夏のドロップ

此瀬 朔真

夏夜滴瀝(カヤ・テキレキ)

※ 2021年9月18日に投稿した作品です


 里帰りも手慣れたもので、舌に馴染んだ夕食を平らげたあとは、いつものやつとの依頼で買ってきた土産物をひとつ頂戴して自室で寝ころぶばかりだ。

 年々小さくなる荷物はもはや内訳のほとんどを仕事道具が占めており、取り出した電子端末で新幹線での移動中と同様に論文を読み進める。齧った菓子の甘い欠片が液晶画面にほろほろと落ち、たっぷり練り込んだバターが液晶に滲まないよう慎重につまんで捨てた。

 窓辺の風鈴がささやかに鳴る。鋳物特有の高く澄んだ音色は、懐かしい響きで風の訪れを知らせた。

 風とは、しばしば物事の起こる先触れであるという。

 昔読んだおとぎ話のような、そんな空想めいたことを思い出したのは、窓から吹き込んだ風の香りのせいかもしれない。

 水の匂い、土の匂い、そして胸の躍るような、きらめくような夜の匂い。

 誘われるように顔を上げた俺のかたわらで、放り出したままの携帯電話が鳴る。

「ねえ、明日の夜って暇? ちょっと出かけない?」

 言葉こそ疑問形だが、断られるはずがないと確信している声で相棒は言う。前置きすら忘れるほどに弾んだその主が、誰かなんてもはや問うまでもない。

 俺だって巻き込まれてばかりは癪だ。だからそれなりに心構えも準備もできている。

「童話村だろ。何時に出る?」

 半開きの鞄のなかから覗く、二つ折りのパンフレットを見ながら答えると一瞬の間があった。

「なんでわかったの?」

「何年付き合ってると思ってんだよ」

 開催カレンダーにきっちり印をつけておいたことだけは口が裂けても語るまいと誓いつつ、そうふざけてみせるところころと笑い声が返ってくる。その明るい、適度に力の抜けた調子が何よりも疲れを癒してくれた。

「もう私の好みなんてお見通しだね」

「去年も行っただろ。覚えてただけだ」

「ちゃんと覚えててくれたことが嬉しいの」

 邪気のない声に汗ばんだ背中がむず痒く、咳払いをひとつして話を戻す。

「で、何時に出る?」

「六時に点灯だったよね。多分いつ行っても混んでるだろうけど、早めに着いたほうがいいかなって。どう?」

「そうするか。たまにはゆっくり観て回ろう」

「うん。じゃあ、五時に出発で」

「了解。家まで迎えに行くから、支度しとけよ」

「ありがとう。よろしくね」

 話し足りないのを堪えるように、早々に電話は切れた。続きはまた明日ということらしい。

 いつでも顔を見て話すことに重きを置く。目の前の風景が、直接感じる手触りが、何よりも大切なのだと、いつかそう言っていた。

 だから俺もこうして、時間ができれば故郷の街へ――盛岡へ帰ってくることにしている。

 車を借りたいと申し出ればデートだと冷やかされるのは分かり切っている。そのやりとりはうんざりするが、一緒に過ごす時間のためには些細な問題だ。居間へ出るべく立ち上がった俺を、再び風鈴が涼やかに送り出した。

『あとごふんまって』

 漢字変換の手間すら惜しいらしく、小学生みたいなメッセージが飛んでくる。了解とだけ返して、倒した座席に背中を預けた。

 夕時の路地裏にたむろする熱気を冷房で遠ざけながら、ラジオを切る。締め切った窓の向こうからでも蜩のさかんに鳴く声が届く。

 もの悲しい声に心をかき乱される思いがするのは子供の頃から変わらない。ただの感傷だとわかっているものの、今日はわけもなく焦燥感を覚えた。急がなくては、早く行かなければ。胸の底でそんな声がするようだった。

