第3話
娘の様子がおかしい。柊木ねねは食卓テーブルに両肘をつき、組み合わせた両手で口元を隠しながら息子を睥睨した。
「まさかとは思うけどお兄ちゃん、ののちゃんに変なことしたんじゃないでしょうね」
「ついさっき帰省してきたところなのにそんなわけなくない?」
ここ三カ月は顔すら合わせてないのに、と眉をしかめる息子、柊木ナツキの言い分に心動かされた様子は欠片もなく。「お母さん、知ってるのよ」とねねは続ける。
「『JK』、『妹』、『退魔師』、『無理矢理』、『りょうじ――』」
「えろ系の検索履歴暴露はいっちばんやっちゃいけねえことじゃねえかなあ!?」
「だまらっしゃい! 見られたくないなら家族共有のタブレットでそんなもの調べるんじゃないわよこのバカ息子!」
「普通見ねえだろ検索履歴なんか! なんで見てんだよクソババア!」
「そんなのお父さんの浮気防止に決まってるでしょう!」
「え」
「はああああ!? そんならその履歴もオヤジのやつなんじゃないですかねえ!?」
「ちょっと」
「そんなわけないでしょお父さんは『ラブラブ』『両想い』『いちゃいちゃ』で検索してたんだから!! さすが正司さん創作物でも可哀そうな人を見るとしょんぼりしちゃう心優しさ! 好き! でも後でお話があります」
「ねねさん!?」
「はっはーん! 男の性癖が一種類しかないなんてさすがクソババアは見識が浅ぇなあ! そんなんオレだって見るわバーカ!」
「兄妹もの両想いイチャラブなんてファンタジーしか受け付けないバカ息子に見識の狭さを指摘されたくないわねえ……!!」
「ふたりともストップ! さすがにののちゃんが起きてきちゃうよ!」
その言葉に、食卓テーブルを挟みメンチを切り合っていたふたりはハタと我に返った。
既に前期の授業が終了した気楽な大学生であるナツキと違い、ののは今まさに期末テスト期間真っ最中。くだらない言い争いで――悲しいかな、母子ともにくだらない争いだとわかっていながらも引くに引けない争いであった――こんな夜中に起こした日には、向こう一週間はひと言も口をきいてくれなくなるだろう。ただでさえ難しい年ごろであるというのに。
父、柊木正司の指摘にねねとナツキは互いに目を合わせ、舌打ちをし、渋々椅子に腰を下ろした。
どうにも似た者同士なせいで衝突の多い妻と息子がひとまず落ち着いたことに、正司はビール腹をさすりながらほっと息を吐く。しかしすぐに落ち着きなく湯呑を両手で抱えて弄び始めた。
「それで、えーと。ののちゃんの様子が変だっていう話なんだけどね。多分そのー、えー、アレなんじゃないかなあ」
「なんだ、知ってんのんかオヤジ」
「そうなのお父さん?」
なーんだそうなのか、と一気にふたりの雰囲気が明るくなった。
ののは年ごろの娘にしては珍しく、母や兄よりも父相手の方がよく話す。それは昔から美貌で有名だった母が惚れ込んだ性情の穏やかさだとか懐の広さのせいもあったし、母や兄に相談するとロクなことがない、と学習していたせいもある。
同時に自分を見たよく似た顔のふたりに、正司はうぐりと言葉に詰まる。
なにせこのふたり、顔だけでなく中身もとても似てしまって、好きなものには全力暴走特急、かろうじて妻は夫である正司の静止であれば聞いてくれる(こともある)が、息子にいたっては妹萌えを拗らせた結果なんだかいろいろややこしいことになっているのである。
はたしてこの心当たりをふたりに告げていいものか……内心の葛藤に気づく気配は微塵もなく、ねねは夫のふとましい腕にぴとりとくっついた。
「私、心配なのよ正司さん。あの子ったらあなたに似てとってもかわゆいたぬき顔でしかも女子高生退魔師なんてク〇ども垂涎の肩書まで持っちゃって……覚えてるでしょう? 私があの子と同じくらいの頃、いくら粛清しても汚らわしい目で見てくる輩が後を絶たなくてへきえきしてたこと」
「たぬき顔とかぜってえアイツに直接言うんじゃねえぞババア。そういうデリカシーがねえから同性のオトモダチがひとりもいねえんだぞ」
