第7話 羊飼い

 反射的に、瞼を落とし、再びそれを開けた時、視界に飛び込んできたのは真っ赤に飛び散った血液だった。


「はぁ……はぁ……」


 荒い呼吸の音が耳元で絶え絶えに聞こえる。

 それで、彼女は自身が紫苑の左腕に抱かれているのだと気がついた。そして、視線を這わせて彼の右腕を見ると、二の腕から先が存在していなかった。


 白いスポンジのような骨と、ピンクがかった筋肉、そしてそれらを黄色いぶよぶよした脂が覆う。

 血管から穴の空いた水風船の如く勢いよく血液が溢れ出て、それらの殆どが彼女の腹部に垂れた。生暖かく、気持ちの悪いそれに彼女は彼の命を見た。


「君、腕が……」

「大丈夫。古傷を開いただけだ」


 だが、余裕そうな言動とは裏腹に、苦痛に顔を滲ませる。

 彼はゆっくりと今まで彼らの居たところに目を向けた。釣られて彼女も視線を動かして絶句した。


 人間が一人、化け物が二体。

 人間の方は、長い赤髪で、ウェーブがかかった大学生ぐらいの歳の男だ。鼠色のパーカーに、紺のジーパン。右手をポケットに突っ込んで口の端を釣り上げて愉快そうに笑っている。

 左手には小指を除いた四本の指に趣味の悪い金色の指輪が嵌め込まれていた。


 化け物の方は、夕日に反射して燃えるような赤い眼球を八つ晒す、二十個の頭蓋骨を周りに浮遊させた華恋の二倍はありそうな体躯の蜘蛛が一体。

 重い黒色を纏う、輪郭の定まらない虎が一体。よく見ると、虎の方が前腕で紫苑の右腕を捉えていた。


「手応えがない。スカしたか」


 さして、興味もなさそうに男は呟いた。


「おいおい、シェパード。どうして、あんたが出てくんだよ」

「お前は俺たちから監視されていることを忘れたわけでもあるまい。さっき、監視役を交代したばっかだったんだが、どうやら惑魔わくまがいるらしいじゃねぇか。正面きっての戦闘は望みじゃないんだが、それは見過ごせねぇよなぁ」


 シェパードは左手の関節を鳴らすようにほぐしていく。


「奴は、現実と虚構の狭間に身を置く。普通なら出会おうと思っても出会えねぇレア物だが、唯一、契約を履行した瞬間、こちらに姿を現す。そして、悪魔ってのはその願いが延命じゃない限り、契約者が死亡すれば契約は履行されたことになる。だからどけよ、紫苑。その女ぶっ殺して、俺様の鍵の『五指隷令ごしれいれい』で惑魔を従えるからよ」


 紫苑は無自覚に舌打ちをした。彼女のことを殺すと言われたことより、人の心そのものであるまがいを我が物顔で支配する彼のことが心底嫌いだったからだ。

 そんな彼の憎悪をよそに、状況に取り残された華恋が無垢な表情で疑問を口にした。


「ねぇ、惑魔って?」

「フィリング・デビルの和名だよ。それよか、赤羽。どうやら俺たち、相当やばいぞ」


 冷や汗が頬を一筋垂れる。先からずっと緊張した面持ちで相手の出方を見ている彼の様子を見て、事態の深刻さを彼女も少しずつ飲み込み始めた。


「おい、シェパード。もし、フィリング・デビルだけをご所望って言うなら少し待て。もう数時間もすれば、こいつとの契約が履行される。お前はその時に、従えればいいだろう?」

