お勉強 ②

「失礼します。好絵ちゃーん。いるー?」

 放課後。助手ちゃんは先輩の実験室へ向かわず、自身が通う高校の美術室の戸をノックした。

 先輩が実験室を留守にすることになったので、助手ちゃんの予定にも急に穴ができてしまったのだ。

「好絵ちゃん? いないのー?」

 助手ちゃんは再度呼びかける。美術部の活動場所はここしかないはずなのに、中から返事はない。ちなみに、助手ちゃんが先ほどから呼んでいる「好絵ちゃん」とは、今現在においてこの高校にたった一人の美術部員である。

「……? 鍵開いてるし、来てると思ったんだけどな」

 助手ちゃんはがらがらと立て付けの悪い木造の引き戸を開ける。

 しかし美術室の中は誰もいない。誰かの荷物も、描きかけの巨大なイーゼルもなかった。

「先生が鍵をかけ忘れちゃったのかな。好絵ちゃんいないみたいだし残念。帰ろっと」

 助手ちゃんはそのまま踵を返した。助手ちゃんには静かで冷たい教室でただただ時間を潰すようなことはできないのだ。

「わーわー! 待って待って! 助手ちゃん行かないでよ、アタシいるから!」

 しかしそんな助手ちゃんを誰かが呼び止めた。

「だからほら! アタシを探してみて!」

 誰かさんは本気で忍ぶ気はないのだろう。大きな声で誘いかける。どうやらご所望はかくれんぼらしい。

 その誰かは、この人気のない美術室のどこかに隠れているようだった。

 声の主の正体を助手ちゃんはもうすでにわかっている。主張の激しい友人の声だ、聞き間違えるはずはない。

 助手ちゃんはふぅとため息一つ吐いてから、何も聞えなかったかのようにがらがらと扉を閉めた。

「いや無視して閉めんなし!」

 瞬間、がらがらスターン! と勢いよく扉は開け放たれる。

 そこにいたのは、助手ちゃんより二つ年上の美術部員、好絵ちゃんだった。

「好絵ちゃんみーっけ」

 くるりと振り向き、助手ちゃんはびしりと好絵ちゃんを指さす。しかし、指された本人は束の間、豆鉄砲を食らったように目をぱちくりとさせた。

「うぇ、どゆこ……。って、アタシみつかっちゃってんじゃん! ちょー、助手ちゃんそれは卑怯っしょー」

「ふっふっふー。私の作戦勝ち! だからジュース奢ってよ」

「くっそー。ま、いいけどね。帰るときでもいい? ここから自販機めっちゃ遠くてさー」

 軽く言いながら、好絵ちゃんと助手ちゃんは教室へ入る。

「そういえば今日はあそこ行かないの? ほら、監視しに行ってる二年の彼のところ」

 好絵ちゃんは椅子二つを用意しながら尋ねた。

「うん。急に予定ができたから、今日は来ないでほしいって」

「えー! そんなのドタキャンじゃん!? マジ罪っしょ」

 どこからか回収した鞄から、好絵ちゃんはいくつかの菓子を取り出し机の上に広げる。助手ちゃんはそこからチップスをひとつまみ口に放った。

「そうそう、ほんと相手が私じゃなかったら許されなかったよ」

「あれ? あんまし怒ってないの?」

「怒ってないよ? だって私には好絵ちゃんがいるからね!」

「おお! 嬉しいこと行ってくれるじゃん! もぉこうなったらとっておきのおやつもサービスしちゃうしかないじゃーん」

 好絵ちゃんは言って、鞄から追加の菓子を取り出した。机の上はもうプチパーティ状態だ。

 種々様々な菓子群の袋を二つ三つ空けたところで助手ちゃんは思い出したように話し始める。

「あ、そうだ。ねぇ好絵ちゃん、勉強得意?」

「アタシ? めっちゃできるよ。平均点ぶっちしたこと一回もないかんね」

「おお! すご……い? えと、うん、凄いんだよね。……そんな凄い好絵ちゃんにお願いがあります! さっき小テストあったんだけどね、解き方がわからないから教えてほしいんだ」

 言ってぐっと得意げに胸を張った好絵ちゃんへ助手ちゃんは上目遣いで訊いた。

「おっけー、この好絵様にまっかせなさーい!」

「ありがとう! 英語の、……ここなんだけど」

「ああーこれむずいよね。ここは文型意識して並べ替えると――――」

 好絵ちゃんのミニ授業。要点だけを押さえた簡潔な授業、とはいかないが、解法の筋道がわかりやすかったり途中の小話で集中にメリハリがついたりで勉強苦手な助手ちゃんでも楽しく聴くことができた。

 そうこうして助手ちゃんと好絵ちゃんが解き終わる頃には、窓の外はミレーの描く『晩鐘』のような昏いオレンジへ変わっていた。

「終わった! よかったぁ。ありがと、好絵ちゃん」

「このくらい朝飯前だかんね。なんでもきいていいよ。……アタシにわかること限定でね」

 好絵ちゃんの付け足したその一言で、最後のチップスをつまんでいた助手ちゃんはふと何かを思い出したようだ。

 助手ちゃんは椅子に座り直り、先ほどまでより真剣な目を作る。

「じゃあ、もう一つ訊かせてもらいます。ずばり! 好絵ちゃんの勉強する理由って何?」

「そりゃもちろん受験があるからっしょ」

「あー、……いやまぁそうじゃなくって。それもそうなんだと思うんだけど、いやまぁ私もだいたいそうなんだけど。ほら、大学行った後とか卒業した後でも勉強って続けるかなって。だからその、もっと大きな意味って何かなって」

「あーねー。つまり『人生における勉強とは!』ってことっしょ? そうだねー、アタシは、……おもしろくなるからかなぁ」

「おもしろいじゃなくて、おもしろくなるから?」

「そうそう。例えばねー、ムンクの『叫び』ってあるじゃん。顔を手で挟んでるやつ。あれって実は真ん中の人は、叫んでるんじゃなくて叫びを聞いてる方らしいよ。だから「うるさーい!」って耳を塞いでんの」

「ほへぇ。私てっきり見ている人に向かって叫んでると思ってたよ」

「アタシは太陽に向かって叫んでると思ってたなー。とまぁこんな感じに、勉強したら今まで見えてたものも、新しく見えてくるようになる! つまりは人生の中でおもしろいと思える回数を増やすために勉強する! みたいな?」

 儚げな美術室の中で好絵ちゃんの言葉は色を生むように力強く響く。

 そこで、今日の放課後終了を告げるように窓の外の太陽は地平線に埋もれた。

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