リバードロップ、スターレイン、キラーチューン、サマーナイト
シダレカツラの樹のしたに呼び出されるときは、大抵ろくなことが起きない。
このあいだもひどかった。街はずれの雑貨屋で買ったらしい変な飴をいくつも食べさせられて、それがあまりにひどい味で舌が曲がるところだった。ハーブとぶどうと梅干し味なんて絶対に嘘だと思う。
「でも楽しいでしょ、こういうの」
真湖ちゃんはいつもそう言う。舌に乗せた砂糖の塊の、苦くて甘くて酸っぱい奇妙な味に顔をしかめながら、瞳だけは相変わらずきらきら光らせて。
そんなわけで、授業の代わりにラジオ体操とアサガオの観察、それから大量の宿題に駆り立てられるぼくは、幼馴染みにも振り回されてこうして走ってきた。膝に手をついて深呼吸するぼくに、よく冷えたペットボトルが差し出される。
「おはよう、さっくん。よく寝た?」
「全然」
ぼくは一言応えて、受け取ったスポーツドリンクの栓を捻った。
公園の時計台によれば、時刻は間もなく十四時。まったくおはようの時間ではないけれど、長い休みになれば昼食の時間に叩き起こされるのが常であるぼくにとっては、まだほとんど早朝だ。
「手紙じゃなくて電話にしろって、いつも言ってるでしょ。見落としたらどうするんだよ」
「これまでそんなことなかったじゃない。だから、心配ないよ」
呼び出し魔は涼しく言って笑う。二つ折りの便箋は今朝、新聞とともにポストから見つかった。
おひるを食べたら、いつものところで。
メッセージは青いペンでただ一行、差出人の名前すら書いていない。だけど、真湖ちゃんの言う通りぼくがこの手紙を見落としたことは一度もない。いったいいつ投げ込んでいるのかは知らないが、どんなときだって必ずぼくの許へ届いた。
不思議で少し丸っこい文字は、もっと不思議なことの始まる合図だ。
Tシャツの首許をつまんでばたばたさせながら、真湖ちゃんの隣りに腰かける。空色のワンピースと麦わら帽子が良く似合っていた。
「それで、今日はなに」
また不味いお菓子が出て来やしないかとひやひやしながら尋ねる。ただでさえ昼食に大嫌いなピーマンをしこたま食べさせられてうんざりしていたから、これ以上味覚をいじめるのは断固反対だ。
「今日はね、とっておきだよ。気に入ってくれると思う」
鞄から取り出したそいつは妙に細長く、白地に花を染めた手ぬぐいに包まれている。受け取ってみるとしっかりと固くて重みがあった。
「……これが?」
包みを開けず、手のなかで転がすうちに表面に妙なでこぼこがあると気づいた。それで中身には見当がついたけれど、これをとっておきと表現するのはさすがに無理があると思う。だって、この時期ならどこに行ったって手に入るから。
「大事なのは中身だよ。開けてみて」
真湖ちゃんに促されるまま手ぬぐいを解くと、出てきたのは思った通りラムネ壜だった。正確には、ビー玉だけを残した空き壜だ。
「これが中身?」
そう尋ねて何気なく壜を振ったとき、おかしな感じがした。
壜もビー玉も、ガラスでできている。だからそれを振れば、お互いがぶつかり合ってからんからんと音が鳴るはずだ。
だけど今、ぼくの手元からは、何も聴こえなかった。
「冷たいから、気をつけてね」
おかしそうに笑った真湖ちゃんが手を伸ばしてきて、スクリュー栓をくるくる外してしまう。傾けた壜のなかを転がってビー玉が落ちてきた。
ぴん、とぼくらの周りにあった空気が弾けた。
そこらじゅうで鳴いている蝉の声も、木陰にいてもなおじんわり熱い湿気も、全部が跳ね飛ばされて涼しくなる。さらさら、さらさらと遠くで何かの音がする。囁くみたいに微かだけれど、確かにここまで響いてくる。
その音をぼくは、ずっと前から知っている気がした。
遠く遠く、ぼくらの生まれるよりずっと昔から、ぼくらのそばにあったもの。
音の正体を思い出そうとするうち、ぼくはうっかり瞬きしてしまう。
その拍子に、辺りはすっかり元通りの、暑くて騒がしい昼過ぎに戻っていた。
「ね、すごいでしょ」
得意げに顔を覗き込まれても、応える言葉がなかった。ただ手のなかの球体を眺める。
色と形はビー玉そのものだけれど、よく見るとなんだかおかしい。まず気泡や傷がまったくないし、何より軽すぎる。ガラスでできているとはとても思えない。鼻先に持っていっても、飴玉みたいに甘い匂いはしなかった。
