魔法の声
よしだぶんぺい
第1話
ぼくがまだ年端のいかないころ、家(うち)には、両親の両親――つまりは、祖父(じい)ちゃんと祖母(ばあ)ちゃんが同居していた。
ある日のことだ。ぼくは、濡れ縁で日向ぼっこをしながら、祖父(じい)ちゃんとたわいもない話に花を咲かせていた。
どのような話の流れで、その話題にいたったんだっけーー経緯(いきさつ)は今では霞がかってぼんやりとしている。
ただ、その話題は、きわめてシュールだった。それだけに、そういえば、祖父ちゃんと、ああいう会話をしたっけなあ、という記憶だけは、わりと歳を重ねた今でも、けっして、色褪せることはない。
祖父ちゃんはあの日、目を細めながら、こういうふうに口を切った。
「ところでなあ、坊。この世界にはのう、みんなを幸せにしてくれる『魔法の声』っていうもんがあるんじゃ」
え!! ま、まほうのこえ⁇ み、みんなを幸せにしてくれる……。
あの日、ぼくはきょとんとし、しばらく口も利けずに呆然としていた。それだけは、よく覚えている。
それはそうだろう。なにしろ、漫画かテレビかおとぎ話ぐらいでしか見聞したことのない、そういうシュールな単語。それを、だしぬけに、耳にしたとしたら、幼いぼくが呆気に取られたとしても無理はない。
とはいえ、もっとも多感な少年時代。それだけに、そういった話には、もちろん、目がない。
というわけで、ぼくはあの日、いきおい祖父ちゃんに、こう尋ねたのだった。
「それって、どこにあるの?」
あの日、祖父ちゃんは、あくまでも神妙な顔と口調で、こう切り返した。
「それはのう、坊、声じゃ。なんで、どこにあるっていうよりむしろ、どうすれば聞けるか、と言ったほうが正しいじゃろう」
「あ、そっか。じゃあ、どうすれば聞けるの」
「ふむ、そうじゃのう。どうと言われてものう。こればっかりは、なかなか一口じゃ、説明できんのう。なにせ、男と女が、ああしてこうして……まあ、それはええ。とにかく、大方の人が聞くことのできるっていうのは、たしかじゃ」
「大方の人? ぼくもその中に入っているのかなあ……」
「ああ、もちろん、入っているとも」
ただし、それを聞くにはひとつ条件があるんじゃーーあの日、祖父ちゃんは、そう言って、人差し指を立てて、こうつづけた。
「まずは、あれじゃ。そう、『赤い糸』。それを見つけるというか、なんというか……」
祖父ちゃんがしどろもどろになっているのを後目(しりめ)に、ぼくが口を開いた。
「あかいいと? あ、それなら、たしか、母さんの裁縫箱に入ってるよ」
「はは、それとはちょいと違うんじゃな。これはのう……大人になって、ある時期がきたら見つかる、まあ、そんな糸なんじゃ」
「へえ、そうなんだ……じゃあ、じゃあさあ、ぼくも大人になったら、その糸を見つけることができるの?」
「ああ、坊なら、きっと大丈夫じゃ。ただしのう、坊、残念じゃが、この世界には絶対ちゅうもんはないんじゃ」
「え、絶対じゃないの。そ、そんなあ……」
もしも、ぼくだけが、それを見つけられなかったら……それを思えば、ぼくは胸が痛かった。
今にして思えば、たぶんそれが、小さなトゲとなって、心のどこかに刺さっているのだろう。
日常のふとした瞬間、何かの拍子に、それが今でも、時々、胸を鈍くうずかせる。
あの日、ぼくは、ひどく冴えない顔つきをして、すっかりしょげていたんだろう、と思う。
祖父ちゃんは、そんなぼくを見かねたかのように、優しく、頭を撫でながら、こうなぐさめてくれたのだった。
「坊、そんなにいじけんでもええ。いずれ、坊も大人になる。それまで、父さんと母さんの言うことちゃんと聞いて、おりこうさんにしておればええんじゃ。そうすれば、坊にも、きっと、赤い糸は見つかる」
「う、うん……」
それからまた、祖父ちゃんは、こうも言った。