「馬鹿を言え。もし、その女の機嫌が変わって、契約を破棄したらどうする? その時は、惑魔も消滅するだろうが」

「クソ。流石に理解してるか」


 彼は必死に頭を回転させるが、こうなってしまっては取れる選択肢はそう多くはなかった。意を決したように、大きく深呼吸をすると、彼は彼女をゆっくりと床に寝かしつけた。


「赤羽。さっき、数時間以内と言ったが、訂正だ。一分で決めろ。それまではなんとか持たせてやる」

「ちょっと待ってよ! いくらなんでも危険すぎる!」


 彼女は叫ぶも、既に立ち向かうことを決めた紫苑の耳には届かなかった。

 彼は右の肩口の辺りを強く握る。そして、目を閉じて感覚を研ぎ澄ました。

 段々と、周囲の環境に意識を移していき、屋上を駆けていた微風が耳を劈く轟音となった時、目を開いた。


 右腕は元に戻っていた。


「え?」


 再三、まがいがどうのと話を積もらせてきた華恋だったが、目の前で同級生が起こした奇跡には新鮮なリアクションをとる他なかった。

 一方、紫苑はただ凍てつく眼光をシェパードに浴びせた。


 勝算はある。

 仮に、華恋が現実を選択すれば、その時点でフィリング・デビルが消滅し、勝負が成り立たなくなって不戦勝。幻を選択した時は、数時間彼女を庇いながらの防戦をすれば良い。


 後者は現実味が薄いが、自宅までなんとか逃げ帰れば居候の手も借りられる。

 そして、そもそも前者を選んでくれれば楽に勝利を掴める以上、彼女の意思を尊重しつつ立ち回るならばこれ以上の選択はないはずだ。

 だが、それもこれも華恋を庇いつつシェパードと互角以上に渡り合うことが条件である。

 ゆったりと足を動かして、彼との距離を詰める。


「退かないんだな。今回はお前がターゲットじゃないんだが」

「あぁ。友達をみすみす殺させたら目覚めが悪いだろ」


 紫苑はあえて友達という言葉を選んだ。それは、自らの決意を鈍らせないためでもあった。

 虎と蜘蛛のまがいが獲物を見定める目で舐めるように視線を這わした。五指隷令における、一席の壓虎おうこ、二席の土蜘蛛、どちらも厄介な相手だ。

 以前に会敵した時は、五席まで埋まっていたが、今回、小指は空席だ。恐らく、あそこでフィリング・デビルを従える気だろう。


 ふと、反射的に紫苑は一歩前へ出た。それに遅れるように背後では半径一メートル程の円状に地面が静かに沈み込んでいた。

 コンクリート製であるはずのそれを判を押したかの様に数センチ陥没させたのは、壓虎の力だ。

 そして、それは開戦の狼煙となった。

 

 紫苑はシェパード目掛けて走り出したが、土蜘蛛が歩脚を振り下ろして妨害した。それでも前を行くべく、半身を翻して走り抜ける。歩脚が頬の皮膚を攫い、血が流れるがそれだけだ。

 腕を振りかぶり拳を握るが、その時、視界の端で壓虎も前腕を振りかぶったのが見えた。

 その所作が再び圧殺する為のモーションだと理解した紫苑は即座に土蜘蛛の側へ寄る。シェパードは、目標よりも自身のまがいを重視するきらいがある。紫苑を巻き込んでみすみす土蜘蛛を潰すようなことはしないはずだ。

 

 だが、壓虎はその腕を振り下ろした。と、同時に彼が受けたのは横殴りの力だった。

 圧縮された空気の壁が土蜘蛛もろとも紫苑を押しつけた。

 そして、フェンスに土蜘蛛が押し当てられると停止し、それをクッションに彼も止まった。


 今の攻撃に殺傷能力はない。寧ろ、土蜘蛛に危害が及ばぬようあえて力を抜いていた。

 それよりも、本命は——


 土蜘蛛の鋏角が大きく広げられていた。紫苑の白い首が無防備に晒され、黒光したそれで、今にもねじ切ってしまいそうに貪欲に待ち構えていた。

 食らった衝撃で怯んでしまった紫苑にはそれを避けるのは不可能だった。


「チッ」


 だが、土蜘蛛は鋏角を挟むも、空を切っただけだった。舌打ちの音だけが残され、土蜘蛛が呆けていると、主人のシェパードの下顎に紫苑が右ストレートをねじ込む鈍い音が響いた。