「だめだ、わからない。これなに?」
諦めたぼくの手のなかで、ビー玉みたいな何かは気まぐれに転がる。べたべた触っても体温はちっとも移らず、ひんやりした感触が行ったり来たりする。
「これはね、きっと天の川の滴なんだと思う」
真湖ちゃんは、学校で友達がいない。
気取ってるとか、澄ましてるとか、何を考えているかわからないとか、陰口を叩かれている。でも一番の理由は、普通の人にはわからないことを、何かの喩えではなく本気で口にするからだ。夢見がちな女の子ではなく、誰も知らなかった事実を述べるえらい先生みたいに真剣な顔をしているから、みんな真湖ちゃんを遠ざける。
信じられないから。信じられないものは、怖いから。
真湖ちゃんは次第に学校で喋るのをやめた。いつもにこにこ笑っているだけになった。からかわれても、悪口を言われても。
気取ってなんかいないし、澄ましてなんかいない。考えているのは楽しいことばかり。そして、いつも嘘やでたらめじゃなく、本当のことだけを話している。
でもそれを打ち明けるのは、大事な人にだけ。
大事なことは、大事な人にだけ知っていてほしいから。
いつのことだったか、真湖ちゃんはぼくにそう話した。放課後の教室に夕陽が射していて、笑顔はいつもより陰って見えた。
「どうして、天の川の滴だって思うの」
「昨夜、なんだか眠れなくて庭に出てみたの。そうしたら、声がしたんだ」
「声?」
「うん。ケンタウルス、露をふらせ、って。大人の女の人と、男の人の声だった。でも周りには誰もいなかったの。真夜中だったし」
「それで?」
「びっくりしたけど、また声が聴こえるかもしれないって思ってそのまま立ってたよ。でも、今度はこれが降ってきたの。おでこに当たってすっごく痛かった」
「当たった?」
視線を真湖ちゃんの顔に移す。額の辺りをじっと見る。ビー玉みたいな何か、真湖ちゃんが言うところの天の川の滴は、軽いけれど落ちてきて当たったら相当痛いはずだ。たんこぶになっていないかたちまち気がかりになった。
「持ってみたら氷みたいに冷たかったから、これで冷やそうと思って、おでこに当てたの。そうしたら」
どうなったのかは、真湖ちゃんの真っ白でなめらかな額が物語っている。
他の人には見えないものが見えるだけで嫌われる。遠ざけられる。そんなのは変だと思う。
ぼくは、ぼくの見えないものが見える人をすごいと思う。その人と同じものを見てみたいと思う。それに、真湖ちゃんは嘘つきじゃないってことを、みんなに言いたいとは思っていない。みんなが信じるわけではないから。
でもぼくは、信じたい。本当なんだってことを確かめたい。
大事な人だと言ってくれた、ぼくの親友を信じたかった。
「これが天の川の滴だって、信じてる?」
ぼくの目を見つめたまま、こっくり頷く。
「じゃあ、これをどうしたい?」
ひとつ、小さく息を吸って、真湖ちゃんは口を開く。
「天の川に、返してあげたい」
やっとぼくは、今日呼び出された理由を理解した。
「あのね、さっくん。お願いがあるの」
「うん。なに?」
「一緒に調べてほしいんだ。二人でなら、きっと良い方法が見つかると思う」
まっすぐに見つめ返して、ぼくは答えた。
「もちろん、いいよ」
公園を出るとすぐに停留所が見える。十分も待たずにやってきたバスの、一番後ろに乗り込んだ。ぐらぐら揺れる座席のうえで真湖ちゃんはきっと口元を結び、目だけはきらきら輝かせて、ラムネ壜を握りしめていた。
ぼくの視線を受け止めたみたいに、ガラス越しに滴がちかりと光る。
誰にも内緒の、自由研究の始まりだ。
書架の森は広くて深い。ぼくらはそのなかをぐるぐる歩き回り、腕が痺れるくらいに本を積み重ねて席まで運んで、端から平らげるみたいに読み始めた。
宇宙の図鑑、月の石を持ち帰ってきたアポロ計画の記録、子供向けと銘打った相対性理論の解説書。本を読むのは好きだから、楽しいと言えば楽しい。だけど今日は事情が違う。
天の川の正体は銀河、星の集まりだ。ぼくらの住む地球や太陽系はそのなかにある。そして内側から銀河を眺めると、まるで川のように見える。だから天の川。この街を貫く川みたいに本当に水が流れているわけではないし、ましてそこから水滴が落ちてくるなんて話は、どこにも書いてない。