「ま、その糸さえ見つければ、いずれ、あれじゃ……」
「え、あれって? あれって、なあに、祖父ちゃん」
ところが、祖父ちゃんはあの日、「あれじゃ」のあとは口をつぐんで、しつこく、ぼくが「あれって、なに?」と訊くのだけれど、「あれじゃ」の答えは結局、教えてくれずじまいだった。
というわけで、「あれじゃ」は今もなお、藪の中……。
それから、もういくつ寝るとが、もう、いくつも繰り返された。季節は、あっという間があっという間に、淡々と、移ろっていく。
やがて、ぼくは大学に進学する。卒業後、ぼくは運良く、そこそこの企業に就職することができた。
かつて祖父ちゃんに言われたように、両親の言うことをちゃんと聞いて、おりこうさんにしていたかどうか。それは、かなり怪しい。
それよりむしろ、祖父ちゃんの言いつけなんて、もはや忘れかけてさえいたのかもしれない。
そんな不遜なぼくではあったけれど、それでも、けなげに仕事にいそしんでいると、期せずして、一人の女性と巡り逢うことができた。
視線の高さ、モノの考え方の温度、そうしたものがお互い同じという、そんな素敵な女性と。
しかも、最初、二人ではじめた暮らしは、やがて、三人になり、四人になり、今では、五人の家族になるという、そんな僥倖にもぼくたちは恵まれた。
もう年末に近い、ある日のことだった。
その晩、寒波が街を襲って、凍てつく風がどこまでも意地悪く舗道を吹き渡っていた。
そんな中、仕事を終えたぼくはコートの襟を高く立てて、吐く息を白くさせながら、足早に、家路を急いだ。
やがてやっと、わが家にたどり着く。
やれやれ――今度は、安堵の息が白く洩れる。
ふとぼくは凍てついた眼差しを、わが家のガラス窓に投げた。
見ると、カーテンを透かして、部屋の明かりが、朧げながら、目に入る。
奥さんと三人の子どもたちの温もりがにじんだような、そんな安らかな明かりが……。
それからぼくは、そっと、耳をそばだる。
聞くと、子どもたち屈託のない声が、ガラス窓をすり抜けて、華やかに、心地よく、耳にふれる。
わが家にいる安心感。それが、まるで魔法のように、寒さで凍えた体と心の、その芯までも、ほんわかと温めてくれる。
幸せだなあーーそれを感じたとたん、ぼくはそうつぶやいていた。のみならず、だらしなく、頬がゆるんだ。
まさにそのときだった。温もりで満たされた心のうちに、「何か」が、ストーンと落ちてきたのは――。
どこか切なくて、それでいて、懐かしい香りのする、それは、そんな感じの「何か」だった。
と、そのとき、ふいに、胸が鈍くうずいた。
あ、これっ……。
今は、遠い空の向こうに旅立った祖父ちゃん。かつて、その祖父ちゃんと交わした会話。あの日、言いかけてやめた、「あれじゃ」ーー。
そっか、これが、まさしく「あれじゃ」、だ!!!
ぼくは思わず、膝を打つ。
藪の中でずっと頰被りしていた、その正体。それが、今宵、とうとう、ベールを脱いだ。
天を仰ぐ。都会の夜空に、とりわけ煌びやかにきらめく、ひとつ星。ぼくは、それに向かって、にっこり、微笑む。
「祖父ちゃん、やっと気づいたよ。あの日、祖父ちゃんが、ぼくに教えようとしていたことをね」
運命の『赤い糸』で結ばれた、ぼくの素敵な奥さん。
その彼女と二人で紡いだ、いとおしくて、かけがえのない子どもたち。
そんな家族が奏でる、凍りついた体と心まで、ほんわか温めてくれる、温もりのある「声」。
ぼくを幸せな気分にさせてくれる、これこそが、まさに『魔法の声』だったんだ――そうだよね、祖父ちゃん。
キラリ☆
都会の夜空で、ひときわきらめく、ひとつ星。それが、一瞬、煌びやかに輝いた、ような気がした。
おしまい
魔法の声 よしだぶんぺい @03114885
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