第六話 お勉強

お勉強 ①

「ねぇ先輩」

「何だい助手君」

 初夏の放課後、普段と変わらない先輩の実験室。

 助手君は可愛らしい猫さんをノートの片隅に描きながら、先輩に問いかける。

「勉強って好きですか?」

「苦手かな」

 先輩は英単語帳をペラ、ペラ、とめくりながら素っ気なく答えた。

「へぇ……。え?」

 聞いて助手君の手が止まる。半端に描かれたヒゲなし猫さんが大学ノートで笑っていた。

「え? 苦手、なんですか? これだけ色々な薬品持ってるのにですか? こんな理科室でしか見ないような机があるのにですか?」

「のに、だよ」

 先輩は尚も英単語帳をめくる。言われて改めて見ると、確かにその様は楽しそうからはほど遠い。

「ちぇ」

「なんで今僕舌打ちされたんだい!?」

 単語帳からバッと顔をあげて、酷く雑な舌打ちに対する驚きを助手君に向ける。

「なんでって。もし先輩が勉強好きなら、私の宿題を代わりにやってもらおうかなーと」

 助手君は猫さん製作作業を再開しつつ答えた。

「……絶対にやらないからね」

「ですよねー」

 助手君はぐでりと理科用実験台に突っ伏す。通算三匹の猫さんがノートの端でみゃあみゃあと合唱している。この猫さんたちに名前はまだない。

「うぇぇ、どうして勉強しないといけないの? いいじゃん別に、困んないじゃん。先輩もそう思いますよね?」

 同意を求める、というよりは共に沼へ沈ませるようなじっとりした目線を向ける。助手君としては赤信号もみんなで渡ればこわくないのだ。

「そんなことないと思うよ」

 しかしそんな視線も先輩に一蹴される。突き放された助手君はそのまま額を大学ノートにつけて唸る。

 そうして助手君は二度三度意味のない言葉を発した後、むくりと頭を起こした。

「ふえぇ。じゃあ、先輩はどうして勉強するんですか?」

「どうしてって、そりゃあ学生だから……なんだけど。――そうだね。必要だからかな」

 先輩はぱたりと英単語帳を閉じて、助手君と向かい合う。助手君の疑問に真摯に向き合う。

「どうして必要なんですか?」

「将来のため。もっと言えば夢のためだね」

『夢』、その部分を強調して先輩は言う。

「僕の夢は助手君に言ったことあったかな? 僕はいつか化学の歴史に名前を残したい。もっと具体的に言うなら、まだ誰も知らない新しい物質を見つけたい」

 先輩は真っ直ぐに助手君の目を見つめて語る。先輩の言うその夢が、それがどれほどの偉業なのか助手君には測れないのだが、言外にそれはとんでもなく難しいことだと伝わった。

「そしてそれをやり遂げるなら高い学力の必要な学校へ行くのが近道だと思ってる。これが僕の勉強する理由だよ」

「なるほど」

 助手君はうんうんと大きく頷く。

 つまり、夢というゴールまで続いている数ある道の中から、先輩は勉強という道を選んだわけだ。そしてそれを本人は最短ルートだと語っている。

 おそらくその見立ては正しいのだろう。そして助手君はそれらを踏まえて一つを口にした。

「つまりは、夢を楽に叶えたいからってことですね」

 かくりと先輩が肩を滑り落とす。

「そう、だね。そうとも言えるんだけどね、そう言わないでほしかったかな」

 先輩は小さく苦笑した。

「やっぱり、一見夢と勉強が結びつかなかったり、まだ夢が見つかってないときでも、選択肢を広げたり知識を使うために勉強はしておいた方が良いよ。きっと助手君の力になるから」

「そういうもんですかね」

 助手君は一つふぅと息を吐いてから、ペンケースに入れていた四角い消しゴムを取り出した。それで、ノートの上の三匹の猫さんを消し消し擦る。

 そうしていくうち段々と、可愛らしかった猫さん達はケシカスさんへと姿を変えゆく。

「それにしても意外ですね。先輩って勉強好きな人だと思ってました」

 ところどころに皺が残ったノートの左上から助手君は元素記号をいくつも書き連ねる。これは見直すのではなく手に覚えさせるための勉強法。そんな勉強の合間に助手君は先輩に話を飛ばした。

「苦手じゃないんだけどね。どうしても文系科目には興味がそそられないみたいなんだ」

「……国語とか歴史とかにですか?」

「そうそう、その二つがどうしてもね。」

「じゃあ、それ以外はどうなんですか……?」

「暗号読解みたいで英語は好きだよ。理科と数学は、教科書の内容をもう覚えてしまったから、助手君が考えているような勉強してないかな」

 助手君はそれをきき、わなわなと震えながら一つ尋ねる。

「先輩、定期テストの全教科平均どれくらいなんですか……?」

「九七点くらいだったよ」

 がくりと、膝から崩れ落ちるような気分とはこういうものなのかと助手君は実感する。目の前の先輩が、途端に雲突く山のような神々しいものに感じられる。

「なんでこの高校選んだんですか!?」

「家から近かったから、かな?」

 つまり学業における先輩の欠点は、その周りが見えなくなるほどの熱中癖だけなのか。

 助手君は改めて先輩の高い能力を知り、一粒の羨ましさと並々ならぬ勿体なさを感じるのであった。

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