第7話
がっくり項垂れたディアンは溜息をつき、フラフラと立ち上ると眉間を強く押さえた。
「つまり、この四年間のアプローチはまったく通じてなかったのか……」
「はあ……」
(だってこんなにカッコいい人が私を誘うなんて……ありえないでしょう)
未だに疑うようにディアンの顔色を窺うパトリシアを、ディアンは真正面から見つめた。
「いいか、パトリシアよく聞け。長官から聞いたかもしれんが、俺はたしかに入庁する前からずっとお前に目を付けていた。俺が欲しかったのはお前の几帳面で潔癖な性格と、そして人をまとめる手腕だ」
「人をまとめる手腕、ですか?」
「ああ。知ってるかもしれんが、お前が入庁する以前備品管理局は腐敗の温床だった。中でも一番ひどかったのがこの倉庫部だ。────だからこそ、俺はここに信用が置ける優秀な人間を置きたかった」
たしかに倉庫の中はお宝の山である。そこらに無雑作に放置してある竜の鱗ですら、一枚で金貨数枚に化けるのだ。いくら厳重に盗難防止の術がかかっているとは言え、偽造や隠蔽ができる魔法使いなら抜け道はあるに違いない。
パトリシアは辺りをぐるりと見回すと、納得したように頷いた。
「たしかに、ここは宝の山ですものね」
「俺は当時たまたま不正の証拠を掴み、手を染めていた奴らを魔法庁から一掃した。おかげで局長なんて面倒事が回ってきたが、引き受ける際に条件を出したんだ。備品管理局のメンバーの人事権と、そしてパトリシア、お前だ」
「それはエムニネス長官からも聞きました。でも、どうしてそれが私だったんですか? それに入庁する前って、いったいいつから私をご存知だったんですか?」
「……パトリシア、お前本当にこれっぽっちも俺のことを覚えてないんだな……」
しばらくの間じっとパトリシアの瞳を見つめていたディアンは、やがて諦めたように溜息を吐いた。
「なあパトリシア、自分の論文のどこが一番評価されていたか知っているか?」
「卒論のことですか……?」
パトリシアは頭を振った。そもそもアカデミーの外で自分の論文が評価されていたことすら、今日知ったばかりなのだ。
「まったくわかりません」
「お前は同学年全員分のデータを集め、それを共同研究という形で発表した。変わり者が多い魔法使い達を上手くまとめた手腕もそうだが、その成果を自分一人の手柄にしなかったことは、なかなか普通の人間にできるものではない。それこそがお前が真に評価された点で、俺がお前を倉庫番に欲しかった理由だ」
たしかに学年全員の協力を得るのは大変だった。
不要のデータを渡すだけでパトリシアの論文に共同研究者として名前が載るのだ。大多数の同級生が協力的だったのに対し、苦労したのはすでに魔法使いとして名を馳せていた、一部の同級生達である。
かたくなに協力を拒む彼等の元にパトリシアは足が棒になるほど通い、言葉を尽くした。そして、長い時間をかけた末に、ついに彼等の信頼を勝ち得ることに成功したのだ。
「そうだったんですか」
「パトリシアは俺が見込んだ通り、いやそれ以上の働きをしてくれた。正直言ってお前以上に信頼できる人間はいないと思っている。だからパトリシア、これからも俺の側にいてくれないか。俺にはお前が必要なんだ」
「それは……」
ここが埃を被った倉庫でなければ、まるでプロポーズにもとられかねないロマンチックなセリフである。真剣なディアンの表情に、パトリシアはたじたじとなった。
(局長が私をそんなに評価していたくれてたなんて、ちっとも知らなかった。どうしよう、すごく嬉しい。でも……)
「ごめんなさい。でもすでにリーンハルトと約束をしています。今さら反故にするわけにはいきません」
頭を下げるパトリシアに、ディアンは忌々しげに舌打ちをした。
「稀代の魔法使いだか孤高の魔法使いだか知らないが、俺に言わせればリーンハルトは単なる人嫌いの引きこもりだ。そんな人間にパトリシアを任せるわけにはいかない。あいつには俺から直接断りを入れてやる。それでどうだ」
「そんな、無茶苦茶です! それはできません!」
パトリシアが間髪を入れずに断ると、ディアンは悔しげに舌打ちする。それからしばらくの間なにかを真剣な表情で考え込んでいたディアンは、やがて顔を上げると大きく溜息をついた。
「この手はあまり使いたくなかったが、しょうがない。なあパトリシア、俺の上着の内ポケットに書類が入っているんだ。悪いがちょっと確認してくれないか」
そこで初めてパトリシアは、長官室からずっとディアンの上着を借りっぱなしだったことを思い出した。
言われた通りに上着の内ポケットを探ると、たしかにそこには小さく折りたたまれた紙が入っているのがわかる。
慎重に取り出し広げて中を見ると、それはパトリシアが先週ディアンに渡したはずの退職届だった。
(え……? どうしてこれがここにあるの……?)