「まさか、首を落とされそうだってのに、それでも俺様に向かって突っ込んでくるとは」

「ペラペラペラペラ、随分饒舌だな。舌噛んで死ね」


 彼は続け様に右足を回して、シェパードの足を掬おうとしたが、阻まれた。色彩鮮やかな羽がシェパードを包容する様に広げられていた。

 紺色を基調とつつも、羽や尾は五色に彩った神々しい風格を備えた鳥、三席の鸞である。一瞬にしてそれを顕現させたシェパードは羽の中で笑みを崩さず、紫苑を眺めていた。

 チラリと後方を見る。華恋は紫苑たちの戦いを傍観することしかできていなかった。


 余りにもな急展開。だが、それでも彼女は自分の成すべきことは把握している。

 選択だ。

 現実を選べば、今の紫苑を救える。

 しかし、そんな理由で決めることは当の彼は絶対に許さないだろう。だから、彼女は自分の頭で自分の結論を見つけて選択しなければならない。

 だが、決めろと言われてすぐに決められる様なものじゃないのは、再三悩んで得た答えだった。


 その時、彼女は背中に人の温度を感じた。肩から手が回されて、抱きつかれる。


「——華恋ちゃん」


 その声は、紛れもなく彼女の母親、赤羽陽菜乃のものだった。


「お母さん」


 彼女は、回された腕を恋しそうに握る。確かにそこには母の暖かさが宿っていた。だが、これも幻なのだ。

 後方は、フェンスであり、前方は、今もなお交戦中である。

 つまり、背後に人が立っている道理は存在しないのだ。それを彼女は理解している。

 だが、理解していても、掌の温もりを疑い切ることができなかった。


「……ずっと言えなかったことがある」


 華恋は、遠い遠い幼少期の扉を開く。


「家族でキャンプに行ったあの日、私は勝手に川辺に行った。その時、対岸に黒い猫を見つけたの。それをもっと近くで見ようとして、川に入って、そしてそれからの記憶はない。次の記憶は、お母さんの葬式の遺影の前で泣きじゃくっていたこと」


 悪魔によって封印されていた記憶を彼女は淡々と読み解いていく。


「あの時、私はずっと謝っていた。私のせいでお母さんが死んじゃったと。どうしようもない現実を前に涙を流して謝罪を募らせることしかできなかった。でも、一度だって肝心なことを私は言えてなかった。——ありがとう」


 母への愛を多分に含ませて、そう呟いた。母親は何も言わず、ただ抱く力を強めた。


「お母さんが助けてくれたから今の私がある。……お母さん、私、初めてもっと話したい、もっと一緒にいたいって思う人ができた。本人には絶対言わないけどね。だからね、だから私は——」


