第6話 悪魔の真実
彼らは屋上へとやって来た。彼ら以外に人はなく、ただ虚しく吹き荒ぶ春の生暖かい風がこれから語られる内容の不吉な前兆となっていた。
紫苑はフェンスに背を預けるようにもたれかかり、華恋も無意識に反対のフェンスにもたれて、彼らは向かい合った。
「……最初に違和感を感じたのは、お前の母親の容姿だ。俺たちの年齢を考えると、二十代半ばで産んだにしても、今は四十代前半ということになる。だとしたら若すぎる。だが、この時点ではまだ若作りの範疇を越えないがな」
紫苑の顔が少しずつ歪んでいく。彼もこの先を言うのは心苦しかった。
「そして、次の違和感は母親の話からお前の幼少期の頃の話しか出てこなかったことだ。一時間程話していても、出てくる話題は小学校低学年まで。それと、玄関にも家族写真があったが、幼稚園の入園式と小学校の入学式はあるのに中学校の入学式と高校の入学式はなかった。それも引っかかった」
「……何を」
「それと、写真といえば、幼いお前が金木犀と一緒に写っているものがあったな。だが、金木犀というのほっとけば膨れる程デカくなる成長の早い植物だ。なのに、庭にあった金木犀と写真にあった金木犀は若木のままで小さかった。剪定をしていれば別だが、見る限りそんな様子もない。それから、お前は部屋に入るなり反射的に眼鏡を外したな。確かに、視界が霞んでいても、立ったり座ったりという動作は問題ないのかもしれない。だが、その状態でお前は不自由なく紅茶とクッキーを食っていた。それも違和感の一つだ。そして、あの日の帰りに俺は腹が減ったと言ったが、お前はそれに疑問を持たなかった。だが、おかしいとは思わないか。あの日、俺たちはクッキーを皿が空になるまで食べたんだ。それでも俺もお前も別に腹は膨れていなかった。他にも——」
「もういい!」
華恋の顔色がどんどんと悪くなっていった。
何が明かされるのか、彼女には見当もつかないが、決していい話でないことだけは即座に頭が理解していた。
「何を言いたい?」
その声は怯懦に塗れて震えていた。
「俺はあの日の出来事がまるで幻だったんじゃないかと思えて仕方がないんだ。しかもただの幻じゃない。あの家は時間が止まっている。……恐らく七年前から」
「七年前?」
「あぁ、その数字にピンと来ないとは言わせねぇ。だってお前が言ったんだ。お前は七年前から——」
「視力が落ち始めた」
「そうだ」
散りばめられたパズルのピースをはめるように一つずつ今回の怪事を紐解いていく。
「俺たちはお前が急激に視力が低下したという春休みに意識を取られていた。だが、本質はそこじゃなかった。もっと、七年前という言葉に注目するべきだったんだ」
紫苑はその先を言うことを躊躇いつつも、話し出した口は止まらなかった。
「お前がまがいに会ったのは七年前。そして、春休みに症状が悪化したのはそこに何かしら別の要因があったと考えられる。だが、解決を図るなら七年前に何があったのかを知らなければならない」
「……一体」
「俺はあの日、考えうる最悪を想定して件に連絡を取って調べてもらった。七年前の真実を。……それでビンゴだった」
そう言って、彼はポケットからスマートフォンを取り出し、キーワードを入れてインターネットを漁る。その中で、一つのネットニュースをタップして、それを彼女に見せた。
「これが、全ての真実だよ」
青白い液晶に彼女の顔が映り込む。目を凝らしてそこに書かれた文字を追うが、彼女はすぐに首を傾げてしまった。
「ごめんなさい。ぼやけて、何が書いてあるか分からないわ」
「あぁ、フィリング・デビルはこんなこと見してくれないか。なら今から読み上げる。まだ、耳まではイカれてないはずだ」
その言葉に彼女は理解が追いつかず呆けた。だが、紫苑は彼女の理解を待つことなく、そのニュースを声に出して読んだ。
「被害者の赤羽陽菜乃は溺れていた娘を助けようと氾濫する川に入水、その後駆けつけた消防隊員に助けられ病院に運ばれるも後に死亡が確認。……七年前の事故の記事だ。この赤羽陽菜乃ってお前の母親だよな」
その告白に彼女は大きく目を見開く。だが、反応を声にするより早く両目が疼いた。彼女は咄嗟に両手でそれを覆い、鈍痛の中にいながらも声を張り上げた。
「あり得ない。そんなことあり得ない。だって、君も母の姿を見たでしょう。母は紛れもなく生きているわよ」
「それも全て幻だったんだ」
紫苑は必死に拒絶する彼女の様子を居た堪れない様子で見ていた。
「あまり時間がない。手短にいこうか」