ディアンは退職届が間違いなくパトリシアの手の中にあるのを確認すると、スッと目を細めた。その唇には意地悪な笑みが浮かんでいる。
「実は言ってなかったが、お前がその紙を渡したあの日な。俺は有給休暇中だったんだ」
「……はい?」
「俺はたまたま出張の忘れ物があったからあそこにいたが、本来ならあの日は休みだった。そして有給休暇中は完全に労働が免除される。そうだよな? つまり、あの日の俺は、お前の退職届を受理する資格がなかったってわけだ。そして今現在、その手紙はお前の手の中にある。それがなにを意味するかわかるか?」
「え……あっ!」
パトリシアはハッと顔を上げ、ディアンを睨んだ。
「もしかして、私の辞表をなかったことにするつもりですか?」
「人聞きの悪いことを言うな。そもそも俺はその手紙になにが書いてあるかも知らんし、有給中に仕事をしたら俺のほうが職務規定違反になるんだ。しょうがないだろう?」
「ひどい! じゃあ、今すぐこれを受け取ってください!」
顔を真っ赤にしたパトリシアは上着を脱ぎ捨てると勢いよく立ち上り、退職届を握りしめディアンに詰め寄った。
「さあどうするかな。俺に受け取らせることができれば考えてやってもいいな」
「局長! ふざけないで!」
ニヤニヤと笑うディアンの手をなんとか掴もうとするパトリシアだが、二人の身長差はざっと見ても二十センチ以上ある。
ディアンが上に伸ばす手を掴もうとぴょんぴょん飛び跳ねるパトリシアは、はたからすれば遊んでいるようにしか見えないだろう。
「ちょっと、局長! なに子供みたいな意地悪してるんですか! 性格悪いって言われますよ!」
「ほらほら頑張れ、あともう少しだ」
「もう! この……あっ……!」
「危ない!」
ムキになるパトリシアを揶揄うようにあしらっていたディアンだが、彼女がバランスを崩しぐらりと倒れかかると一瞬で真剣な表情に戻り、素早い身のこなしで彼女の腕を掴む。
そして二人はそのまま床の上にもつれ込んだ。
「う……くそっ、大丈夫か、パトリシア」
「……痛たたた……局長こそ大丈夫ですか……?」
パトリシアが目を開けると、まず真っ先にディアンの真っ白なシャツとその逞しい胸板が目に飛び込んだ。
そしてゆっくり顔を上げると、そこにあったのは心配そうにパトリシアを覗きこむアイスブルーの瞳で……。
(あれ? 前にもこんなことがあったような……?)