 大きく息を吐くついでに両手で髪をかき上げる。水滴をまとい始めたペットボトルを取り上げ、栓を捻りながら体を起こした。

 こういう奇妙な感覚は俺の担当ではない。少なくとも、門柱の向こうから飛び出してきた誰かさんのほうが適任だ。

 何気なくそちらを見て、ひらりとはためいた袖に目を奪われる。

「ごめん!」

 助手席の扉を開いて深々と頭を下げる、その格好にしばし言葉を失った。

 空色を背景に黒々とした燕が飛び交い、白く染め抜いた草の葉が揺れている。明るい黄の帯が鮮やかだ。結い上げた髪をまとめる簪の、とんぼ玉の透き通った色が目に沁みる。

「着付け、思ったより時間かかっちゃって。何度も練習したんだけど」

 困ったように首を傾げる仕草で、目蓋に散る細かい粒子がちかりと瞬いた。

「とりあえず」

 裏返りかけた声を咳払いで誤魔化し、空っぽの助手席を指す。

「乗れよ。急ごう」

 そう言うと、昼の朝顔のようにみるみる表情が萎れ、おとなしく乗り込んできた。それでも帯の結びを崩さないよう背筋を伸ばす姿に耐えかねて、ようやく白状する気になる。

「すごく似合ってる、似合い過ぎてて驚いた。だから、怒ってるんじゃなくて、その、なんだ」

 結露だらけのボトルに目をやる。俺もこれくらいみっともなく汗を垂らしていやしないかと、気が気でない。

「今日、来てよかった。誘ってくれて、ありがとう。北上」

 俯いた横顔と小さな石を留めた耳たぶが、かっと赤くなった。

「こっちこそ、ありがとう。水沢」

 蚊の鳴くような声で車内の気温は一気に上がり、俺はダッシュボードのボタンをせわしく叩く。噴き出す冷気のせいでもないのにお互いかちこちに固まったまま、やや速度違反気味に路地裏を出発した。

