本文

 私の心はいつも空っぽ。あるとすれば、際限なく湧き上がるこの分からないわだかまり。この正体の答えは扉の先にあるのだろうかり行ってはならない、とアンノウンマザーから教わった扉の向こう。私はずっと気になっていた。何があるのだろう、何が存在しているのだろう。どうして、そう思うのだろうって。


 今、この扉を開いたら何が変わる。何も変わらないかもしれない。それでも、これを無かったことには出来ない。だから、私はこの扉の先に行くんだ。


 ◇◇◇◇


『ミラクル戦士マジカルリリ。毎週水曜日、夕方五時頃放送!』


 人混みに紛れて俺の耳に聞こえてくる推しの声。会社で疲れた体にこの声は薬になって、俺の疲れの特効薬になる。

 都会の中心でデカデカと取り付けられた、テレビに映る推しを見るのが俺の日課。会社に行く時と、帰る時。毎日二回、必ずこの目に焼き付けている。パソコンで無駄な文字の羅列を見せられた、この目には推しの姿はどんな目薬よりも、目の疲れを取ってくれる。早く家に帰って、溜まっているアニメの消化をしてしまわないと。


 都心は電車がビュンビュンと走っている。忙しくなく、電話を片手に改札を通る人々。いつも生き急いでいるように見えてしまう、その光景を横目に俺は階段を降り電車のホームに行く。


「危険ですから、白線の内側に立ってお待ちください」


 電車が来ることを告げるアナウンス。耳に染み込んで、もう聞き飽きた警告。ガタンゴトンと轟音を鳴らしながら、ホームに入ってくる電車。キィー、とブレーキを踏み決められた場所に止まる。扉が開き、蟻の大軍のように人がホームに流れ込む。入る人と、出る人でホームはごっちゃになる。

 流れに逆らうように、俺は電車の中に入る。無理やり詰め込められた弁当箱のように、電車は人でごった返し息苦しい。この状態を十五分耐えなければならない。減って、また増えて。それを繰り返し五駅。家の最寄り駅に着く。


 プシュー、と開く扉は天国へ続いているように見えた。息苦しさから解放され、目いっぱい肺に空気を吸い込む。少し喉が渇いて、駅のホームにある自販機に目を移す。自販機のラインナップを見ていると、マジカルリリとコラボしたぶどうジュースが売られていた。


「そういえば、今日からだったか。財布にお金は軍資金 うんたっぷりだ。全種類揃えるぞ」



 コラボグッズは買い逃しがないように必ずネットでチェックを欠かさずしている。これも俺の日課だ。もし、買い逃してしまえばオタクの恥晒しになってしまう。磔にされても文句は言えまい。

 そして売られているぶどうジュースのコラボラベルは五種類。オタクとして全て揃えなければならない、義務を俺は負っている。幸い、財布は潤っている。これは神からのお告げだ。全種類揃えろという。

 俺は財布から小銭を先ず取り出し、自販機に飲み込ませる。ガコン、と音を鳴らし取り出し口からコラボラベルに変わったぶどうジュースが一つ落ちてくる。一つ、また一つ。どんどんお金を入れていく。


「……あと一種類」


 落ちてきたぶどうジュースの数は七個。全然許容範囲内だが、これ以上ぶどうジュースはいらない。だから、十個いくまでに出さなければ負けなのだ。運命の八個目、落ちてきたのはまだ見た事のないコラボラベルだった。鞄にパンパンに詰め込まれたぶどうジュース達を、家に持って帰る。

 ラベルの柄が被っているぶどうジュースを、一本だけ取り出し口の中に流し込む。潤いが消えていた喉にぶどうの芳醇な甘さが広がる。

 飲みかけのジュースをプラプラ宙に踊らせながら、帰る途中にある業務スーパーに寄る。今日は、ジュースを買いすぎたせいでお金は心許ない。半額にされている唐揚げ弁当を一つ手に取り、セルフレジで会計を済ませる。スーパーを後にした、俺は月明かりだけが明かりとなった路地を進んでいく。

 ふと空を見上げると、満ち足りた満月が浮かんでいた。徐々に雲が月を覆い隠していく。雲のが月の半分を隠し、半月となる。


 業務スーパーから路地を十五分歩いた所に、俺の家はある。築二十年の二階建てアパートで、まだ綺麗な方で家賃は五万程度。1LDKでトイレ風呂別。一人暮らしならば、十分なデカさの家だ。そう、一人暮らしならば。


「えっと、君はどこからやって来たの?」


「―分からない」


「迷子ちゃんかあ、困った。いや、迷子なのは分かってたのだけど。それに、あげてしまった俺が悪いんだけど、推しに激似の少女が困っていたらあげてしまうのは普通だろう。 うーん、とりあえず脳内会議」


 俺の横に佇む端麗な彼女。腰まで伸びた濃紺の髪。青色の瞳。 勿忘草色のセーラー服。この姿はまさしく、青年少女冒険譚に出てくるアレシアの格好そのものだ。一瞬俺は幻覚を見すぎてしまったのだろう。と思っていたが、家の明かりに照らされる彼女を見て確信した。これは幻覚では無いと。