かんかんに熱した頭を冷ましたくて眼鏡を外す。天才のアインシュタインも、今回はぼくらの疑問には応えてくれないだろう。隣を見ると、真湖ちゃんは星にまつわる言い伝えの本を開いていた。神話や伝説といったお話が大好きだから、そっと声をかけても反応がない。仕方なく、ぼくは一人で席を立った。
天文学や物理学を使っても、この問題が解けないことはもう理解した。もっと違う方向から考えないといけない。本当はロケットを作って天の川の真ん中まで飛ばしてみたいけれど、実現するまでには何年かかるか想像もつかなかった。
「ぼくらは子供だ」
誰もいないのを良いことに、独り言を並べながら書架のあいだを歩いていく。
「知識もない、体力もない。今すぐ宇宙飛行士になんかなれない」
事実は事実だ。
あまりにもゆるぎなくて、非力なぼくはときどきたまらなく悔しくなる。
「ぼくは、ぼくらは非力だ。それでも」
ぼくらにできることがある
ぼくらにしかできないことがある。
小学二年生のぼくらだけのやりかたが、必ずある。
「それでもぼくらは、空に届くはずだ」
「そうだね。その通りだよ」
ばさりと、目の端で黒いものが揺れた。
誰もいないはずの書架で、独り言に返事をされる。
普段のぼくだったら、猛暑で熱中症を起こして幻聴を聴いた、くらいの解釈をつける。けれど、今はその程度の現実感では太刀打ちできそうになかった。
距離は目算で一メートル半、通路のまんなか。ぼくの進行方向にすらりと背の高い人が立ってぼくを見ている。軽く浮かべた笑みはやさしいと言うより、何か楽しんでいるようだった。
それだけなら、まだいい。
いくらここが冷房の効いた図書館だとしても、八月の昼間に、膝下ほどの長い丈の、しかも真っ黒なコートをまとう人がどこにいるのか。
ぼくらは日頃先生や親たちから口酸っぱく、ヘンシツシャに気をつけなさいと言いつけられている。変な人に声をかけられたら、絶対についていかないこと。近くの大人に助けを求めること。そして、近づかれる前に逃げること。
ぼくは踵を返し、書架の森から走って出ようとして、すぐにやめた。
「内緒話なら人払いをしないとね。こんにちは、水沢朔也くん」
ぼくの足でもほんの数十歩の幅しかない通路が、どこまでもどこまでも続いている。文字通り、どこまでも、だ。果てしなく延びる書架は、最後は一点透視の絵みたいにずっと遠くで霞んで消えていた。
ほとんど無限の長さまで続く、本の群れ。振り返ると、ぼくの来たほうもまた同じ景色に変わっている。
逃げ場はない。おまけに、名前まで知られている。
覚悟を決め、ぼくはその人へ向き直った。
「誰ですか。なんの用ですか」
できるだけ刺々しく響くように、喉にわざと力を込めて話した。
「回答その一。私は司書だよ。ここの、ではないけどね」
その人は体の陰に隠れていた片手を持ち上げ、ぼくに示した。
わずかに金属の軋る音を立てながら揺れたのは、真鍮のランプだ。キャンプに持っていくような形をしているけれど、ずいぶん古いものに見えた。
おかしなことに、丸いガラスの火屋のなかには蝋燭でも灯芯でもなく、代わりにぼんやり光る何かが入っていた。
「回答その二。私はきみたちを助けにきた」
「ぼくらを?」
つい問い返したぼくの背に、聴き慣れた声がぶつかった。
「さっくん!」
駆け寄ってくる姿を見て、思わず床を踏み鳴らす。
「真湖ちゃん、どうしてここに?」
「その人にお願いしたの」
予想外の答えに、ぼくは一瞬固まる。
「お願い?」
「さっくんのところに連れて行って、って」
「きみの友達でしょう? だったら、彼女もここにいる資格がある。だから案内したんだよ」
コートとランプを翻し、さも当然のように言うその人をぼくは強く睨みつけた。
真湖ちゃんを背後に庇い、ぴんと両手を伸ばす。背中を冷たい汗が伝って思わず身震いした。萎みかけた心に気づかれないように、足を踏ん張って立つ。
真湖ちゃんは必ず守る。手出しするなら、絶対に許さない。
けれど相手は、ぼくの敵意をあっさり受け流して涼しく笑った。