 高速道路で一路、南へ向かう。ぎこちなかった空気は徐々にほぐれていき、北上はいつも通り機嫌良く喋り出している。

「商店街のね、端っこに新しいお店ができてたよ。珈琲がすっごく美味しいの」

 浴衣姿を見るのは何年振りだろう。着飾るのは苦手といつも言うが、いざ着てみればすっかり馴染んだものだし、本人も気分が昂っているらしく普段より身振り手振りが多い。

「あの空き家、やっと埋まったんだな。今度行ってみるか」

「朝だけトーストを焼いてくれるんだって。十時までだったかな。蜂蜜とバターは地元産って言ってた」

「それは気になるけど、里帰りしてまで早起きはしんどいな」

「十時でも早起きなの? 相変わらず朝弱いんだから」

 愉快げな北上に、ふとさっきの奇妙な感覚を思い起こす。

「実は、さっき」

 蜩の声、急く心。ただの感傷と知っても笑わないとわかっているから打ち明けた数少ない相手は、神妙な顔で俺の話に頷く。しかし何を思ったのか途中で急に顔を曇らせた。

「そんなに早く行きたかったんだね。待たせて本当にごめん」

「いや違う、お前を責めたいんじゃなくて」

 完全に、タイミングと言いかたを間違えた。これじゃまるっきり北上の遅刻を糾弾する流れになってしまっている。相変わらず焦燥は俺のなかにあるらしい。

「普段着てないんだから時間がかかるのは仕方ないだろ。俺が言いたかったのは、自分でもどうしてこんなに焦ってるのかわからなくて、お前に聴いてほしかったってこと」

 北上は微笑んだものの、またすぐに難しい表情になった。右手の人差し指を軽く曲げて顎に添える。考えごとをするときの癖だ。

「今日に限って、なんだか焦る? どうしてだろう。童話村は去年も一緒に行ったよね」

「時期もほとんど変わらないな。去年の今頃だった」

 なんの変哲もない、代わり映えのない休日。そのはずだった。

「そういえば。どうして私、急に浴衣なんて着ようと思ったんだろう?」

 ちらりと視線だけを投げる。淡い青、羽を広げる燕。

「急に? 前から決めてたんじゃないのか」

 頭を振ると、散らした毛先がふわふわと揺れる。

「水沢から帰るって連絡が来たときには、もう着るつもりでいたんだよね。浴衣で童話村に行くって自然に決めてた。もう何年も、仕舞い込んでたのにな」

 もう何年も、の言葉が引っかかって、すぐ飲み込む。目元に深い隈を刻んでいた頃を思えば、楽しみを見つけられるくらいに回復したことは素直に喜ばしいことではあった。

「水沢はなんだか気が急いて、私は浴衣なんか引っ張り出して。うん、そうだね、確かに今年はちょっと変だ。なんだろう?」

 小さく湧いた憂いを、弾み出した声が払ってくれる。俺はそっと胸をなで下ろして応えた。

「また何か起こるのかもしれないな。ちょっと変なことが」

「起こるといいなあ。実はね、ここのところ、なんだか退屈だったんだよ」

 窓の外を過ぎ去る景色に、だんだんと薄い闇が降りていく。

「どうしてだろうね。小さい頃は、毎日何か起きていたのに。どうして退屈になっちゃうのかな」

「とりあえずさ」

 視線の先が遠くなってしまう前に、俺はアクセルをぐんと踏む。

「今日は、退屈じゃなくしよう」

 再び弾けた声を乗せて、車は夜と昼の境を駆け抜けていく。

 同じ方向へ向かう車が増え、ナンバープレートに書かれた地名をひとつひとつ北上が読み上げていく。それらの数とバリエーションが次第に増えていき、とうとうひと塊の渋滞になった。巻き込まれた俺たちは揃って顔を見合わせ、大袈裟に肩をすくめる。こうなるだろうと昨日の時点で予想していた。サイドブレーキを引いて、残り少ない炭酸を啜る。

「今年も盛況だね」

「誰も来なかったら一大事だ」

 このイベントを心待ちにしている人々が少なからずいるのは間違いない。それに、開いた窓から顔を出し、車の川がゆっくりと踏切を流れていくのを眺めながら、いまこそわたれわたり鳥、などと呟く輩がいる限り、誰も来なくなることもないだろう。

「髪崩れるぞ、頭引っ込めろ」

「大丈夫だよ。ろくに風も吹いてないもん。全然進まないし」

「それはどうしようもないな。まあ、たまにはもっと空いてりゃいいのにとは思うけど」

「見てみたいよね。他に誰もいないところ」

 実現しそうもない夢は夢のままで語るからこそ楽しい。それはよく知っている。丘を登る道は動かないテールランプばかりが赤く光って、夜景と呼ぶにはやや風情がない。

「綺麗だろうね。私たちしかいなかったら」

「きっと一生忘れないな」

 車はやっとのことでトンネルを抜けた。遠くで揺れる誘導灯に向かってなお辛抱強く進んでいく。俺が疲弊していると思ったのか、運転中でろくに見えないというのにこちらに指先を向けて、銀河を模したらしいネイルアートについて北上は熱く語る。とりわけ、中指の爪にあるケンタウルス座を描くのに費やした工夫と努力についてのエピソードはなかなか興味深かったが、話し尽くす前に車は駐車場へ滑り込んだ。

「続きは帰りに聴くよ」

 そう言って彩られた手を取った。たどたどしい草履の足音に合わせて、ゆっくり歩き出す。

「明るいところ、寄っていこう。ここじゃ暗くて見えないし。もったいないだろ」

 返事はない。ただ握り返す手の熱さだけが伝わってくる。ぽつりと呟いたのは、銀河ステーション、と書かれた門をくぐる頃だった。

「今日」

「ん?」

「頑張って支度して、よかった」

 お互いが今どんな顔をしているか見なくてもわかる。むしろ、夜の闇がありがたいくらいだ。

 並んで門をくぐれば、その向こうは光の庭だった。

 森をくぐる遊歩道には鉱石のような虹色のステンドグラスが立ち並び、ゆっくりと回るミラーボールが暗がりを青く照らす。スピーカーが放つ音の波が夜気を揺らめかせ、それが伝わる速度に合わせて視線を広場へ向ければ、草と花に飾られた大きな団栗が鎮座するのが遠くからでも見えた。

