-shiki

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