「うん、なかなか良い顔をするね。何かを守って戦う人は大抵そんな顔をする。その年齢で理解できているなら、大したものだよ」
そうして、視線をぼくの背後へ投げる。
「じゃあ改めて挨拶しよう。はじめまして、北上真湖さん。よく来たね」
真湖ちゃんが小さく頭を下げるのが肩越しに感じて、目の前が真っ暗になった。ぼくらは二人とも名前が知られていて、しかも他の人が入ってこられない空間に閉じ込められている。
欲しいのはお金か、それともぼくら自身か。
どちらにせよ、真湖ちゃんだけは。
「きみたちに危害を加える気はないよ、朔也くん。ところで」
乾いた喉で唾を飲み込んだぼくをよそに、話は進み出す。
「滴を持っているのはきみだね、真湖さん」
はっと振り返って見た真湖ちゃんは、あのラムネ壜を胸にしっかり握っていた。ぼくの背後から一歩踏み出すと堰を切ったように喋り出す。
「やっぱりこれ、天の川の滴なんですか? 何か知っていますか? わたしたち、これを天の川に返したいんです」
「真湖ちゃん!」
「せっかくなら訊いてみようよ。まだわたしたち、何も知らないじゃない」
痛いところを突かれてしまった。
確かに闇雲に本を漁ったって、ロケットを作るほどじゃないにしてもどれだけ時間がかかるか、考えただけで頭が痛い。かといってリファレンスカウンターに出向き、天の川の滴を空に返す方法が書いてある本を探している、なんて話したところで絵本のコーナーに連れて行かれて終わりだ。
こっちは本気で真面目なのに、さすが小学生は発想が柔軟でかわいらしいね、なんて顔をした司書の顔なんて見たくもない。
司書。
そうか。
向き直ると、その人は眉を片方ひゅっと上げてみせる。
「司書だって、言いましたよね」
幾分声が上擦ってしまったのが恥ずかしくて頬が熱くなる。けれど、その人は気にした素振りも見せず大きく頷いた。
「回答を続けようか。次は……その三か。それは確かに、間違いなく、天の川の水を撹拌して作った滴だよ。それから」
風もないのに、コートの裾が大きくひるがえる。
真っ黒な布地の内側には、無数の光が散りばめられていた。
それを背景に星がひとつ、すうっと走って消える。
まるで、天を渡る流れのような。
「回答その一と二を繰り返そう。私は司書だ。きみたちを手助けするため、今日、ここへやってきた。ある人から依頼を受けてね」
「じゃあ、教えてください。天の川の滴を空へ返す方法が書いてある本を」
司書は近くにあった踏み台を引き寄せ、足を組んで腰かけた。ぼくらをじっと見て口を開く。
「この問題の鍵は、天文学や物理学じゃない。もっと違うものが必要だ。常識の外側に流れる水は、常識で作ったコップじゃすくえない」
詩でも朗読するように、司書は語る。
「大切なのは、自分の知っている安全な場所から一歩踏み出して、流れに両手を浸すこと。すなわち」
ぴんと、長い指を立てる。
「方法そのものが書いてある本は、残念ながら存在しない。それを編み出すのはあくまで君たちの役目だ」
「そんな」
「ただし」
指先が抗議しかけたぼくを押し留めた。
「そのためのヒントが書かれた本なら、山ほどある。たとえばこれだ」
抜き取った一冊は、毎日ぼくらが見ている川についての資料集だった。
「北上川は実在する川です。天の川とは関係ない」
「天の川だって実在しているよ。それに、これを地に流れる川だとすれば、天の川は空に流れる川だ。対照的な存在、いわば双子の川だ」
「双子の兄弟がいて、片方の子が怪我をしたとき、もう片方の子も同じところに怪我をしたって、聴いたことあります」
声を上げた真湖ちゃんに、司書は感嘆したように手を叩いた。
「鋭いね。そう、大事なのはそこなんだ。双子は影響し合う。北上川と天の川、双子の川の片方に滴を投げ込めば、もう片方の川に届く」
「だけど、実際北上川に滴を投げ込んだところで、水の底に沈むだけです。空には届かない」
「なるほど。では朔也くん、あそこの本を取ってくれるかな」
指差す先にある本は、書架の一番上に収まっている。大人でも手を伸ばしても届かない高さだ。子供のぼくなら、なおさら届かない。
「ぼくの身長では無理です。あなたの座っている踏み台があれば、なんとかなるかもしれませんが」