 光たちは干渉し、ときに混じり合い、ときに互いを跳ね返す。そぞろ歩く人の影がその無数の衝突のなかを縦横無尽に泳いでいく。空に隠された巨大な幻灯機が映し出しているようだった。

 ほうっと聴こえたため息は染み入るように深かった。

「今年も綺麗だね。何回見ても綺麗。私、ここが好きだなあ」

 噛み締めた喜びの温かく滲む、胸の底から湧き出すような声で北上は呟く。この舞い散る光がひとつ残らず瞳に映っていることだろう。

「ね、歩こうよ。行ってみよう」

 手に引かれるまま、曲がりくねる森の小路を踏む。地面から生えた架空の結晶には細かい透かし模様が彫られて、グラデーションの灯りにそれぞれ違った色で浮かび上がる。木々の葉は妖しく染まり、幹には鏡の反射がまだらに灯って、ゆっくり巡っては消えていく。

 それぞれがどんな構造をしているのか、眺めていれば概ね予想はできる。

「北上」

「なあに?」

「虹の出る原理って、覚えてるか」

「大体はね。空気中の水滴がプリズムになるんだったかな? 理科の時間に習ったはず」

「それを知ったときにどう思った?」

「どうって?」

「虹はただの光の屈折による現象だ。雨上がりじゃなくても、庭で水を撒けばいくらでも再現できる。それを知ってしまったら、もう価値はないと思うか?」

「そんなことないよ」

 たっぷりと返事に笑みを含ませて、そう応える。

「原理がわかったところで、虹の綺麗さは変わらないし、虹が綺麗だなって感じる私も変わらない」

 言い切る頬にさっと、流星に似たひと粒の光が走る。

「ここの灯りは、全部作り物だよね。水沢ならどうやって造るのかきっとわかると思う。でもそれって、また一緒にここに来られて嬉しいとか、あちこち光ってて楽しいとか、そういう気持ちまで否定するものじゃないでしょ」

 出発前の、あの奇妙な焦りの理由が少しだけわかった気がする。

 その言葉を。お前がそう言ってくれるのを、聴きたかった。待ち望んでいた。

「お前は強いな」

「良い親友を持ったからね」

 青白い森に、繋いだ手が強くシルエットになった。

 からん、と鳴った草履に振り返る。紺色の鼻緒が白木に映える、その片方が石畳に投げ出されていた。

「痛むか?」

 よろめいた体を引き寄せ肩に掴まらせる。裸足の爪先は暗がりで見えないが、おそらく擦り切れて真っ赤になっていることだろう。

「やっぱり履き慣れてないとだめだね。いつも着物の人ってすごいな」

 無理に明るく振る舞ってみせるから、少しだけ声を尖らせる。

「痛いなら痛いって言え。迷惑なんて考えなくていい」

 気圧されたような間があってから、ようやく白状した。

「ちょっと、休みたいな。すごく痛くて」

「わかった」

 肩を貸しながら、道を逸れて広場を横切っていく。端にはイベントのためのステージがあり、それに連なるように屋台と、パラソルを広げた机がいくつか出ている。幸い空いている席が見つかったので先に北上を座らせ、飲み物を買って急いで戻った。

「これで冷やしておけ。多少ましになる」

「ありがとう」

 冷えた緑茶のボトルを差し出すと、取り出したハンカチでくるりと巻いて足に当てがった。めくれた裾が目に留まる。さりげなく椅子をずらして、人目を遮りながら隣に腰かけた。

