そこには風が吹いていて

令狐冲三

第1話

 約束の時間にはまだ間がある。


 暑い平日の午後なので、通りに人影は疎らだった。


 これからいつもの喫茶店で編集者との打ち合わせなのだが、それにしても酷い暑さだ。


 単に気温が異常に高いというだけではなさそうだった。


 具体的にどうとはいえないが、やはりどこかいつもと違っている。


 いや、狂っているとすら思えてしまう。


 そのことだけが、異様にはっきりと感じられるのだった。


 肌を刺す気流は、まさに熱風だ。


 だが、温度が低く乾燥していたため、不快感はそれほどでなく、むしろ心地よいほどだった。


 熱気があまりにも自然に周りを包み込んでいるので、それ自体のもたらす苦痛をほとんど感じさせない。


 その上、身体が風に馴染み始めているせいか、うっかりするとそのまま風に溶け込んで消えてしまう、そんな感覚すら覚え始めていた。


 一歩踏み出し、ふと我に返った。


 ゆっくり足を引っ込める。


 嫌な感じだった。


 いつだったか、乗っていたエレベーターが突然止まってしまい、その日は一日平衡感覚が麻痺して不快感を味わったものだが、その感覚によく似ていた。


 軽い眩暈がして、しばらく傍の壁に凭れかかっていた。


 ねばつく汗が背筋を伝って落ちる。


 すると、通りすがりの若い女が気遣って声をかけてくれた。


「大丈夫ですか?」


「ええ、大丈夫です。ありがとう」

 

そう答え、ゆっくりと壁から離れた。


 足元へ目を遣ってみる。


 何もない。


 熱気ですっかり軟らかくなったアスファルトに、いくつかの靴跡が重なり合ってついている。


 それだけだった。


 さきほどの嫌な感じも消えてしまった。


 同じ場所へ立ってみても、やはり何も起こらない。


 すべてはいつも通りだった。


 きっと、この暑さのせいだ。でなきゃ疲れてるんだ……そうに決まってる。締め切りが近いこともあり、昨夜は徹夜で原稿を仕上げたんだっけ。


 終わった後はどろどろに疲れきって、それこそ泥のように眠り込んでしまった。


 また歩き出すと、やがて誰かに呼び止められた。


「こんにちは」


 聞き覚えのある声で、すぐ彼女だとわかった。


 高校時代からの付き合いで、大学を卒業した後も同じ方面の仕事に就いた関係で月に何度となく会っている。


 話し出せば長くなるのがわかっていたし、今その余裕はなかった。


 せめて会釈だけでもと思い振り返ると、見慣れた笑顔がそこにあった。


 一瞬その唇が開いて何か言いかけたと思いきや、突然血相を変え、逃げるように走り去ってしまった。


 空気の漏れるようなヒューッという異音だけを残して。


 悲鳴だったかもしれない。


 知らない相手ならそれもおかしな人だな、とやりすごすことも出来たろうが、彼女は別だった。


 逃げた理由をどうしても知りたかった。


 単なる悪戯にしては腑に落ちない。


 彼女は何かを恐れているようにみえた。


 逃げ去る直前見せたその表情は、かつて目にしたことのある何かに似ていたが、それが何なのか思い出せない。


 もどかしさを覚えつつ、彼女の背中に迫った。


 いったい、どうしたっていうんだ?


 肩をつかんで引き戻すと、


「あの、人違いなさってるんじゃないですか」


 何だって?


 彼女にはわかっているはずだ。とぼけたこと言いやがって!


 その口調はいかにも不自然で、視線が落ち着きなくあちこち泳いでいる。


「この暑さだから。勘違いなさっても仕方ありませんよ」


 そう言って歩いて行った。


 もう一度追って行き、問いつめてやろうかとも思ったが、やめた。


 時間がなかったし、彼女のあの表情をどこで見たものだったか思い出して、多少満ち足りた気分になっていたからだ。


 あれは初めて鏡を見た子供のそれだった。


 もっとも、この顔を恐れる理由はわからない。


 通りかかった誰かをつかまえ訊いてみようかとも思うが、狂っていると思われるのも癪だ。


 何か付いてるんだろうか。


 ショーウインドーに姿を映してみても、何ら不審な点はない。


 いつもの顔が映っているだけだ。


 歳のわりに老けて見える、皺の多い一青年のさえない顔。


 それがただ黙然とこちらを見ている。


 と、突然ガラスにひびが入り、それがすぐ全体に広がって様々な幾何学模様に分かれ、いっせいに欠片となって地に落ちた。


 落ちてからさらに細かく砕け、砂のような一つかみの灰になった。


 すると、また熱風がやって来て、それらを何処かへと運び去った。

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