冷淡そうに彼は話を続ける。だが、それは彼が真に冷酷だからではなく、本当に時間が残されていないからだった。
「まずは、フィリング・デビルという悪魔の存在から。こいつは、視力を悪戯に弄るなんてチャチな悪魔じゃない。本来のフィリング・デビルとは、現実から目を逸らさせ、幻を見せる悪魔。人の弱みに付け込み、空いてしまった心の穴を埋めようとするまがいだ。だから、その名を『フィリング・デビル』(満たす悪魔)と言う」
「フィリング……」
「あぁ、取り憑く程にその効果は増し、その侵食度は視力という形で現れる。そして、取り憑かれた者が失明した時、永遠の眠りに就き、自分の思い描く理想の夢を見ながら天寿を全うして死ぬ」
その「死ぬ」という単純な言葉は、単純さ故に彼女を戦慄させた。
「悪魔に取り憑かれたということは、契約を交わしたということ。お前は母を失った喪失感からフィリング・デビルを呼び、孤独を対価に幻を見せてもらった。契約が不履行とならない限り、お前は幻を見せ続けられるはずだ」
語り終えた紫苑に対し、華恋の目はひたすらに虚無であった。
「そこまで言うなら証明して見せてよ! 母がもうこの世にいないというならそれを証明して見してよ!」
「……悪魔の証明か。皮肉なもんだな。だがまぁ、これに関しては簡単だ。それじゃあ、赤羽、俺に教えてくれ。七年前から今までにあった母親との思い出、それを一つでもいいから俺に教えてくれ」
「……思い出」
そう言って、彼女は記憶を遡る。だが、その結果は語らずとも、みるみる青くなっていく彼女の顔を見れば明らかだった。
「お前が順風満帆に過ごしていたと思っていた母との生活は存在しない現実。お前の記憶の残滓をなぞっているに過ぎない」
「ちょっと待って。父は? 一人と言っても父がいるはずよ」
彼女は堪らず噛み付く。とにかく否定し続けないと自我を保てそうになかった。
「
「『だった』?」
「件の調べによると、陽菜乃さんが亡くなってからは家に帰らず、ほとんど会社で寝泊まりしているらしい。人伝だから真偽は定かではないが、少なくとも件が一週間張り込んで、一度も家に帰らなかったことを見ると恐らく本当だろうな」
「それじゃあ、私は小学生の半ばから一人で暮らしていたというの? 不可能でしょう?」
「そうともいえないさ。掃除、洗濯、食事、ギリギリ小学生でもなんとかなる範囲さ。そもそも、母親の幻をああもくっきり見せるぐらいだ。もともと、日頃から陽菜乃さんのことをよく見ていたんじゃないか。一応、幾月さんも金銭、食料、日用品を定期的に家に送っていたらしいし」
「他に面倒を見てくれる親戚とかは? 今まで誰も疑問に思わなかったの?」
「あぁ、お前には叔父と叔母もいる。だが、世間体としてはお前の父親が面倒を見ていることになっているから誰も気が付かなかったんだろう。叔父叔母の両方とも家庭を持っていたし。それに、当の本人は不自由なく家族と暮らしていると思い込んでいる上、俺が騙されたようにお前の幻覚は他人にも作用を施すから陽菜乃さんの死を知っている親族以外は誰も疑問は持たないだろう」
「でも君は気がついたじゃない。それに、あの家にはまがいはいないって……」
「それはお前に何かしらのまがいが取り憑いていると思って、家に上がったからだ。そもそも、目の前の人間が既に死んでいるかもしれないなんて、普通の人間は考えもしないさ。それと、おれは『視る』系の専門じゃないんでな。自分から姿を隠すタイプはちょっときつい」
「それじゃあ、春休みに悪化した理由は? どう説明するの?」
「それは、はっきりとは言えない。だが、俺の仮説でよければ考えられる要因は一つある」
そう言って紫苑は華恋の眼鏡を指さした。
「それ、取ってみろ」
彼女は言われるがままに眼鏡を外した。そして、何気なしにそれを眺めて、驚愕した。ぼやけているが、確かにそこには、母親のものと全く同じタイヤ痕が刻まれていた。
「え?」
「どうやら、今ならそれに疑問を持てるようだな。俺がお前の眼鏡にその痕を見つけたのは、始業式の日にお前が階段から降ってきた時のことだ。あの時は、てっきり落下の衝撃でアスファルトか何かと擦ってできたものだと思っていた。だが、陽菜乃さんの眼鏡を見て意識が変わった。傷の位置が寸分の狂いなく一緒なのを見て疑問に思ったんだ」
「なら、これは母のものと全く同じものってこと」
「少し違うな。それは母親と同じ眼鏡じゃなくて、母親の眼鏡だ」
そう言って、紫苑は息を整える。