「まだ全然歩いてないのに。ごめんね」

「いいよ。俺も少し休みたかった」

 麦茶をあおる。ぬるい炭酸飲料でべたつく喉が洗われて気持ちいい。確かに歩いた距離は大したものではなかったが、人混みを進むのは骨が折れるものだ。しかも辺りは真っ暗で、はしゃいだ子供が急に飛び出してくることもある。尚更気を抜けない。

「まだ時間はあるし。そのうち人も減るだろうから、適当に休みながら行こう」

 慰めではなく、本心を述べたつもりだったが北上の強張った肩からふっと力が抜けた。

「それに、ここからでも充分見える」

 つい先ほど気づいたことだったが、俺たちが陣取っているのはなかなかの特等席らしい。森の小路は全体が一望できるし、その脇を走る小川にも灯りが並んでいるのがわかる。随分距離はあるものの、輝く団栗が放つ光の線もはっきりと見え、それが空へ伸び、次第に夜へ溶け込んでいく終端さえも目で追えた。

「そうだね。でも、さすがに池は無理かな。ちょっと遠い」

「もう少しあとだな、あそこは。落ち着いて見たい」

「いっつも人多いもんね」

「狭いせいもあると思うんだよな。もっと奥の桟橋まで開放してくれたらいいのに」

「絶対誰か水に落ちるよ。深くはないみたいだけど」

「こういうときは、馬鹿騒ぎしてる大人が落ちるんだ。で、自分のせいなのに文句言いながら帰ってく」

「ふふふ、最悪。想像できるけど」

 会話のテンポはまずまずで、さほど気分が沈んでいるわけではないらしい。

「何か食べるか?」

「ううん。大丈夫」

 美味そうな匂いの漂ってくるほうを示すとゆるりと首を振る。

「もう少し、ここで座っていよう」

 減衰して、今にも消えそうな光がここまで届き、隣の横顔をわずかに照らす。淡い影は夜風に揺れるカーテンのように軽く涼しい。

 ざわめきは広場じゅうに満ち、渡る風にそよぐ木々の葉と草がそれに合わせて唄う。光と音が漣をなして空へ地面へ広がっていく。ホワイトノイズの万華鏡のなかに庭は踊る。

「何か起こりそうだ」

 いつになく胸が騒いで、独りでにそう口にしてしまう。

「起こるよ。ううん、きっともう、起きてる。忘れてたんだよ。退屈なんかじゃなかった。だって」

 返す声は確信めいていた。

「魔法は始まってる。ずっと前から」

 不意に背けた顔が気になって、視線を追いかける。

 俺たちのすぐ脇、同じようにくつろいでいたはずの家族連れがいない。

 汗を拭う母親も、ソフトクリームをなめていた少年も、椅子の近くに留めていたベビーカーも消え失せている。

 それだけではなかった。

 芝生を駆け回る子供たち、しきりに呼び込みの声を上げる屋台、携帯電話やカメラをかざす観光客。彼らの姿もまた、どこにもない。耳を澄ませばスピーカーも沈黙している。

 俺たちを取り巻いていたざわめきから人の気配が消え失せ、代わりに鳴き交わす虫たちの声が澄んで立ちのぼってくる。

 がらんとした夜の庭に、俺たちだけが変わらず座っていた。

 俺たちだけ?

 違う。振り返れば、人影がひとつある。

 団栗が投げかける光の線を、後光のように背負う誰か。

 北上が小さく息を吐いた。

 こちらの視線を受け止め、人影はふらりと歩き出した。くつろいだ歩調で、それでも迷わずにまっすぐ、こちらへ向かってくる。

 さくさくと鳴るのは草を踏む音に違いないのだが、どうしてかそうは聴こえなかった。喩えるなら、開けたばかりのラムネ壜から噴き出す泡のような。

「おばんでがんす。」

 刈り上げた頭を丁寧に下げ、糸のように目を細めるその人物が、俺たちと少しばかりずれた存在であることはすぐに見て取れた。

 いくらここが雪国の東北とはいえ、八月に革の上着など着るはずがない。

「いや、よい夜ですな。すてきな匂いのする夜です。」

 土の匂いのする声は人懐こい響きで耳に届く。そのまま俺たちの近くまで歩み寄ると、そこになかったはずの三脚目の椅子をごく自然に引いて腰かけた。膝のうえで両手を組み合わせる仕草を忘れるほど、俺も記憶力は悪くない。