「そう。書架の天辺にある本を取るなら、踏み台を使う。それでも届かなければ梯子をかける。ほら、もうほとんど答えだ」
いつまでもとぼけた口調に、さすがにぼくも頭に血がのぼった。とうとう声を荒げてしまう。
「いい加減にしてください。空まで届く梯子でも掛けろって言うんですか、ぼくらが子供だからって適当なことばかり」
「自分が子供だという理由で、きみは何かを諦められるの?」
すぐには言い返せなかった。
ぼくに投げかけられた声が、ぼくを見る目が、あまりに深かったから。
「確かにきみたちは子供だ。非力な存在だ。世間一般的にも、きみたちの認識のうえでも。だけどね、それはきみたちには何もできないという意味ではないよ。さっき自分で言ったじゃないか」
――それでもぼくらは、空に届くはずだ。
「もちろん、諦めるというならここまでだ。あくまで私はきみたちを手助けするように頼まれただけだからね、正解へ導けとは言われていない。あとは、きみたち次第だよ」
司書が言葉を切って、書架の森は静まり返る。
ぼくは俯いたまま口を噤んだ。
「あのね、さっくん」
いつまでも続くかと思った沈黙を真湖ちゃんが破った。
「さっくんが諦めるなら、わたしも諦めるよ」
息を呑んで振り返る。
真湖ちゃんは、ちっとも笑っていなかった。
「わたしたち、子供だよね。それは変えられない。だけど、さっくんと一緒ならなんだってできるって、信じてるよ。一人じゃ無理なの。さっくんがいなきゃ、だめなんだよ」
その手にはラムネ壜が握られている。
薄青いガラス越しに、滴は知らん顔のまま光る。
こんな変なものにぼくの心を見透かされている気がして腹が立った。そして、なんだかとてもおかしかった。
みんな勝手だ。勝手なことばっかり言う。だからぼくも、勝手にやる。
子供だからなんてもうどうでもいい。好きなようにやってやる。卑屈になるとろくなことがないって、心底わかった。
相変わらず楽しそうな顔に向かって、言い放つ。
「ぼくらを舐めないでください。ぼくと真湖ちゃんがいればできないことなんてありません。さっさと続きを話してくださいよ。梯子がなんだって?」
司書が笑みを深くする。瞳の奥がちかっと光った。
「梯子を使うのはきみたちじゃない。発想が逆なんだよ。本に手足がないから、人が書架にのぼって取りに行くだけのこと。もしも彼らが自由に動けるのなら、勝手に降りてくるさ。足場さえあればね」
本を彼ら、と呼ぶのが気にかかったけれど、それを指摘する前に真湖ちゃんが問いかける。
「わたしたちじゃなくて、天の川が地面に降りてくるってことですか?」
「その通り。地の川と空の川を結びつけ、互いが双子であることを思い出させるための、梯子にして
「でもそんな高い梯子、どこに」
司書の手が本を再び開いた。
「北上川の源泉、春を告げる鷲、脈動する天文台、イーハトーヴの最高峰」
ぱらぱらとページがめくれる。
「銀河へ届く頂を、きみたちはいつも見ているはずだよ」
こちらへ向けた見開きに、どこまでも伸びる裾野。
真っ青な空を従えて切り立つ稜線。ごつごつとした輪郭は場所によって表情を変えるけれど、堂々とした姿はどこでも同じ。
この街に住む誰もが、その山を知っている。
顔を見合わせて、ぼくらはきっと、同じ景色を思い描いた。
空を渡る星の川。その流れが岩手山の山肌を伝い、北上川へ降りてくる。
水面に無数の星が宿る。飛沫が上がる。ひとときのあいだに跳ねて、弧を描く。
「さあて、答えは出揃った」
司書は立ち上がり、本を元の場所へ戻すとひゅっと手を振る。しんとしていた空気がたちまち崩れて、延々続いていたはずの書架はすぐそこで途切れ、向こうに閲覧席の椅子が並んでいるのが見えた。
「今日は七夕だね。幸運を祈っているよ、小さな冒険者たち」
肩を叩かれ、ぼくらは並んでお辞儀をすると、書架の森を駆け出した。
再び、書架は静まり返る。
黒い裾がひとりでに揺れ、なびく。
司書は、去っていった子供たちの背を見届けたままの姿勢で立っていた。
「やっぱり子供の相手は向いてないな。サクマに怒られそうだ」
そう呟いて頭をかいた拍子に、司書はもうひとつ、二人に伝えることがあったのを思い出す。
七夕。すなわち、星祭り。祭りには歌がつきものだ。