「視力が劇的に落ちた。それはつまり、フィリング・デビルによる侵食度が増したということだ。だとすれば、そうせざるを得なかった理由は何か。それは、お前が母の死を何かしらの理由で蜂起してしまったから。だから、忘れさせようとフィリング・デビルは強い幻覚を引き起こせざるを得なく、それは視力という結果で現実に干渉した。では次に、その理由は何か。お前はオカ研の部室で春休みに眼鏡を変えたと言っていたな。そして、その眼鏡は母親のものと同じだった。……ここまで話せばわかるだろう? つまり、お前は春休みに——」
「母の遺品を見つけた」
「そういうことだ」
ゆっくりと母の死を受け入れつつある彼女を見て紫苑は胸が張り裂ける思いだった。実情は違えど、突如として親を亡くす気持ちは痛いほど共感できた。
「家の奥に仕舞っていたのか知らんが、恐らくお前は春休みのうちに陽菜乃さんの遺したその眼鏡を見つけ、母親が亡くなっていることを思い出した。その後、それを忘れるよう幻覚を見せられ、意識を改変され、その代償に視力を失った。それが、今回の真実だ。……知らない方が幸せだったろう真実だよ」
彼女は両の掌で瞼を押さえつけた。
再び目に痛みが走ったのもそうだが、何より止めどなく溢れ出す涙を止めたかった。
しかし、火傷する程熱い液体は堰を切ったように流れて、指の隙間から漏れたそれらは腕を伝っていった。
「辛いようだが、本題はここからだ。お前はこれから選択をしなければならない」
赤く腫れた瞼がゆっくりと開き、潤んだ瞳が紫苑に向けられた。
「お前には二つ、選択肢がある。一つは、家族の幻の中で一生を過ごすか、もう一つは、孤独を受け入れて辛い現実を生きるか。あまり、悠長な時間は残っていない。お前はもう母の死を深く知ってしまった。これから数時間もすれば、残った視力も全て失って、強制的に前者を選ぶことになってしまう。だから、それまでに決めろ」
西日で赤く焼けた彼女はそっと唇を噛んだ。
「そんなの、現実を選ぶしかないじゃない!」
「そうでもないさ。最後に見せるフィリング・デビルの幻は最早幻と認知できない。……現実と差のない幻は果たして幻と言えるのか?」
紫苑は目を伏せ、先の件との会話を回想する。
「あいつは、……件はお前を幻の中で生かすことを選んだ。だから、あいつは騙ったんだ。そして、俺はお前にそれを言わぬよう口止めされていた」
「じゃあ、どうして私に話したの?」
「それはお前がどうしてもって訊いてきたから——」
その言葉を遮るように烏が鳴く。遅れる様に羽ばたく音が届いて、彼は思い直す。
「違うな。俺はお前に選択して欲しかったんだ」
「え?」
「この先、辛い現実に揉まれて幻の中で生きていればよかったと思うかも知れない。幻の中で生きていた時にもしかしたらこれが幻だと気がついてしまうかも知れない。絶対に悔いの残らない選択なんて存在しないだろう。だから、せめて後悔した時にその矛先が自分に向くようにして欲しかった。……他人に向いた後悔程醜いものはないだろう?」
太陽を背にした紫苑の顔は逆光で暗い影を落としていた。その中で、鋭く作った視線は彼女を激しく貫いた。
「だから、お前自身の手で選べ」
彼はそれきり黙ってしまった。
彼女はまるで世界にただ一人放り出されたかの様な疎外感を身に覚えた。何度頭で考えても堂々巡りをするばかりで最終的な結論へと至らない。
逃げ出したい。その気持ちを一心に抑え込むばかりで、思考は霧散してしまう。
その時、彼女はふと前に交わした紫苑との会話を思い出した。
「ねぇ、一つ訊いてもいい?」
「何だ?」
「君も両親を亡くしているんでしょう? 辛くないの? 孤独を感じないの?」
無礼な質問だと彼女も自覚している。
だが、これを訊かないと、どうしても一歩踏み出せなかった。
「辛いさ。孤独も感じる。だが、それによって痛むこの胸が今となっては唯一の両親との繋がりだ。もしも、俺がこの痛みを失えば、両親は本当に過去のものとなってしまう。だから、俺は、辛くても、孤独でも、それを甘んじて受け入れるしかないんだ」
余りにも芯の強い回答だった。
両親の死すら糧にしてがむしゃらに現実に捥がく彼の姿に華恋は憧れを覚えると同時に、遥か遠い存在の様に思えてしまった。
今の彼女にはまだ、わかりえない境地だった。
「私は――」
その時、彼女の視界は真っ白になった。
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