「そうですね、晴れてよかったです。せっかくお洒落してきたので」

 北上が袖を広げてみせると、相手は大袈裟なほどに頷いた。

「ああ、じつに見事な浴衣です。空を織り込んで、帯はトマトの色ですね。じつによくお似合いですな。」

 そう褒め称えて、同意を求めるように無邪気にこちらへ顔を向けた。背は高くないがしっかりした体つきの男だ。年齢の掴めない、少年のような老人のような雰囲気をまとっていて、その浮き世離れした気配がかえって俺の警戒心を解いてしまう。

「ええ、本当に。本人が思っている以上に人目を引いているんだから、もう少し自覚してほしいものですよ」

 再び顔を真っ赤に染める北上に男は快闊に笑う。

「いや、すてきですね。あなたはもうこの人が大切でたまらないのでしょう。ただいっしょにいるだけで幸福なのですね。」

 今度は俺が泡を食う。率直な言葉を投げかけた男はひとしきり笑うと、急に思い出したというように名乗った。

「わたくしは、ケイ・エムと申します。銀河の使いで参ったものです。あなたがたは?」

「水沢といいます。それから」

「北上です、こんばんは。あの、ケイさん? エムさん?」

「ああ、どちらでも構わないのです。なんでしょうか?」

「銀河の使いってなんですか? よかったら、教えてもらえませんか」

 北上が問いかけると、待ってましたとばかりに両手を広げ、満面の笑みで語り始める。

「今夜は星のお祭りですから、そのお祝いに天の川の滴を届けてきなさいと言付かってきたのです。ところが、届け先を尋ねるのを忘れてしまいましてね。いやまったく、久しぶりにここらを歩いてもよいと言われて、なんだかわくわくしてたまらなかったのですよ。そうして急いで飛びだしてきてしまったものですから、ひどいものでしてね。」

 ひどいとは言葉ばかりで、本人は実に楽しそうにはしゃいでいる。このまま世界じゅうを歩いて届け先を探しても構わないとばかりに気力に満ち溢れているようだった。

「天の川の滴、ですか」

「ええ、渚へ出て、水を少しばかり汲んでくるのです。じつに透明ですから、よく目を凝らさないときちんとすくえたかわからないのが難しいのです。そうしてこいつを、壜に詰めて蓋をして、よく振ります。搾りたてのミルクを振ると、だんだん分離して、バターになりますね。あれと同じ具合です。どうです、ご覧になりますか。」

 ケイ・エム氏はそう言って、上着のポケットに手を入れ、何かを取り出した。俺たちの目の前にそっと置く。

「先日できたばかりの、まだ新鮮な滴です。今日のために特別に作ったのですよ。なにしろ手間がありますからね」

 三角フラスコに似た小さなガラス壜のなかには、ごく淡い青色の球体が入っていた。大きさもあいまってビー玉そっくりだが、壜を傾け、ガラスの面に触れ合わせてもかちりとも音を立てない。

「触ってみてもいいですか?」

「ええ、ええ、どうぞ。ちょっとばかり冷たいですがね、さあどうぞ。」

 コルク栓は軽い音を立てて開き、滴は転がり出してくる。それが触れた瞬間、北上の手がぴくりと動いた。

「大丈夫か?」

「うん、平気。思ってたよりも冷たかっただけ」

 ほら、と差し出してくるのをつついてみると、確かに指先はきんと冴えた感覚を伝えてくる。氷よりももっと冷たいが、人の体温を拒むようなとげとげしさはなく、今日のような暑さには心地好いほどだった。