今夜にぴったりの、とっておきの歌がある。星にまつわるあの歌が。
「まあ、知らないはずはないか。あの子たちならきっとうまくやる。理想郷生まれなんだからね」
独り言のかたわら、踏み台に置いたままのランプを取る。
火屋のなかの、ぼんやり光る三日月が合図をするように輝いた。
「依頼は完了です。またのご利用をお待ちしていますよ、先生」
無人の書架に声だけが残る。やがて空気の震えは減衰し、消えた。
暑いのは苦手だけれど、日が長いのは好きだ。外で遊ぶにも、窓際で本を読むにも適している。楽しいことを目いっぱいするには最高の季節だ。
ただし、普段通りであれば。
ぼくは今日ほど、早く夜が来るのを待ち望んだことはない。
夕飯をかきこみ、七時のニュースの終わり際に明日は早起きするからと嘯いて部屋に入った。思いつく限りの荷物をリュックサックに詰め込んで、靴は窓際に出しておく。自転車の鍵は家に入る前に外しておいた。パジャマではなく新品のポロシャツを頭からかぶる。
待ち合わせは午後九時、橋のうえ。
引っ張り出した星座早見盤をもう一度、ぐるりと回す。デネブとアルタイルとベガ、楕円の窓に一等星たちが三角形を描き、それを貫いて天の川は空を渡っていく。
どきどきと、胸の奥が激しく波打つ。その振動が両手に伝わって、紙のうえの夜空も揺れる。
そうだ、ぼくらは今夜、空を揺らす。
天の川の滴は確かに降ってきた。奇妙な司書がヒントをくれた。
他の誰にも見えなくたって、ぼくらはもう、おとぎ話の流れのなかにいる。
だったら、できることはただひとつ。
互いに手を離さず、全力で泳ぎ切る。
今夜が真実だと信じて、それを確かめるために。
蛍光塗料を塗った目覚まし時計の針が出発の時間を教えてくれた。荷物を掴む。がたぴし言う窓を少しずつ開け、靴紐をしっかり結ぶ。青い自転車は植え込みの陰でぼくを待っていた。
「バレたら怒られるな」
すっかり冷えたハンドルが、それがどうしたと独り言を笑う。そうだ、それがどうした。生きていれば、怒られたってやらなくちゃいけないことくらいある。こってりお説教されることよりも、今夜を逃がしてしまうことのほうが、ぼくはずっと怖い。スタンドを跳ね上げ、門扉を静かに押すともう遮るものはなかった。タイヤがアスファルトをじゃりりと噛んでぼくを急かす。
眼鏡をかけ直し、灯りを点ける。眼前の暗闇が整列して行く手を開いた。強くペダルを踏む。たちまち風がぼくを取り巻く。路地裏には誰もいないからどれだけ飛ばしても叱られやしない。サドルからお尻を上げ、体重を上げて踏み込んだ。ひと足、ひと足、全力で夜を漕いでいく。宙を切る鳥みたいに角を曲がり、空っぽの交差点を横切る。歩道へ乗り上げて表通りへ出た。車も人通りもまだあるけれど、ばかみたいに自転車を飛ばす小学生を誰も見咎めない。それどころか信号は勝手に青になって、人垣も自然に割れていく。タイヤに弾き飛ばされる小石ひとつ落ちていない。ぜいぜい息を切らしても、ハンドルから片手を離して汗を拭っても、道はどんどん開いていった。休む暇もない。足の痺れにたまらず路肩に停まって水筒を取り出そうとすれば、たちまち信号が点滅する。まるで挑発されているみたいだ。こうなればぼくだって負けられない、再び荷物を背負ってペダルを思い切り蹴る。ありったけの力で踏み込む。ひゅうひゅう喉が鳴るのも構わずに突き進む。ぐんぐん漕ぐ。ひた走る。やがて、誘うように風に水の匂いが混じり始める。目を凝らせば、川縁へ下りる道が街路灯のしたにぼんやり浮かんでいた。目的地までもう少し。大きくハンドルを切り、ブレーキをリズミカルにかけながら、まっすぐに坂を駆け下りる。
ざりざりざり、と派手に砂利を弾いて停まる。這うように自転車を降りてへたり込めば、ぼくの荒い息と、暗闇の向こうにせせらぎだけが聴こえた。
「さっくん」
ぱたぱたと駆け寄る足音に顔を上げた。
「真湖ちゃん」
懐中電灯の丸い光の向こう、ほっとしたような笑顔が迎えてくれた。ぼくよりひと足早くこの河原へ来ていたようだ。
「そんなに急がなくても大丈夫だよ。転ばなかった?」
灯りを頼りに腕時計を見れば、針はびっくりするくらいに進んでいなかった。充分余裕をもって到着できるようにもちろん計算はしている。けれど、こんなに早い時間で辿り着けるはずはなかった。