 涙が頬を一筋流れた。彼女は嗚咽まじりに声を振るわせて、


「前を向きたい」


 そう宣言した。その時、彼女の首筋に熱いものを感じた。それは、母の涙だった。


「それが、華恋ちゃんの選んだ答えなんだね」

「うん」


 ただ、彼女は首を縦に振った。そして、母の腕を強く握った。

 これが最後になると悟っていたからだ。その温もりを忘れぬ様、強く強く握る。


「今までありがとう。ずっと愛してるよ」


 幻であっても確かに過ごした母との日々を脳裏に浮かべて彼女は言う。


「——さよなら」


 それがトリガーだった。母親の腕は輪郭を失い、橙色の明るい光の束になる。

 ぼやけて、だんだんと掠れていき、一陣の風が吹いた時、全てを攫っていた。そうして、人生においての白昼夢はあっけらかんと終わりを迎えた。


 ぼんやりと彼女は空を眺める。

 だが、そこには赤い空の中を悠々と雲が泳いでいるだけで、もうこの空の下のどこにも母親は存在しないのだという事実に彼女は実感を持てないでいた。


「……東雲君、これでもう解決よ」


 彼女はそう呟いた。そこには、まだ少し虚ろのようなものが潜んでいた。


「よくやった」


 彼は、土蜘蛛の歩脚による振りかぶりを丁重にあしらって、距離を取った。

 一方、シェパードは苦虫を噛み潰した様な顔に憎しみを込めた瞳で二人を見つめた。


「時間はないだろうとは思っていたが、まさかこうも早く決断を下すとは。全く持って苛立たしい」


 言葉こそまだ穏やかだが、内心は相当憤慨しているだろうことは、誰が見ても分かった。


「幕引きだ。これで、フィリング・デビルは消滅した。最早、争う必要はない」

「いいや、そうでもないね」


 シェパードは左手をピクリと動かす。それを契機に彼の操るまがいの視線が再び紫苑に集められた。

 明らかに敵意を持った視線である。


「男ってのは、一度出した拳は決着がつくまで引っ込めらんねぇのさ」


 やけを起こしたわけではない。華恋を守りながら戦う彼のハンデを考えれば、自分に分があると計算しての言動。

 決着、つまり、ここで彼らの当初の目標、紫苑の抹殺もしくは捕縛を実行に移してきたということだ。


 そういう行動に出てくる事を予想していなかったわけではない。

 だが、可能性は低いと踏んでいた。しかし、今の戦いで想定以上に紫苑は消耗してしまった。

 それ故に、シェパードに強引な選択を取らせる事を可能にしてしまったのだ。


「だから、テメェが嫌いだ。」


 彼は、まがいに一瞥したのち、思考に耽る。

 こうなってしまった以上、機を見ての逃走しかない。その為に、最も簡単なのは現在顕現している三体のまがいのうち、どれか一体でも消散させること。

 そうすれば、否が応でも隙は生まれる。だが、明確な算段がない。


 そんな彼の考えを余所に、土蜘蛛が糸疣を用いて粘液を纏った糸を放った。

 思考の時間すら与えない腹づもりである。体を傾けて避けると、それは背後のフェンスへと着弾し、若干の撓みを残して張った。それから、土蜘蛛は歩脚をしならせて飛び、空中でその糸を手繰ると、指向性を持ったまま落下してきた。


 慌てて、紫苑は腕を交差させて防御の姿勢を取る。

 しかし、いかに構えていても衝撃は訪れず、代わりにすぐ後ろで静かな着地音が撒かれた。咄嗟に振り返ると、土蜘蛛はその残忍な鋏角を広げ、華恋の細い首を挟んでいた。

 それは生白い皮膚にめり込むが、決して血は出ない絶妙な力加減である。

 遅れて土蜘蛛に気づいた彼女は声にならない悲鳴を上げ、紫苑はそっと下唇を噛んだ。


 詰みだ。

 紫苑の鍵で自身の体を加速させ、シェパードの反応を上回る速度で土蜘蛛から彼女を引き剥がすことは可能ではある。

 しかし、先の避けるだけの行動とは違い、移動して彼女を救助するという動作を目にも止まらぬ一瞬でやるということは、それ相応の負荷を紫苑は受けるということだ。

 それで四肢が十全に体にくっついているかの確証を紫苑は持てなかった。


 そして、紫苑は両手を挙げた。

 二人揃って逃げることが叶わないのなら、その次に取りうる最良の選択肢がこれだった。


「降参だ」


 口惜しげに言葉を溢す。目を伏せ、無力感に喘いだ。

 その時、突風に紫苑の前髪が煽られた。その感覚に顔をあげると、そこに華恋の姿がない。土蜘蛛がまたも呆けた様子でいて、彼は視線を動かすと土蜘蛛のすぐ隣に彼女がいた。

 強引に脱出した代償か、彼女の首の両側面に裂傷の様な傷が残っているが、命に関わる程深くはない。

 だが、それよりも彼女の不可解なまでの速度。明らかに常軌を逸したそれは、紫苑の鍵と酷似していた。


「へ?」


 その腑抜けた声は他ならぬ彼女本人のものだ。

 そして、それ以上の反応をその場の誰もがしばらくできなかった。だが、放心からいち早く我を取り戻したのは、紫苑だった。


「おい、赤羽。逃げるぞ」


 そうして、自身を加速させた紫苑は彼女を抱き抱えると、あっという間に屋上のフェンスを乗り越えた。

 彼女が高負荷に晒されぬよう、ある程度セーブしての加速だが、シェパードを出し抜くには十分だ。


「ちょっと待って、東雲君。まさか、飛び降りる気じゃないわよね」

「歯、食いしばったとけよ」


 そう言い残すと、彼らは赤く燃ゆる空を舞った。

 一歩遅れたシェパードは慌てて鸞を使役するが、虚しくもその趾は空を切るだけだった。


 シェパードはフェンスまで走り寄って下を見ると、彼らは途中まで通常の自由落下の速度だったが、着地の寸前で彼らは加速し、着地した瞬間、横方向へ転がっていった。

 恐らく、一瞬を引き伸ばし、着地の瞬間に横へ転がることで衝撃を分散させたのだろうと、シェパードは考察する。


 彼は鸞を呼び戻し、その脚を握ると、再び鸞を浮上させた。

 彼の脳裏に浮かぶのは、先程の華恋の脱出劇。一つの確信を持って、彼は含み笑いを浮かべた。

 そして、シェパードは既に小さくなりつつある少年少女の背中を虎視眈々と追った。

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