「この滴は万能薬にもなりましてね。草で切っても畑で転んでも、肺が痛んでも、これがあればたちまち良くなります。しかしあんまり作ると天の川が枯れちまいますから、特別なときにだけこしらえるのです。」

 万能薬という言葉を聞いて、無理は承知で尋ねてみる。

「ってことは、靴擦れにも効きますか?」

「ええもちろんです。ちょっと当ててやれば、ひんやりしてすぐ治ってしまいますよ。」

「少しでいいので、貸してもらえませんか。北上の怪我を治してやりたいんです」

 俺の言葉に北上が目を丸くする。

「だめだよ水沢、預かりものなんだから。勝手に使ったら」

「北上は今日のために、慣れない浴衣と草履で出てきてくれました。一緒に出かけるのを楽しみにしていたんです。どうか、お願いします」

 ケイ・エム氏はしばらく、じっと俺の顔を見ていた。その瞳にいくつもの色と模様が現れて、揺らめいては消えていく。それを瞬きもせず直視しながら、銀河のほとりに住む人はこんな目をするのかと、頭の隅でぼんやりと考えた。

 やがて銀河の使者は、満足げに顔をほころばせた。やさしい目尻がぐっと下がる。

「けっこうです。どうぞ、お使いになってください。」

「ありがとうございます」

 滴を摘まみ上げ、席を立った。躊躇う北上を制して足元にしゃがみ込む。鼻緒で擦れた指の股はまだ痛々しい。

 そこへ、滴をそうっと当てた。

 一瞬だった。

 肌に触れた途端に火花が弾ける。焼かれるマグネシウムやアーク溶接よりももっと目映い光が膨らみ、広がって、すぐに消えた。咄嗟に閉じた目蓋の裏でいつまでもそれが瞬く。網膜のうえで暴れるそれに苦労しながら目を開くと、北上もまた袖の向こうに顔を隠していた。

「いや、驚きました。新しいほどよく光ると聴いていましたが、こいつは見事だ。できたばかりの星だって、こんなにまぶしくは光りません。たいしたものですね。」

 声のするほうへ向けば、顔を紅潮させたケイ・エム氏が手を叩いている。

「さあ、ご覧なさい北上さん。もうすっかり治りましたよ。」

 促されておそるおそる袖を下ろした北上はしばらく茫然とした様子だったが、俺の顔を見るとはっとして手を掴んできた。

「大丈夫だよ。火傷も怪我もしてない。それよりほら、足」

 そっと爪先を見せれば、薄い皮が剥けて赤く腫れていた患部はすっかり消え失せ、いつもの白い皮膚がそこにあった。深い色に染めた爪がよく映える。ぎゅっと指を縮め、また開く。北上はかたわらに置いた草履に再び足を通すと立ち上がって、ぴょんとその場で飛んでみせた。

「もう大丈夫だな」

 頷いて、今度はケイ・エム氏に向かって深々と頭を下げる。

「ありがとうございました。それと、預かりものをお借りしてしまって、ごめんなさい」

「どういたしました。お元気になってよかったです。これでまた、二人で一緒に、どこまでも歩いて行けますね。」

 俺たちは顔を見合わせ、きっとまったく同時に嬉しさが込み上げて、晴れ晴れと笑った。本当に北上とどこまでも行けるような、そんな気がした。

 明日には消える儚い夢だとしても、今だけは、俺たちにとっての真実だ。

「ああ、そういうことですか。やっとわかりました。」

 出し抜けに叫び声がこだまして、北上と二人で飛び上がる。

「そら、先ほど、滴の届け先を尋ねるのを忘れてしまったと言いましたね。ほんとうはそうではなくて、誰に届けるかはわたくし自身が見つけて、決めることになっていたようです。まったく銀河とはおもしろいものです。」