まだ荒い息を呑み込んで、空を仰ぐ。見える限りの青信号と頭上に浮かぶ星が同じ色をしていることに、今やっと気づいた。
「楽しみにしてるのは、ぼくらだけじゃないってことだよ」
ぼくを真湖ちゃんは一瞬だけ驚いた顔で見つめて、それから大きく頷いた。
「うん。わたしも、なんだかそんな気がする」
一斉に荷物を開く。星座早見盤を先頭に、双眼鏡、コンパス、赤いセロハンを貼ったライト。広げたシートの端を鞄で押さえ、簡単な食べ物と水筒を並べる。小さなクッションに腰かけて、ぼくらの陣地は完成した。
「いよいよだね」
「わくわくするね」
互いに交わす声が弾んで、意味もなく笑い合う。橋のうえにはまだ歩く人影があって、けれど誰もぼくらに気づかない。きっと今夜起こる魔法にも。
ぼくらだけの秘密。
大事なことは、大事な人にだけ知っていてほしいから。
「そうだ、今日の主役を忘れてたね」
真湖ちゃんは再び鞄を開いた。細い包みを恭しく解くと淡い青色のガラス壜が転がり出る。まんまるの滴はころころと揺れて、ちかりと瞬いた。
はっ、と息を呑んだのはそのときだった。
「だめだ。まだ足りない」
「足りない?」
「なんで気づかなかったんだろう。舞台はできて役も決まったのに」
先ほどまでの高揚感が嘘のようにしぼんで、ぼくは頭を抱えた。
「勝手に始まるんじゃないんだよ。合図がないと、始まらない」
物事はなんだってそうだ。始まるときには必ず、そのための合図が必要になる。はい始めますと言えば幕が上がるわけじゃない。
どうしよう? どうすればいい? 何をすればいい?
「なあんだ。だったら、そんなの簡単じゃない」
急に走り出した頭に気を取られる。そのせいで、気がつかなかった。
「さっくん。去年の学芸会は、みんなで劇をしたよね」
真湖ちゃんの声が急に透き通ったことに。
「……劇?」
唐突に始まった話を遮ることもできず、おうむ返しで答える。
「劇が始まる前に、幕が上がる前に、したことがあったよ。覚えてる?」
忘れるはずがない。
照明のなかに浮かび上がる、白い衣装を。
下りた幕の前、並んだ聖歌隊のなかに真湖ちゃんはいた。そこから一歩前へ出て、大きく息を吸った瞬間をぼくは確かに見たのだった。
ほんの数小節。それでも真湖ちゃんは、伴奏も従えずたった一人で唄った。
物語を始めるための歌を。
「今日は七夕だね。星のお祭りの日」
立ち上がり、裾を払った姿がほんのりと輝いているように見えた。
「だったら、ぴったりの歌があるよ」
すうっと水の匂いを吸い込んで。
「ケンタウルス、露をふらせ」
溢れ出したメロディを、もちろんぼくは知っていた。
あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
掲げた両手にはあの滴があった。
そのなかにぽつりと、灯が燈る。透き通って、次第に膨らんでいく。みるみるうちにぼくらを包み込み、河原を覆っていた暗がりが巻き取られていく。
幕が上がる。
さあっと、辺りが覚めるように明るくなった。
泉の湧き立つように、喝采の沸き上がるように、きらきらとざわめきがぼくらを包み込む。
「ねえ、見て!」
指差す先を確かめて、ぼくは思わず目を擦った。
夜闇にすっかり溶け込んでいたはずの輪郭が、ごつごつと切り立った峰が、空を背にして立っている。星の灯りを受けて、金属よりも重く、ガラスよりも透明に、岩手山は大きなその姿をぼくらに表していた。
そして、ぼくらは間違いなく見た。
その山肌を今、輝く水が流れてくるのを。
宇宙を潤す大きな河。その支流を。
それはたちまち川に混じり合った。弾けた飛沫が無数の光になって飛び跳ね、川面を流星が駆け抜け、水底の石が惑星の姿に重なった。
息を呑んで、立ち上がる。真湖ちゃんがぼくを見て頷いた。
聴こえる。ぼくらを呼んでいる。山が川が星が。
水は奏で、虫が鳴く。風が和音を響かせて、生い茂る草も声を合わせて、ぼくらを呼んでいる。
――ようこそ夜へ 双子の河へ
――歓迎するよ 冒険者たち
――今日は祭り 星の祭り
――唄い踊ろう 滴のように
――さあ
――始めよう
――さあ おいで!
