第2話

 見覚えのある女の背中が目の前にあった。


 追い抜いてずんずん行く。


 相変わらず乾いた熱風が肌を刺し、一時おさまっていたあの不快感も今やいっそう強まって、周囲の人々から避けられているような気配が痛いほどに感じられる。


 やはり、暑さのせいだろうか。


 急がなくちゃ。


 いつしか時間が流れ去っていた。


 何をしていたかさだかに覚えていないのだが、腕時計がそれを物語っていた。


 もはや一刻の猶予もない。


 原稿の入った封筒を小脇に抱えて歩調を早めた。


 靴音が膨らむように響き渡る。


 こん、こん。

 こおん、こおん。

 こおうん、こおうん、こっ。

 こっ。


 ドスンッ。


 右肩に衝撃を感じてつんのめった。


 ために、抱えた原稿を取り落としそうになり、慌てて左手でバランスを取って体勢を立て直した。


 何にぶつかったのかと辺りを見回しても、それらしいものは見当たらない。


 暑い平日の午後なので、人通りも疎らだった。


 訝しみながらまた歩き出すと、すぐ妙なことに気づいた。


 とっくに追い抜いたはずの女が、また前を歩いている。


 人違いかと思い振り返ってみたが、誰もいない。


 まったく、ただの一人もいなかった。


 前方を見渡すと、人影らしきものも確かに動いている。


 だが、陽炎のようにゆらめいているそれが、本当に人影なのかどうか確信は持てなかった。


 ふと、前にいる女なら何か知っているかもしれないと妙なことを思いつき、慌ててそれを打ち消した。


 そんな考えに囚われてしまったのは、きっと女があまりにもこの風景にしっくりはまっていたからに違いないのだ。


 普通の感覚であれば、黒い袋を頭からすっぽり被った女など、一瞥しただけでも異様に思われるはずだ。


 しかし、すぐにも燃え出しそうなこのけだるい風景の中では、女は確かに確固たる地位を占めていた。


 まあいい。そんなことより、今は急がねば。編集者を待たせちゃいけない。


 さらに足の運びを早め、女を追い抜いた。


 ずんずん行く。


 すると、また肩口に衝撃を感じた。


 今度は、原因がはっきりわかった。


 あの女がまた前を歩いている。


 そうだ、さっきぶつかって行ったのもあの女に違いない。ぼんやりしていて気づかなかっただけなんだ。いくら何でも、二度も突き飛ばしておいて何の申し訳もないのは失礼というものだ。


 腹を立て、小走りに追いついた。


 おいっ!


 呼び止めてみたが、女は無視して歩き続けている。


 仕方なく、肩をつかんで振り向かせようとすると、不意に土をつかむような感触があり、次の瞬間には女の袖口をつかんでいた。


 何が起こったのかわからなかった。


 確かに右肩をつかんだはずなのに。


 指の間に砂の流れ落ちるような感覚が、袖を通して伝わってくる。


 びっくりして手を引っ込めた。


 ドサッ。


 音がして、地べたに何か落ちた。


 見ると、土気色をした人間の手首だった。


 それはすぐに土の粉になった。


 黒い袋が女の頭から外れて落ちた。


 下半身はもうほとんどぼろぼろに崩れ、土の塊に変わっている。


 かろうじて肌色が残っていた上半身も、徐々に変色し、胴体に幾何学模様が走った。


 そして、溶けるようにゆっくり崩れ落ち、生首だけが残った。


 脳裏にけたたましい笑い声がこだましている。


 何か叫んでいるようだが、何を言っているのかわからない。


 くるんっ。


 突然女の首がこちらを向いた。


 頭蓋骨の中に土の粉がうず高く積もっていて、唇だけが妙に赤く生々しい。


 どんどん崩れていき、今やそこしか残っていなかった。


 そして、その唇もすぐ土気色に変わり、ひびが入った。


 すべてが終わるのだ、と思った。


「いえ、これから始まるのです」


 唇が、そう言ってニッと笑ったように見えた。


 確かに聞き覚えのある声だ。


 そうしてすべて崩れ去り、茶色い粉の小山になるや、一陣の熱風がそれらを何処かへと運び去った。


 呆然と見ている頭の中で、甲高い声が笑い続けている。


 耳が砕かれてしまいそうな物凄い笑い声だった。


 ふと頬に手をやると、土の粉が付いてきた。


 慌ててはたいたが、はたいてもはたいても付いてくる。


 項を熱風が撫でて行った。

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