 おもしろい、おもしろいと繰り返しながら、ケイ・エム氏はひょいと席を立った。その拍子に上着の裾が揺れ、黒々と染まりながら生き物のように膝のしたまで伸びていく。

「決めました。その滴は、あなたがたに差し上げます。」

 片手に提げた山高帽をかぶり、そう宣言した。突然のことに返す言葉が束の間、見つからなかった。

「いや、もっと慎重に相手を選んだほうが」

「あなたがたはもう、滴のほんとうの使い道をご存じのはずです。」

 言い募る俺を押し留め、やわらかく細めた目にすうっとひと筋、星が走る。

「水沢さん。そうでしょう。」

 風が吹き寄せ、誰もいない広場を渡っていく。舞い上がったコートの裏地に深く遠い銀河が映る。

 まだ指先に持ったままの滴を、ぎゅっと手のひらで包む。

 それが返事になった。

「ありがとうございます。北上さん、水沢さん。これでわたくしの仕事はおしまいです。これからしばらく、好き勝手に歩いてくることにいたします。ではさようなら。」

 帽子のつばに手をやり、くるりと背中を向ける。来たときと同じようにまっすぐに、電燈たちの交わす光へ吸い込まれるように遠ざかっていく。

「先生」

 鳴る風に負けないように、力いっぱい北上は叫んだ。振り返った影に大きく手を振る。

「さようなら、先生」

 その姿は遠く逆光で、表情は一切見えない。けれど、俺たちは知っていた。

 風のなかへ溶け、飛び去っていく瞬間まで、彼が笑っていたことを。

 再び、庭に静けさが落ちる。

 握ったままの手を開けば、変わらず滴はそこにあった。頭上に仰ぐ銀河から作った、特別な贈り物。

「思い出したよ。二年生のときだったね」

 話そうとしたことを、先に北上が口にする。

「いつもみたいに水沢を呼び出したんだよね。すごいもの見つけたって」

「正直、また変なもの拾ってきたと思った」

「困ってたもんね」

「お前が持ってきたから無下にもできないけど、どうしたらいいかもわからないし」

「そう、だから図書館に行ったよね。必要なことはみんな図書館にあるからって言い切ってね」

「まったく俺らしいよ。まあ、まさかああなるとは思ってもみなかったけど」

「ね。大冒険だった」

「夜中に家を抜け出して、橋まで行ってさ」

「たくさん唄ったね」

 ぽつりぽつりと思い出話をして、どちらからともなく歩き出す。誰もいない広場をゆっくり横切っていく。深く夜に覆われて、夢に描いた俺たちだけの光の庭を散策する。

 繋いだ手のなかで、滴はまだ新鮮に冷たいままだ。

 消えては現れる影をいくつも引きながら、やがて自然と足は広場の奥へ向かう。

 凪いだ水面はまるで鏡だ。中空に浮かんで見える虹の結晶と、向こうの岸に立つ光の十字架がそのまま逆さになって映り、かすかに揺れている。ほとりに咲く花の甘い匂いが漂う。

 静まり返る桟橋の端に並べば、あの物語の一節が自然と脳裏をよぎった。

 北上が静かに手を合わせ、目を閉じた。

「どうか、届きますように」

 揃えた指先に、白く描かれた星座が灯っている。

 星祭りの夜。天の川の滴。

 過去が未来へ追いつくのか、未来が過去へ至るのか。どちらなのかなんて、俺たちにはわからない。わからなくても構わない。

 魔法はずっと前に、始まっていたから。

 倣って瞑目する。ただ願う。親友の願いが、今夜の空へ届くことを。

 そうだよ先生。俺はもう、使い道を知っている。何も心配いらない。

 叶うと信じていれば、光はどこまでも飛んでいくだろう。時間さえも超えて。

「ケンタウルス、露をふらせ!」

 思いきり投げた滴は、揃えた声に押されて高く舞い上がり、やがて一面の星にまぎれて見えなくなった。





作中の文章は以下のテキストより引用しました。 

宮沢賢治著、谷川徹三編『童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇』岩波書店、1951 年

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