汀を飛び越え、踏み込んだ水面はしっかりとぼくらを受け止めた。
靴の底から無数に広がる波紋が流れにぶつかっていくつも火花を上げる。水と光がぼくらを追いかけて駆け回り、高らかに鳴る。
何もかもが唄っていた。何もかもが輝いていた。
この夜のために。
「さっくん!」
伸ばした手は真っ白で、生まれたての星のようだった。
「さっくん、踊ろう!」
踊りかたなんて知らないし、恥ずかしくてやりたくない。
普段のぼくならそう言っただろう。でも、今夜は違った。今夜だけは、ぼくは知っていた。どんな風にリズムを取るのかも、ステップを踏むのかも。そして、体全部がぼくの思うように動くということも。
真湖ちゃんの手を取った。ふわりと蛍のように光が舞い上がって、メロディが立ちのぼって、ぼくらを包み込む。
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。
大ぐまのあしを きたに
五つのばした ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。
足を踏み鳴らし、高く飛び跳ね、くるくると回る。ぼくらの一歩から新しい星が生まれ、水になる。もう河原はまぶしいほどだ。星屑も水飛沫もそこらじゅうに満ちて、浮いては沈んでいく。ラムネみたいに涼しく泡立つ。世界じゅうの全部の色を集めても、全部の宝石を集めても、こんなに色とりどりに輝いたりはしないだろう。
「さっくん」
いつの間にか、真湖ちゃんの瞳にも星が宿っていた。
「わたし、さっくんの友達でいられて、本当によかった」
遠く未来へ続いていく光を、どうしたら忘れられるだろう。こんなにもぼくのそばで、強く輝いているのに。
「ぼくも」
だから目を逸らさず、ひと息に言った。
「真湖ちゃんが友達でよかった。これからも友達でいたい。これからも、ずっと」
願いごとはたったひとつ。
叶うと信じていれば、ぼくらはどこまでも走って行けるだろう。
「ありがとう」
微笑んだのを合図に、もう一度手を固く握り合う。滴の感触が祭りの終わりをぼくらに伝えた。
浸した手が銀色の粉をまとう。わずかに乱れた流れが虹色に浮き上がって、すぐにまた解けていく。水はきんと冷たくて、爪の先まで輪郭が切り立つようだ。
指の隙間から漏れた青色が、川の底をいっそう鮮やかに照らす。
「さようなら。元気でね」
天の川の滴は、ぼくらの手からこぼれて落ちた。ほんの一瞬だけ波と遊ぶように揺れたような気がしたけれど、すぐに溶けて見えなくなる。
それをきっかけにして、川は色を失い始めた。岸のほうからゆっくりと夜闇が伸び、飲まれた草木がざわめきを消していった。水も虫も、歌のないただの音へと変わる。
顔を上げる。あんなにくっきり空に浮かんでいた山の姿も、もう見えなくなっていた。
祭りが終わる。
たった一夜の夢。魔法のような時間だった。
光の名残がぼくらの周りをくるりと巡る。真湖ちゃんの指がそれに触れると、じゃれつくように爪のうえで跳ねた。
「楽しかったね」
「そうだね」
また明日から、普通の、なんでもない日が続いていく。夏休みが終わって、秋になって、冬が来る。これまでと同じように。
そうやって、ぼくらはあっけなく大人になるだろう。きっと
「次はどんなことが起こるかな?」
その声が、ぼくの虚しさを簡単に吹き飛ばす。
「え?」
さも当然のように、真湖ちゃんは言う。
きらきらした瞳で。
「ねえ、さっくん。次は何が起きると思う?」
その顔が、声が、あんまり楽しそうだから。ぼくはやっと思い出した。
シダレカツラの樹のしたに呼び出されるときは、大抵ろくなことが起きない。
だけどぼくは、何度でもそこへ行くだろう。
また新しいものを見つけた友達のために。
ぼくを待ってくれている、ぼくの友達のために。
「わかんないな。でも、なんでもいいや」
見上げた空に、夏の星座が傾いていく。
時間は進む。それでも、夜になればまた星は輝く。
ぼくらの魔法は始まった。これからも続いていく。
「真湖ちゃんがいれば、なんでもいい」
一等星よりもまぶしく光る笑顔が、隣りにいてくれるから。
「さっくん、大好き!」
作中の文章は以下のテキストより引用しました。
宮澤賢治 星めぐりの歌
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/46268_23911.html
夏のドロップ 此瀬 朔真 @konosesakuma
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