「たぬき顔のなにが悪いの! 見なさいこのお父さんの福々しいお腹! なのにつぶらでぱっちりとした瞳!」
「信楽で量産されてそうなナリしてるよなオヤジって」
「そうね、お父さんはあのパラダイス出身を名乗っても違和感のないかわゆさね」
「目ぇ腐ってんのかババア」
信楽焼のたぬきが林立する某施設を楽園と言ってはばからないのがこの母である。
別に審美眼が狂っているわけではなく、たまたま好きになった相手がたぬき顔とビール腹、ちょっぴり寂しい頭髪が特徴的な柊木正司だったことで類似点の多い信楽焼のたぬきのことも好きになったのだ――などと言い訳しているが、単に好みがそういうのだっただけだろ、とナツキは思っている。なお、本人がいようがどうしようがそれを堂々と主張し愛娘はそんな夫にとても似ているからかわゆい、などと言ってはばからない辺りデリカシーの有無に関してはお察しである。
オヤジに似てるかどうかはともかく、とナツキはいったんその話題を棚上げした。この辺りを母に語らせると無駄に時間がかかるので。
「ののがやたら変なのばっかり引っかけがちなのは確かだからな、オヤジに似て。知ってることがあんならさっさと話してくれ」
「ううーん」
言っていいのかな、でもな、多分聞き出すまで絶対あきらめないだろうしな……などと正司が考えたかどうかは定かではないが、もともと押しに弱い男である。ついでに脱色した派手な頭にイマドキの青年らしいストリート系ファッションを好む息子は我が子ながらちょっぴり怖かったので、正司は言い渋った割に素直にペロッと心当たりを吐いた。
「彼氏ができたんじゃないかな、ののちゃん」
「…………は?」
「…………なんですって?」
「あいだだだだだねねさん、ねねさん爪! 爪くいこんでいだだだ」
「ののに! 彼氏!? オレだって彼女いねえのに!?」
「だまらっしゃいキープちゃん五人持ち脳みそ下半身息子!! カレシ? いま”カレシ”って言ったの正司さん?」
「そ、そうだよねねさん……あの、だからちょっと落ち着いてせめて爪が食い込まないようにね、もうちょっと力をゆるめて」
「正司さん!」
「はい!」
ぴし、と正司の背が伸びる。
先ほどから何度も訴えている通り妻の爪がぎりぎりと正司の腕に食い込んでいたが、それを置いてもすぐに返事をしないとマズいと長年連れ添った夫としての勘が言っていた。
「まさかとは思うけど、その”カレシ”くんのこと、ののちゃんはお父さんにだけ打ち明けたのかしら」
「いやいやそんなまさか! す、好きな人がいるみたいなことは聞いてたけど……」
「じゃあソイツがカレシなんじゃねーか! なんでスキな人の段階でオレに教えねえんだオヤジ!」
「言ったら絶対絡みに行くって確信してたからだよ……!」
なにせこの息子、本当に妻そっくりなのである。
忘れもしない、まだ正司が紅顔の美少年……ではなく。入学前から相撲部に勧誘されるたいへん貫禄ある中学生として教室の隅でなるべく小さくなろうとしていた暗黒青春時代のこと。
当時も変わらず柊木家は鳴かず飛ばずの退魔師一家で、一人息子だった正司も日夜市内の見回りに出ては大小さまざまなトラブルに巻き込まれていた。昭和の時代は今よりもずっとヒトならざる者たちの活動が活発だったのだ。
一方ねねは退魔師界隈では知らぬもののいない某名家出身、将来を嘱望されていた若手のひとり。たまたま同じ仕事を学生の身でしていたものの、彼女の視界の端にすら引っかかっていなかっただろう自信が正司にはある。いや、ひょっとしたら邪魔だなあのデカブツ、くらいには思われてたかもしれないが。
名家と呼ばれる血族ほどヒトならざる者とのつながりが深いとされる。そのせいか、退魔師業界がいわゆる美男美女揃いであったことも正司の肩身を狭くしていた。
木っ端退魔師家系出身だとひと目でわかる外見は、同業者たちからはストレスのはけ口として最適な的でしかなかったのだ。邪魔だ目障りだと――実際物理的にはたいへん幅を取っていたので――小突き回されたことも少なくない。早い話が、正司は典型的ないじめられっ子だったのだ。
そんな正司が、たまたま偶然、強大なアヤカシとの戦闘後力尽きて倒れたねねのことを発見し。オロオロと右往左往しながらも追手を撒き母親に頼んで怪我の治療をしてもらい彼女が回復して目覚めるまでヒイヒイ言ってボロボロになりながら足止めしたことで――何故だかコロリと、ねねは恋に落ちてしまったのだ。
ブタのクセに生意気よ、なんて暴言を吐きながら何故だか困っている正司の前に現れてはいじめっ子もアヤカシもボコボコにして追い払い、ついでにあの程度の雑魚に苦戦するなんてバカじゃないのと罵倒されながら地獄のような修業に付き合わされ、気がついた時には押し倒されていた。本当に意味が解らないと正司は今でも思うのだが、ねね直々に交友関係を洗い直された結果残った善良な友人たちに言わせれば、正司があまりにも鈍くヘタレであったせいだという。なんと囲い込みは中学で出会った直後から始まっていたというのだから、なんだかんだで両想いになった今でこそ笑い話だが、冷静に考えると割とホラーだなと思うのだ。
そんな行動力の化身な妻に似た息子は思春期の頃から妹愛を拗らせて素直になれず、顔を合わせれば太ったかだの垢ぬけないだのデリカシーのないことばかり言う割に父親の正司よりもよほど服装や交友関係にうるさく口出ししてくるのだから、そりゃあののも母や兄ではなく正司にしかそういう相談はできないだろう。恋愛関係ならさらにだ。
だが、である。だがしかし、これをそのままふたりに言っていいものか……。
「ののちゃん……言ってくれたらお母さん、効率の良い外堀の埋め方とかライバルを二度と歯向かえなくするのろ……おまじないとか効果的なアプローチの仕方とかなんでも教えてあげるのに……」
「今『のろい』って言わなかったねねさん」
「くそっ、未成年のクセに色気づきやがってどこの馬の骨だ……ひと夏の冒険なんてぜってえさせねえぞ信じて送り出してなんかやらねえからなオレは」
「ナツキくん、ナツキくん。ちょっと現実に戻って来ようか」
寝取られは地雷なんだよ、などと舌打ちしながらせっせと呪いの下準備に取り掛かり始めた息子を正司は慌てて取り押さえた。なんでそんなに手際がいいんだいとか聞きたくもない。
「と、とにかく! もうちょっと静かに見守ってあげよう⁉ ひょっとしたらぼくの勘違いかもしれないし! ね⁉」
せめて期末テストが終わるまでは……! と正司はそれはもう必死にふたりを止めた。ただの勉強疲れかもしれないし、早めの夏バテかもしれないしだの、他にあり得そうなことを必死に言い募る。
「…………そうね。なるべく言い出しやすいような雰囲気作りを心がけて、ののちゃんから言い出してくれるのをもう少しだけ待ちましょうか」
思春期ですものね、いろいろあるわよね。とねねが渋々引き下がる。
退魔師などという自営業に勤しんでいるとうっかり忘れがちだが、高校三年生の夏前というのは世間一般ではそこそこナイーブな時期である。しかも今は定期テスト期間中。じっくり腰を据えて話を聞こうにも、あまり良いタイミングではないだろう。
なんとか納得したねねに安堵しつつ、正司は次いで息子の様子をうかがった。
唇こそへの字にひん曲げているものの、どっかり椅子に腰かけ腕組みをしている辺り、こちらもどうやら落ち着いたようだ。
「根掘り葉掘り聞きだすまでオレもこっちにいるからな」
言いつつ、ナツキはバイト先に連絡する、とスマホを取り出しおじさんの正司ではとうてい真似できない速さでタプタプ、とメッセージをやり取りし始める。
ほーっ、と今度こそ大きく大きく安堵の息を吐いた正司は、すっかり失念していた。
娘の定期テストが、後二日で終わってしまうことを。
束の間の平穏は、たった三日も保たずに破られたのである。
JK退魔師、恋をする 北海 @Kitaumi
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