 何故、こうなったか。時を五分前に巻き戻してみよう。


 ―五分前―


 家に着いた俺は階段に座る一人の少女に目をやっていた。俺の部屋は二階にあり、彼女が座っている階段を登らなければならない。しかし、こうも通せんぼされていたら通るものも通れない。話しかけるしかないのか、と心を決めて彼女に話しかける。


「そこ通ってもいいかな?」


「……」


「あの、聞こえてる?」


「はい、聞こえてます」


「なら、通ってもいいかな?」


「通るとはなんでしょうか?」


「え? いや、通るは……あれどういう意味だ?」


 階段に座ってどこうとしない彼女に通るの意味を聞かれ、逆に俺が困惑してしまった。通るを、口で誰かに説明しろというのはこんなにも難しいことだったのか。

 それに、この子青年少女冒険譚に出てくるアレシアに激似だな。こんな子がなぜこんな夜更けにこの階段に座っているのだろう。もしかして、幻覚?月が見せてる蜃気楼?


「えっと、お父さんやお母さんは? 名前は?」


「お父さん?お母さん? 名前?それはなんでしょうか?」


「おっと? それも分からないのか。うーん困った。このままここに放置というわけにもいくまい。よし、俺についてきて。この意味は

 分かるよね?」


「ついていく。貴方の後ろを歩けばいいということでしょうか?」


「大正解」


 という事が五分前にあり、今に至る。お父さんも、お母さんも、名前も分からない国籍不明の彼女を家に招き入れてしまった。これは犯罪にあたるのだろうか?もしあたるとしても、記憶喪失かもしれない彼女をみすみす見過ごすことは出来ない。

 あれやこれやと考えていると、俺の腹がぐぅと鳴る。こんな美少女の前で、腹が鳴るなんて。もうお嫁に行けないと、思いながらもシンクに置いておいた、唐揚げ弁当を電子レンジで温め直す。


「あ、着替えるから目つぶってもらっておいていい? これは犯罪になると思うから」


「犯罪……?目を瞑る?」


「あちゃー、本当に何も分からないみたいだ。目をつぶるってのは、俺を見てるそれを閉じるってことだよ」


「こうですか?」


「そうそう、それを俺が良いよっていうまで続けておいて」


 彼女がいる前で着替えるのは、セクハラだろう。これは立派な犯罪になる。俺は、彼女に目をつぶってもらい早々とスーツからグレーの部屋着に着替える。部屋着に着替えると、電子レンジがちょうどいいタイミングで弁当を温め直してくれる。


「あ、君も何か食べる? お腹空いてない?」


「食べる。それのことですか?」


「うん。これ食べる? 冷蔵庫にまだ何かあったはずだけど」


「美味しそう、食べる」


「じゃあ、食べよう。そこに座って。確か、ここに紙皿と割り箸があったはず。おっ、あったあった」


 彼女は食べる、という行為も分からないみたいだ。まるで、産まれてたの赤子のようだな。彼女に、温め直した唐揚げを紙皿に移して渡す。二人で丸い小さいテーブルに向かい合って座り合う。


「俺と同じことをして。こう、手を合わせていただきます」


「こうですか?」


「そうそう。それでいただきますって言うんだ。ご飯を食べる前は、いただきます。食べ終わったあとは、ご馳走様でした。分かった?」


「はい」


「それじゃあ、いただきます」


「いただきます」


 俺が先に手を合わせ、見本を見せてから彼女に真似するよう言うと、彼女は手を合わせる。言葉で言うのは苦手だが、行動で教えるのは得意かもしれない。二人で、いただきますを言いご飯を食べ始める。


 しかし、彼女は割り箸が上手く扱えないようだった。上手く持つことすらままにならず、唐揚げを食べる以前の問題になっていた。俺は、箸入れからフォークを取り出して彼女に手渡す。


「これ使いなよ。こうやって、刺すんだ。 使いやすいでしょ?」


「……取れた。いけた」


 彼女は唐揚げを自分の力で刺せたことが、余程嬉しいのか、目の輝きがこれでもかと光っていた。


「それにしても、あれだね。名前ないとなんて呼べいいか分からないね。うーん、エミリーとかどう?」


「エミリー?」


「君の名前どうかな? 嫌なら断ってもいいけど」


「いえ嫌というのは分かりませんが、ここがポカポカします」


「それ嬉しいってことでいいかな? いや、なんかこの言い方気持ち悪いな」


「嬉しい?嬉しいってなんですか?」


「え? そうだなあ。何か買ってもらってやったー、とか。こう、胸がホンワカすることを嬉しいって言うんじゃないかな?」


「これが嬉しい……。なんだが、暖かくて素敵」


「まあ、気に入ってもらえてそうならそれでいいよ。俺は成瀬名」


「成瀬……私はエミリー。ふふ、エミリー」


 彼女は自分の名前を言うと、表情を崩して無邪気に笑ってみせた。ここから俺とエミリーの右も左も分からない生活が始まった。

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④オタクはアニメのその後を知らない。 青いバック @aoibakku

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