「パトリシア、大丈夫か?」
眉間に皺を寄せ黙り込んだパトリシアに、ディアンは手を伸ばすとそっと額にかかった赤い髪を払い、怪我がないかたしかめるように頬を撫でた。
「うん。やはりお前は眼鏡がないほうがいいな。昔からこんなに綺麗な瞳を隠すのはもったいないと思っていたんだ」
「昔からって、どうして……あれ……?」
その時パトリシアはふと思い出した。
あれはアカデミー入学一年目。授業に遅れそうになったパトリシアが渡り廊下を走っていた時のことだ。
焦るあまりに足をもつれさせ転びそうになったパトリシアは、すれ違った上級生が咄嗟に助けてくれたのだ。
『う、痛たたた……君、大丈夫かい』
『痛ったー……、あ、あのごめんなさい! 先輩大丈夫ですか?』
『大丈夫だ。君こそ大丈夫か? あれ? ちょっと待て。これは度が入ってないんだな』
パトリシアが顔から地面に突っ込みそうになったのを身を挺して庇ってくれたその男性は、あらぬ方向に飛ばされた彼女の眼鏡を拾うと、不思議そうに首を傾げた。
『どうしてわざわざこんな眼鏡をつけてるんだ? せっかくの綺麗な瞳なのに』
『へっ? き、綺麗って?』
『そのグリーンアイだ。誰かに言われたことはないか?』
『う、嘘です! そんな見え透いたお世辞なんて言わなくていいですから!』
『お世辞? どうしてそう思うんだ?』
『だって、私の瞳は不吉だって、小さい頃じゃらずっと言われてて……それに、私は魔力も少ない落ちこぼれなので』
『ふうん、落ちこぼれねえ。ああ、これは返しておくよ』
『あ、ありがとうございます』
男はパトリシアに眼鏡を渡すと、ひょいと顔を覗き込んだ。
『なあ、知ってるか? 昨年の最優秀生に選ばれた生徒は、魔力量は最低のEランクだ』
『えっ? 本当ですか?』
その年で最も優秀な学生に贈られる最優秀生賞は、魔法学園に通うすべての学生の憧れであり、目標でもある。もちろんパトリシアも例外ではない。
『ああ。魔力の量で優劣が決まるわけではない。大事なのはその魔力でなにを成すかだと俺は思ってる』
『なにを成すか……』
『というわけで頑張れよ。新入生』
『は、はい! 先輩、ありがとうございます!』
勢いよく頭を下げるパトリシアの頭をくしゃりと撫でると、男はその場から立ち去る。
この時の言葉が、パトリアの学生生活を大きく変えるきっかけになったのだ──
(……そうだ、たしかあの人もアイスブルーの瞳だった。透き通った水色がすごく綺麗で、まるで引き込まれるような……そう、目の前のディアンみたいな……って、あれってディアンだった……? じゃあもしかして、ディアンはあの時から私を知っていた……?)
「どうした?」
「えっ! あっ、ごめんなさい、いつまでも上に乗ってて……重いですよね」
頬を赤らめて慌てて身体を起こそうとするパトリシアに、ディアンはにやりと笑った。
「いや、パトリシアが上に乗ってくれるならいつでも大歓迎だぞ?」
「……! あ、あの、ごめんなさい、直ぐどきますから……!」
「お、おい、急にどうした。危ないからちょっと待て」
慌てて身体を離そうとするパトリシアをディアンは危なげなく立たせると、彼女の服に付いた埃を丁寧に払った。
「……よし、これでいいだろう。それにしても俺がちょっと見ない内にずいぶん変わったな」
「変わった? ああ、この服ですか?」
「服だけじゃない。髪も普段からそうして下ろしていたほうがいいな。鮮やかな赤なのにもったいないと思っていたんだ。……すごく綺麗だ」
ディアンの言葉に頬が熱くなるのを感じたパトリシアは、思わず自分の顔を手で覆った。
(や、やだ、私どうしちゃったんだろう……!)
「おい、どうしたパトリシア」
「も、申し訳ありません。でもちょっと私、用事を思い出して……、だから今日はこれで失礼します!」
居たたまれなくなったパトリシアが慌ただしく倉庫から去ったあとに残されたのは、呆気にとられたようなディアンと、無残にもパトリシアの足跡がついた辞表で────。
「く、は、ははははははっ」
すっかり忘れ去られた辞表を見たディアンの大きな笑い声が、広い倉庫に響いたのだった。
その後、ディアンを追いかけるパトリシアの姿が魔法庁の名物になるのに、そう時間はかからなかった。
最近の魔法庁にはこんな噂がある。
曰く、魔法庁の倉庫には赤い鼠が住んでいる。
その鼠はエムニネス長官の秘蔵っ子であり、エリート魔法使いの相棒でもあるらしい──。
エリート魔法使いと倉庫の鼠 このはなさくや。 @konohanasak
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