最終話
枕元でスマホが鳴っている。
身体全体が一個の塊になったようで、ひどく重かった。
横になったまま手を伸ばすと、指先に堅いものが触れた。
「原稿、上がりましたか?」
担当の編集者からだった。
確か、もう渡したんじゃなかったっけ。
「またまた、オトボケで」
笑いながらたしなめる声に、電話を持ったまま部屋を見回すと、座卓の上に大きな封筒が置いてある。
何枚だっけ?
「三十ほどお願いしておいたはずですが」
立って行って、中身を確かめた。
そのくらいは入っているだろう。
他にはそれらしきものもないから、きっとこれに違いない。
電話に向かって、
ごめん、机の上にあったよ。
「そうですか。どうしようかな……」
編集者はしばらく考え込んでいたが、
「先生、今お時間ありますか?」
大丈夫だよ。
「あの、ちょっと次回の打ち合わせをしたいと思いまして」
うん、いいよ。
「助かります。じゃあ、原稿を持ってきていただけますか」
わかった。待ち合わせ場所はこっちで指定させてもらうけど、いいね。
「結構です」
それじゃ、駅前のよく使う喫茶店で1時間後に。
「了解しました。ところで、先生。どうもお疲れのようですね」
何で?
「声が少し変ですよ」
そうかな。確かにちょっとグロッキー気味だけど……いや、実はその……なんとなく身体が重くて仕方ないんだ。何かこう、一個の土の塊になったようでね。
編集者が小さく笑ったようだ。
おかしいかな。
「あ、いえ。ちょっと思いついちゃって。先生笑ったんじゃないんで、お気を悪くされたらすみません」
そう。何を思いついたの?
「ただの洒落なんですけどね」
うん。
「旧約聖書の創造記の中に、こんな一節があるんですよ」
すると、一瞬意識の片隅に何かが引っかかった。
ねえ、キミ。この話前にもしなかったかな。
「いえ。先生には初めてですけど」
そうだったかな。まあいいか。で、どんなのがあるの?
編集者は怪訝そうに声を潜め、こんな文句を唱え始めた。
「エホバの神、土の塊をもって人を造り、生気をその鼻より吹き入れ給えりってあるんです」
悪寒が全身を走り抜けた。
スッと血の気が引いて、朦朧としそうなのを懸命にこらえた。
じゃあ、何だ。人間は土から造られたってのか。
「ええ。そう書かれています」
そんなバカなことがあるか!
彼はその口調にびっくりしたらしい。
声が急におどおどとなった。
「あの、ただの洒落なんですけど」
だとしても、趣味のいい洒落とは思えんね。
「すみません」
とにかく1時間後に。
「よろしくお願いします」
編集者の声は、最後まで沈んでいた。
悪いことをしたな……。
そう思った。
電話を切って、また横になると、すぐうとうととなり、30分ほど浅い眠りを漂った。
約束の場所までは、歩いても10分ほどなので、まだ若干余裕がある。
それでもやはり、早めに出ることにした。
待たせるよりも、待つほうがいい。
戸締りをして歩き出す。
表へ出たとたん、全身に汗が噴き出した。
それにしても暑い。
風もカラカラに乾いているようだ。
なんとなくそわそわして落ち着かなかった。
封筒を抱えて歩くうち、だんだん不安になってきた。
この原稿は、徹夜で仕上げたものだ。となれば、どこかしら不備な点があるかもしれない。
推敲した記憶もまるでなかった。
そんなわけで、道すがら読み直してみることにした。
封筒から原稿の束を取り出し、無造作にパラパラやってみる。
一枚目の冒頭に、題名と著者名が書いてある。
まあいい。
内容はどうだろう。
確か、二部構成にしておいたはずだ。
Aパートから順に見ていくことにした。
書き出しはこうなっていた。
約束の時間にはまだ間がある。
読み進めてみたが、おかしなところはない。
大丈夫のようだ。
Bパートはどうか。
こんどの書き出しは……。
見覚えのある女の背中が目の前にあった。
一通り目を通したが、特に問題はなさそうだった。
両パートの確認をすませ、安心して原稿を封筒へ戻そうとした刹那、何か白いものがバサッと音を立てて落ちた。
拾い上げてみると、それはやたら分厚い封筒で、表にこちらの名前と住所が書いてある。
ひっくり返して裏を見たが、何も書かれていなかった。
封がされたままだから、そのうち読もうとうっちゃっておいたのが、ここに紛れ込んでいたのだろう。
封を切って中を覗いてみると、折り畳まれた便箋が数枚入っており、引っ張り出して読み始めた。
こんな書き出しだった。
枕元でスマホが鳴っている。
ある男が電話でたたき起こされてからの日常が、そのまま一人称で書かれている。
たいして上手くもない文章だし、何が言いたいのかもさだかに伝わらなかった。
読み進めるうち、急に妙な胸騒ぎを覚え始めた。
そして、あと数行で読み終えるという寸前、一陣の熱風がそれらの便箋をさらって空高く巻き上げ、一枚残らず何処かへと運び去ってしまった。
急いで追いかけようとしたが、ダメだった。
しばしその場に突っ立っていると、俄かに全身から炎が噴き出した。
驚いたことに、苦痛も熱さもまるで感じない。
多分、便箋がどこかで燃えているのだろう。
そう思った。
頭の中で、聞き覚えのある誰かの悲鳴を聞いていた。
炎の勢いはまるで衰えることなく、ほんの数分ですべてが焼き尽くされてしまった。
後には一握りの灰だけが残り、それらも便箋と同じように何処かへ飛ばされてしまった。
かくて、そこには何もなくなった。
今度こそ本当に、何も。
そこには風が吹いていて 令狐冲三 @houshyo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます