パンダ

今迫直弥

パンダ

 端的に言って、N氏を殺さねばならない理由は一つだけだ。

 僕達の前でパンダの話をしたこと。

 本当にそれだけ。



 N氏の口からパンダという単語が発された時、僕は動揺を表に出さないよう必死だった。確かに、上野駅という場所柄、誰かがいつパンダと言ってもおかしくない状況であったとはいえ、慎重にその動物の話題にならないよう会話をコントロールしていた僕にしてみれば、まさに晴天の霹靂というやつだった。やっちゃったよ、こいつ、と僕はたまたま同じ会話に参加していた同胞である斎藤氏に目配せしたが、斎藤氏の方も一瞬にして顔面が蒼白になっており、狼狽を隠しきれていなかった。

 公式文書でないので白状してしまうが、僕も斎藤氏も、その日はオフであったのを良いことに、特防パンの一四条二項六号に記載されている例の魔奏概念を略式で済ませてしまっていた(僕達に責められるべき咎があるとすればこの点だが、休日でも特防パンを遵守しているような形式主義者にしか批判は許さないつもりだ)。取り返しのつかないことというのは、大概こうした小さな油断から生じるのである。パンダの三文字は一瞬にして僕の形而上積層を貫通し、第七深度までを汚染した。あの愛くるしい白黒の熊様の姿が一〇八枚の脳内窓の半分を埋め尽くした時、けたたましい警告音が右耳を中心に鳴り響いた。

 参った。

 僕と斎藤氏は速やかにパンダ話から撤退すべく、多少強引なやり口でその場の流れを猥談へと移行させた。勿論、同胞にしかわからない暗喩と隠喩に満ちていたため、聞いていたN氏からすればウェブ上での文書の共同編集について話しているようにしか聞こえなかったはずだが、そんな嫌がらせをして溜飲を下げている場合ではない。対応策について協議する必要に迫られた僕達は、催眠誘導により三分後にN氏をその場から離脱させると(宇都宮線が都合よく彼を自宅まで運んでくれたのだ)、駅構内の喫茶店の禁煙席で重苦しく向かい合った。二人ともアイスコーヒーを頼んだ。

「眠い」

 徹夜明けの午前六時だったこともあって、しばらくはお互いに自分がどれだけ眠いか、語彙の限りを尽くして表現しあっていたが、そんな文学的研鑚も最早現実逃避以外の何物でもなくなっていたので、二〇グラム入りのシロップが攪拌することなくコーヒーに溶け切った頃合いを見計らって本題に入った。

「あの野郎、完全にパンダって言いやがったな」

 無論、実際の発音の際はPANDAの各アルファベットの間にランダムな三文字以上を挟んだので、例えば『PDUEAKENNCXUDDKEA(ぷどぅえあけんっくすゅっどけあ)』のような代物になっていた。この辺りの処置に抜かりはない。

「よりによって、何故パンダかと」

「他意はないと信じたいが」

「適当に連想させたのがあだとなったな。そういう意味では僕達にも責任はある。上野とパンダの密な繋がりタイトジャンクションは考慮に入れていたつもりだったが、その強度が僕達の予想の範疇を越えていたわけだ」

「彼が急進的なPPPの一員である可能性は?」

「二〇パーセントは越えないだろう。懸念があるとすれば、癒し系キャラクターグッズに対する幾ばくかの目配せだが、それも趣味の範囲だと思う」

「ということは、好都合ともいえる、か」

 斎藤氏の目が鋭く光った。アイスコーヒーの氷を掻き混ぜながら、僕はその目を正面から受けた。

「本気か?」

「本当にやつに他意がなかったというなら、やるしかない。二二条第三項はこのためにあるのだろう?」

「法解釈には何通りかあるようだが?」

「勿論、知悉しているつもりだ。そのいずれにしろ、不測の事態に際した民間人の抹殺を違法とするものではない」

「適法だからといって心理的抵抗がなくなるわけでもあるまいに」

「……それを君が言うか?」

「どういうことかな」

「大学に入ってから今日まで、何人殺した?」

 斎藤氏は、まるで世間話でもするかのように訊いた。こめかみ辺りに気持ちの悪い違和感が走った。背筋が強張る。僕は多少の狼狽を声色に混ぜて応えた。

「……あれ、君にその話をしたことはなかったつもりだが」

 無論、守秘義務のある事柄というわけではなかったが、一般人にとってみれば単なる人殺しという内容であるだけに、余程の事情が無い限り他言したことはなかった。

「ふざけるなよ。日本海側なら監視が甘いと思ったら大間違いだ。富山の祖父母の家から君の自宅宛てに届くのが米だけだと思っているのは、もう君の両親くらいのものだ」

 斎藤氏の口振りから察するに、僕の物資補給ルートは既にマークされていたらしい。現場を目撃された、というわけでなさそうなのが不幸中の幸いか。

「支給される弾だけじゃ足りなくてね」

「……言ってくれれば分けてやったのに」

 いかにも残念だと言うような斎藤氏の様子に、僕は苦笑した。

「悪い。軽蔑されるかと思ってた」

「見くびるな。今更君が何をしていようと気にするものかよ」

 その言葉は最早あまりにもグロテスクに過ぎて信頼などという粋な単語で現すに足る代物ではなくなっていたが、真摯であるという一点にのみ、ある種の救いを見た気がした。

「先の質問に答えるが」

「うん」

「完全な民間人に限ると、九九人」

 斎藤氏が息を呑んだ。

「……想像より遥かに多いな」

 戦争中でもない限り、一般人であればシリアルキラーと呼ばれて仕方ない殺害件数だ。僕は、そんな大量殺戮に手を染めざるを得なくなった理由を種明かしする。

「僕の禁忌は、パンダだけじゃないんだ」

 斎藤氏は、意外そうな顔で僕を見た。

 同じ特防パンに支配される身ではあるが、残念ながら僕が好んで使う『同胞』という言葉は、斎藤氏が思うほど一蓮托生の意味合いを強く孕んではいないのだった。

 僕の同胞は文字通り五万といる。

「気付かなかったな。そんなにタブーを抱えているようには見えなかったが。余程綿密に隠匿を企てていたと見える」

「むしろ逆だよ。一部重複する単語も含めると、二〇八〇項目にもなる」

「あり得ない」

「あり得るのさ」

 僕は思わず不敵に笑ってしまった。

「口外禁止規定がなく、各法規上の魔奏概念を幾重にも施してあるものを例として列挙すると、キャラメル、大麻、オラトリオ、波線、虹彩、六波羅探題なんかが駄目だ。ちなみに今、目に付く範囲のものでも一七個はあるな」

 余談だが、ここまでの文章の中だけでも七個は登場している。音読しても閾値を越えないように緻密な文章構成を編んであるが。

「信じられん。その話が本当ならば、一組織から平均一万円の手当てがつくとして、単純計算で日給二千万円を越えることになる」

 あらゆる局面で金銭の話が出てくるのが現代人の悪癖だと思うが、こればかりはどうしようもない。経済活動こそが社会生活の基盤であり、社会生活こそが悲しきかな、人生の本質と等価なのだから。話が生臭くなるのなら勘弁だが、僕も斎藤氏も元よりさほど金に執着するタイプではないので、不愉快な展開になる心配は一切していなかった。

「まあ、な。それでもかなりの部分を税金でもっていかれるし、被害者の遺族にこっそり多額の補償金を振り込むから、トントンといったところだよ」

「そんなものかね」

「パンダと他六種の哺乳類に絞っている君の方が収入の面からみれば効率は良いはずだ」

 僕としては爆弾を落としたつもりだったが、思いの外斎藤氏の反応は鈍かった。アイスコーヒーを一口啜って間をとったことに深い意味が無ければ、の話だが。

「……気付いていたか。まあ、パンダ周りを避ける関係上、ある程度の予想はつくだろうと思っていた」

 斎藤氏のタブーは、パンダの他にはヒトコブラクダ、フタコブラクダ、ヤマアラシ、プレーリードッグ、イボイノシシ、センザンコウだ。

「タブーが七つなら、民間人を手にかける必要は生じないのかな」

 話を本題に戻した僕に、斎藤氏は難しい顔をした。

「殆ど、ね。発声の憂き目にあったのはこれまで六度だけ。その内二度は魔奏概念を突破されたが、積層一枚持っていかれただけで済んだ」

「積層一枚? それを軽微な被害とみなすかどうかは人によるというラインだが?」

「そうかな。未だに窓三つを占拠されたままだが、機能不全とは程遠い。無視の一択だ」

「……完全主義者には程遠い思想だね」

「自覚しているさ。目指すつもりも無い」

 せっかく開かれた一〇八の窓を全てフリーにしておければベストではあろうが、実際にそれを維持するのは困難だ。禁忌が一つか二つであればあるいは何とかなるのかもしれないが、二〇八〇項目を抱える僕には夢のまた夢と言って良い。憎まれ口を叩いてみたものの、タブー六つで窓を一〇〇以上残していた斎藤氏は明らかに優秀な部類だろう。

 ただし、それも件のパンダ発言で水泡に帰した。

「あれだけ派手なアラートが出たのは今回が初めてか」

「無論。さっきから驚きの連続さ。窓を半分やられると、感覚がこんなに鈍磨するとは思わなかった。知識として知っていたことと、実際に体験することのギャップというものにはいつも驚かされる。アイスコーヒーがちっとも冷たくないし、全く苦くもない」

「そして何より、旧友を殺すこともそれほど辛くない、と」

「……言うねえ」

 いつのまにかコーヒーはなくなっていた。窓の七割を塞がれている僕には、飲んだという実感すら消え失せていた。

 丁度ウェイトレスが真横を通りかかったので、僕達はコーヒーのおかわりと、いかにも味の濃そうなナポリタンを追加注文した。胃は食べ物を受け付けそうになかったが、脳がどれだけでも吸収してくれそうな錯覚があった。

 話は続く。

「ここで問題なのは」

「うん」

「ターゲットの係累や周辺にACIDがいる危険性を考えておく必要があるという点だ」

「ACID……PPPも含めてか?」

 僕は首を横に振った。自分の言い回しが斎藤氏に誤解を与えることは予想していた。

「いや、この場合、あらゆるPPは逆に除外して構わない。N氏自身が民間人なら、僕達の行為を奴らの内規でどうこう出来る筋合いはないからな」

 案の定、それだけの捕捉で斎藤氏は納得してくれたようだった。

「そうか、失礼。除災認定の話か。報復行為の話かと思っていた」

「報復に注意するのは、PPの一員を誅滅する場合だ。上手くやらないと泥仕合になるが、今回のケースは違う。そう信じたい」

「PPとの泥仕合の経験もありそうな言い草だな」

 斎藤氏は、ストローの入っていた袋を端のほうから千切りながら、何気なく口にした。僕は頷く。自慢にも愚痴にも聞こえないよう、淡々と事実だけが伝わるように注意した。

「当然。ここ六年で誅滅したのは八七〇人だが、報復の関係で同胞もその半数はやられている」

 斎藤氏の手が止まり、視線が鋭くなった。

「……まさか、その同胞という言葉の中には、パンダ絡みのものも含まれているのではないだろうね?」

 僕は、しばらく意図的な無言を保った。

「想像に任せるよ」

 もったいぶってそれだけ言う。斎藤氏は、欧米人なら肩をすくめるところだが、というような絶妙な表情になった。

「独断専行を水臭いと諌めるつもりはない。ただ、僕も、降りかかる火の粉を上手く払えるよう準備だけはしておきたいからね」

「……僕のとばっちりは勘弁、ということかな」

「簡潔に言えばね」

「君のなりでは武闘派には到底見えない。報復でターゲットにされることは一切なかろうよ」

「それを君が言うか」

 決して体育会系には見えないインドア派の僕と斎藤氏は顔を見合わせて僅かに笑んだ。陰惨な事実を冗句で隠してしまえるうちは大丈夫だ、と僕は思った。

「話を戻すが、N氏がPP、ここでは特にPPPに入っていないと仮定するならば、その周囲にACIDがいるかどうかが抹殺の鍵となるわけだ」

「その通り。該当しそうな者はいそうかな?」

「……正直、見当がつかん」

 斎藤氏が唸った。本筋の話の糸口がいきなり絶たれたことで不審な間が出来るのを嫌ったように見えた。急かされるように次の言葉をまくし立てる。

「最悪のケースを想定してみて、それさえ切り抜けられれば後はどうにかなると思わないか」

「それは当然だ」

「なら、N氏の一家がN氏以外全員ACIDという体で話を進めるか?」

「……さすがにあり得んだろう」

 同じ世帯に複数人のACIDがいることなど、余程特殊な家庭環境でない限りありえない。何より、ACIDの浸透率がそんなに高ければ、この世界に一般人は一人もいないことになってしまう。

「僕もそう思うが、それ以上の最悪もなかろう」

「いや」

「まだあるか」

「それに加えてN氏の恋人もACID」

「……あまりに荒唐無稽過ぎて、むしろ面白くなってきたな」

 確かに斎藤氏の言う通り、その過激な空想は行き過ぎた絶望感ゆえに、不相応な娯楽性を際立たせてしまっていた。

「仮にそうだったとすると、N氏の抹殺を遂行したところで僕達の命は……もって三日間というところか」

「三親等以内の血族と五年来の友人も全滅すると思った方がいい」

「勤め先や大学も潰されるかもな」

 シミュレーションというにはあまりに不毛な掛け合いに、僕と斎藤氏の言葉が止まる。

「……君が殺した九九人の周りにACIDはいなかったのか?」

「皆無だ。逆に言えば、その危険性を回避出来たと確信し得たものだけを抹殺した」

「慎重なことで」

 斎藤氏の皮肉を僕が苦笑で受け流した時、ウェイトレスがナポリタンを運んで来た。僕が、卓上のメニューを片付けるなど甲斐甲斐しさをアピールしている間に、なんとそのウェイトレスは職務の範疇にない積極性で僕達の会話に介入してきた。

「悪いことは言わない。五枚以上の窓が過不足無く動いているなら、作用者抹殺による遡及的回復は行わないほうがいい」

 ぞんざいな言葉遣いながら、その声には聞き覚えがあった。よくよく顔を見てみれば、髪型は違えど、誰あろう幻覚娘々である。

 僕達が度肝を抜かれたのは言うまでもない。仙格を持つ身分で、上野駅構内の喫茶店でバイトとは、殊勝なものである。

 これは全くの余談であるが、僕は以前、幻覚娘々というのが何なのかわからないという女の子と交際していたことがある。その子は、デジャヴとかジレンマとかルサンチマンといった、実体の無い概念的な言葉を把握することをひどく苦手としていたので、もしかするとある種の感覚失認を患っていたのかもしれないが、ともかく、

「皆が時々言ってる、幻覚娘々って何?」

 と、ある時いきなり尋ねられた僕の衝撃を考えてみて欲しい。勿論最初は、語彙が少なくて言葉の意味が判らないだけかと思い、

「ほら、眠ろうとしてどうしても眠れない時、ふと鏡を覗き込んでみると、枕元に綺麗な女の人が立ってるだろう? あの人だよ」

 と、最もわかりやすい説明を試みたのだが、そんな人見たことない、という想像を絶する答えが返って来たのである。

「見たことないの? え、じゃあ、試験中に鉛筆勝手に動かして正解書いてくれる目に見えない人って言えばわかる?」

 これに対しても首を横にぶんぶんと振る。幾つかの質問をしてみた結果(勿論、女の子相手なので、男性の生理的欲求に関する例の話はふらなかったが)、その子は本当に幻覚娘々を知らずに育ったらしい(同時多発的に世界各地に現れる幻覚娘々が、実質的には一人しか存在しないという大原則の意味すら理解出来なかったくらいだ)。そんなことがあり得るものか、と思うのも当然だが、本当に本当なのだから仕方ない。あの娘々と関わらずに生きていけるなんて羨ましい、と見る向きもあるのだろうが、僕は正直、可哀相だとしか思えなかった。幻覚娘々がいなければ人生から九割方の波乱がなくなってしまうではないか。そんな無味乾燥な世界は真っ平だ。

 結局その子は、僕の前で致命的なタブーを口にしたことが原因で、若くしてこの世を去ってしまった。幻覚娘々をその子の葬儀に誘ってみたところ、あれほど冠婚葬祭を好む彼女が何故か参加を拒んだ。いかにもつまらなそうに歪められた目元が印象的だった。この件に纏わる因果話は、怖くて訊いていない。

 閑話休題。

 斎藤氏は、宿敵とも言える仙女の突然の登場に目を白黒させていたが、むすっとした表情のまま、橙色のパスタにフォークを通した。

「そんなことを言うからには、何らかの根拠があるのだろうね」

 それに対し幻覚娘々は、決して豊かとは言えない胸元から砂時計を取り出すと、テーブルの上にことりと置いた。一粒目の砂が落ち始めると同時に、僕達の周囲の時間が都合良く停止したのがわかった。いつもながら、幻覚娘々のやることは陳腐なまでの幻想趣味に彩られている。彼女は隣の席から椅子を引っ張ってきて、僕の左隣に座る。

「私は、ACIDだのPPだの、人間による二次的法規組織は考慮しない。ただ、特防パンだの特防スパだの、細かく名を変えただけの『言霊禁忌律令』については本来的に私達の領分だ。濫用は見るに耐えない」

「今更言うか。君の隣の今迫氏(要するに、僕)は最低でも九九回抹殺を行っているようだが、それについてのコメントは?」

「プライベートなことになるので詳細は避けるが、彼にはその都度注意を与えてきたつもりだ。私が抑止力となったのも一度や二度のことではない」

「へえ。それがどう解釈したらプライベートなことになるのか、意味不明な言い回しについての釈明を望みたいところだが、それは無粋というものかな?」

 斎藤氏はじっとりとした目で僕を見たが、僕は当然そこから目を逸らした。当の幻覚娘々も、何を揶揄されているか気付いているはずだが、一向に斟酌した様子は無い。

 砂時計はまだ三分の二以上残っている。

「人間達にどう解釈されているかは知らないが、『言霊禁忌律令』における一〇八感応の遡及的回復は、該当する死者の成仏を妨げないための措置であって、感応を奪われた側を救済するのが目的の制度ではない」

「本末が転倒していることは元より承知の上だ。因果律を乱さない限り本当の意味での問題はないということもわかっている。今となっては、九九人抹殺した今迫氏の存在が何よりの証左じゃないか」

 斎藤氏の鋭い舌峰に、幻覚娘々は早くも返答に窮した。

「……ACIDが除災認定した場合、無用の死者が出ればその煽りで因果律が乱される恐れが出てくるわけで……」

「あれえ、ACIDやPPの理念には仙人は介入しないんじゃなかったっけ?」

「そ、それは……」

「要するにさ」

 斎藤氏はずばりと指摘した。

「あんた、本当は大して止める理由なんて無いけど、それらしく登場して僕達の行動に首突っ込みたかっただけだろう?」

 幻覚娘々は傷付いた表情で助けを求めるように僕を見たが、どう考えても斎藤氏の言い分に理があったので、小さく首を横に振るにとどめた。

 幻覚娘々は実際のところ、『言霊禁忌律令』に詳しいわけではないし、興味を持っているわけでもない。人間社会で仙格を振りかざすのに持ってこいの話題なので、進んで関与したがっているだけだ(これは、彼女が冠婚葬祭を好む理由と同じだ)。悪目立ちするものが嫌いな斎藤氏としては当然、その辺りが気に食わないのだろう。

「……仮にそうだとして、何か問題でもあるのか?」

 幻覚娘々は腕を組んで踏ん反り返り、露骨なほど無様に開き直った。砂時計はまだ半分しか落ちていない。いつもより陥落が早い。

 斎藤氏は、勝ち誇ったような態度で相手を見下すに足る充分な理由を得たわけだが、社会人らしく落ち着いた反応を返しただけだった。

「やっぱりか。今回の本当の目的は一体何?」

「抹殺を止めに来た」

「くどいな。そのお題目はもう良いって」

「今回は本当にやめたほうがいい」

 幻覚娘々が同じことしか言わないので、さすがに僕も変だと思った。

「……ちょっと待ってくれ。君はもしかして、何か特別の事情を知っているのか?」

「その通り。しかし、ここで明かすことは出来ない」

 幻覚娘々が思わせぶりなことを言ったからといって必ずしも重要な内容を秘匿しているというわけではないが、そこに込められた意味を過小に評価するのも得策とは言いがたかった。

「それは、N氏の周囲にACIDがいる、とかそういう具体的な内容かい?」

「答えられない。だが、答えられないことが答えだと思ってもらって構わない」

 僕と斎藤氏は顔を見合わせた。

「本当にいる、というわけか」

「彼女の言うことを真に受ければ、そうなるな」

 斎藤氏はまだどこか懐疑的だ。

「仙格を持つ私の忠告は、人間の因果律を乱し得る。だからこそここに来た。道義上具体的な話は出来ないが、ここまで言えば大体の事情は把握してもらえるはずだ」

 幻覚娘々は、突然僕の目をじっと見つめた。不必要にきらきら輝いた瞳は、いかにも純粋に僕のことを心配している風だったが、何となく、必死な詐欺師も似たような目をするのではないかと思った。

 僕のその心情を察したのでもなかろうが、次に目を逸らした時幻覚娘々は幾ばくかの譲歩をにじませた口調に変わっていた。

「老婆心だと思ってもらって結構だが、N氏の抹殺を遂行に移した時、君達二人が後悔することになるのは火を見るより明らかだ。ACIDも因果律も全て超越したところにその理由はある。聡い君達は当然気付いているはずだ。非道ではあっても外道に成り切れない半端者風情の一太刀では、どう足掻いても腐れ縁は断ち切れない。後ろ髪は引かれ続け、開放された一〇八の窓はすぐさま呪いに鎖される」

「なるほど。非常に尤もらしいが、君らしくはないね。天下御免の幻覚娘々が、遠回しに僕達人間の情に訴えかけてくるなんて」

「目的のために手段を選んでいないという解釈が正しい。君達は私のお気に入りだから、君達のために出来る限りのことをする」

「君、達? 今迫氏はともかく僕まで気に入っていると言うつもりか? 勘弁してくれ」

 斎藤氏はうんざりしたような顔付きになった。仙人とはいえ抜群の美貌を持つ女性に正面から好意を伝えられて、斎藤氏だって満更嬉しくないわけじゃなかろう、と僕は勝手に予想していたが、もしかすると本当に迷惑しているだけかもしれない。

 話の矛先がずれたためか、少しの沈黙があった。幻覚娘々がちらりと砂時計に目を遣る。残り砂は僅かしか無かった。時空間の占有刻限が迫っている。斎藤氏は何も気にしていないようにナポリタンを頬張っている。一方の僕は、全く食べ物に手を付けられずにいた。

 幻覚娘々が意を決したように立ち上がり、砂時計を鷲掴みにした。手の甲に血管が浮き上がるほど強く握っている。低い声でぼそぼそと真言に似た何かを唱え、僕の顔、斎藤氏の顔を順繰りに見遣った。

「話しても埒があかないようなので、今回は特別サービスだ」

 斎藤氏は舌打ちしたが、僕は思わず、待ってました、と声をあげそうになった。ご存知の通り、話が平行線を辿れば、彼女の特別サービスは二回に一回くらいの割合で行われる。ごね得という言葉は幻覚娘々との対話から生まれたに違いない

 砂時計に巻きついた細い指が一本ずつ剥がれて行く。その隙間から目も眩むばかりの赤い閃光が漏れ出て来て、視界が閉ざされた。続けざまに青、さらに赤、再び青、と視野を埋め尽くす光の色合いが目まぐるしく変化する。目を閉じても瞼の裏側まで追って来る。

「裏世界で私の忠告の意図を噛み締めたまえ」

「だから、赤と青の高速フラッシュは人体に有害だって何度言えばわかるんだよ……」

 幻覚娘々の朗々とした声に重なって、苛ついた斎藤氏の声が聞こえた気がした。



 肩を揺さぶられて目を覚ます直前まで、僕はそんな風に今迫氏の中にいたらしい。当の今迫氏が目の前にいるためなんとも不可思議な感じだが、裏世界なのだから仕方がない。

「とりあえず、どうしたものかな」

 僕の口からは、聞いたことのあるようなないような、微妙な声が出た。内容も曖昧で、まだいまいち現状に馴染んでいない。

「そもそも、ここは一体どこなんだ」

 それに対して今迫氏は、いかにも今迫氏が疑問に思いそうなことを今迫氏の口調で口にした。素晴らしい適応力だ。僕は素直に感心する。

 僕達は、どこにでもありそうな公園にいた。どこにでもありそうだが、それでいて見覚えは無い。ちゃちなジャングルジムとブランコがひっそりと建っている。墓標のように半分まで埋められたタイヤの列。砂場に置き忘れられた小さなプラスチック製のシャベル。飛び越えられるためにあるような低すぎる柵。穏やかな陽気に誘われて木陰からひらひらと舞い出てくる蝶。南中する太陽。移動する太陽黒点。何という長閑さ!

 僕は気を失っている間、塗装の剥げかけた木製のベンチに横たわっていたらしい。背中にちくちくと木屑が刺さっている感触があった。服の上から不自由な姿勢で背中をはたいていると、死角だった左手側から声がかかった。

「今迫氏はどっちだ」

 そこには、頭痛を押し殺すようにこめかみを抑えながらこちらを見下ろす斎藤氏の姿があった。

 ……あれ?

「何を馬鹿なことを。僕に決まっているだろう」

 今迫氏が当然のように答える。僕にも異論はない。

「外面は確かに今迫氏だが、中身はわからない。例によって例の如く、幻覚娘々が絡んでいるからな。バグることなんて茶飯事だろう」

「それは否定しないが、幸運なことに僕は僕のままだ。証拠を見せろといわれても不可能だがね。君にしたって、中身が本当に斎藤氏であるという証明など出来まい?」

「無論。というかむしろ、僕の中の僕は斎藤氏ではない」

「は? じゃあ君、誰?」

 今迫氏と僕が綺麗にユニゾンした。

「十六夜だ」

 僕と今迫氏は顔を見合わせた。十六夜というのは、斎藤氏のHN(ハンドルネーム)として使われる記号であり、古くに書かれた小説内で彼自身を投影した登場人物の名前でもある。そのため、斎藤氏のニックネームとして十六夜という名が仲間内で使われることすらままあった。

「三年ほど前になるか。僕と斎藤氏は、虚実の壁を越えて幻覚娘々に裏世界へ連れて来られた際、誤送されて中身が入れ替わってしまった。普通なら、帰還の際に元通りになるが、僕達の時は何故か戻らなかった。以来、僕は斎藤氏として、十六夜となった斎藤氏の物語を書いたり、ウェブ上に十六夜の名で書き込みを行ったりすることによって彼本人を存命させる役割を担っている」

「……なんてことだ」

 余りにも衝撃的な話で、僕は呆然となってしまった。一瞬、自分が何をしに来たのかさえも忘れそうになった。パンダと口にしたN氏を抹殺するという主題を放擲し、全く関係のないテーマで虚構と現実を股にかけた大冒険を始めるところだった。

 かろうじて意識を引き戻す。

「本人の言を信じるなら、斎藤氏の姿をしている君は、元世界の段階から十六夜だったことになり、今迫氏は今迫氏のままだという。だとしたら、完全に僕だけ余計だ。一体、僕は誰なんだ?」

 そもそも僕は、誰の格好をしているのか。今迫氏が鞄から小さな鏡を取り出して僕の方に向けた。くっきりとした輪郭に整った顔立ち。そこに映っていたのは、間違いなく幻覚娘々の顔だった。

 一瞬、自分が幻覚娘々になってしまったのかと思ったが、違った。悪戯好きの仙女が鏡の向こうからこちらにちょっかいを出しているだけだ。僕の姿は鏡に映っていないのだ。鏡の中の仙女は呑気に手など振っている。しかも喋っている。口パクだが、何を言っているのかはわかる。

『君は、その世界ではN氏だ。せいぜい頑張りたまえ』

 鏡が見えないので如何ともし難いが、ここはその言葉を信じるしかない。

「何だって! このタイミングでN氏なんて、どう考えてもまずすぎるだろう。命の危険があるだろう!」

 僕は、残りの二人に何かをアピールするよう、多分に不自然な説明口調で叫んだ。

「ふうむ。その驚き方から察するに、君の中の人はやはりN氏本人ではなかったようだな」

「ほら。気絶している間に絶息させなくて正解だったろう」

 今迫氏が物騒なことを言う。

「確かに。外面がN氏だからと言って、中身が違えば抹殺しても窓の遡及的回復は起こらない。本物を探す必要があるな」

 斎藤氏改め十六夜は、言いながらきょろきょろと周囲を見渡した。幻覚娘々が送り込む裏世界では、初期位置から動かなくても目的や対象が向こうからやって来てくれることも少なくない。特別サービスというくらいだから、本当に特別なのだ。

「待て待て。とりあえず、このN氏の中身が誰なのか明らかにすべきだろう」

 今迫氏が目線で僕に発言を促す。実に今迫氏らしい仕草だと僕は思ってしまった。

「信じてもらえるか否かわからないが、僕も、目覚めるまで今迫氏の中にいた」

「何? つまり、君も僕なのか?」

「僕の感覚では、そうなる。僕も、君なのだ」

 その言葉を受けた斎藤氏改め十六夜は、僕の外面を上から下までしげしげと眺めた。あたかもそれで中身まで覗けるとでもいうように。

「いまいち信じられない……人格のダブりなどあり得るのか?」

「幻覚娘々のやることだから、何があっても不思議でない。それは君の方が知悉しているはずだが?」

「正論だ」

「ならば、『ここにいるのは君と僕のみからなる三人組だ』という不可解な構図を飲みながら本物のN氏を探す、という方針で異論はないわけだな?」

 僕は肯定の意を伝えるべく、小さく頷いた。十六夜も大体同じようにしてから、再び周囲を見回し始めた。

「無駄に待ちぼうけを食うハメになっても業腹だな。どこかに現状を打開するための鍵があっても良さそうなものだが……」

「あ、N氏が来た」

 身構えた者全てを脱臼させるようなタイミングで、N氏は現れた。公園の柵の外から、淡々とした顔でこちらに近づいてくる。裏世界ということもあり、見たことのないデザインの妙にごわついた服を着ているが、立ち居振る舞いと表情が完璧にN氏だったので、おそらく中身もN氏だろうと思われた。

 今迫氏と十六夜が何事か目配せした。残念ながら僕はその輪から外されていたので、どんなアイコンタクトがなされたのかは想像するしかない。対象を無情に殺害せしめる方法についての二、三の細かい確認だったろうと思われる。

 N氏は僕達に近寄りながら、ポケットから拡声器を取り出し、そのスイッチを入れた。耳障りなハウリングの向こう側から、のんびりと語りかけてくる。

「今迫氏、斎藤氏、それから、えー、誰だ、もう一人の僕みたいな顔したそこの君。まあいいや、もう一人の僕ということで。とりあえずそこの三人、聞こえますか。聞こえた人は手を挙げて」

 言われた通りにきっちり挙手したのは僕だけだった。今迫氏は聞こえない振りをし、十六夜は完全に無視を決め込んだ。この時点で既に交戦の意志のあることを相手に伝えたに等しかった。

「えーと、まあいいや。聞こえてないのならばそれはそれで好都合。ここから先は僕の全くの独白と思ってください。えー、まずは、裏世界について勝手に語りたい。君たちはここ、つまり裏世界を幻覚娘々が作る個人的な空間であるというような誤解をしているのだろうけれど、それは違う。裏世界は表の世界と同等の価値のある別の世界だ。未来のシミュレーションに使える便利な代物のように考えてもらっては困るんだ。元の世界に戻る君達から見れば現実自体がリセットされたように映るかもしれないが、僕らにしてみればたまったものじゃない。外界から入ってきた異分子が散々引っ掻き回して去っていくだけ。あー、間違いなく最低のハプニングだ」

 N氏は立ち止まったまま拡声器越しに続ける。

「そんな最低な者達に対して僕らが出来ることは多くない。あらゆる抵抗は無意味だ。君達は僕らの存在を物理的に都合よく無視出来る特権を有しているからだ。えー、すなわち、君達は僕らに容易に暴力を振るうことが出来るが、僕らの反撃は君達には届かない。あー、間違いなく究極のハンディキャップだ」

 聞いているのかいないのか、今迫氏は鞄から小さなマイナスドライバーを取り出した。地味ではあるが、使い方によっては相手の命を十分に奪いうる凶器となる。

「僕らに出来ることは何もないのだろうか。絶望していた僕らだったが、幻覚娘々の裏存在である仮想師父が乾坤一擲となる一つの解決策を提示してくれたことをここに宣言しておく」

 十六夜は、いつの間にか背負っていた弓に、いつの間にか用意していた毒矢を、いつの間にか番えていた。勿論いつの間にか弓道に適した袴履きになっていたが、十六夜本人が一番腑に落ちない顔をしていた。

「それはまさしく、表世界のN氏の召還だ」

 僕は丁度、ライターのオイルを使った即席の火炎瓶を製作していたところだったが、その言葉に思わず顔を上げた。

「なんだって?」

 拡声器を持っていたN氏はその瞬間、N氏になった。既に立ち居振る舞いから表情、生年月日や血液型、果ては好きな修道院まで完璧にN氏でしかなかったN氏が、それ以上にN氏になる様は見ていて滑稽なほどだったが、N氏からN氏への豹変というにふさわしいその変化は、僕達に鮮烈過ぎる衝撃をもたらした。

「ば、馬鹿な」

 ば、馬鹿な、と口にしなければならない雰囲気に負けて、僕が、ば、馬鹿な、などと口にしていると、今迫氏と十六夜が淡々と告げた。淡々と、それでも相手に届く声で。

「僕は、このドライバーで君の左の目を抉り、左の肺を抉り、左の腎を抉り、心の臓を抉ろうと思っている。理由は長くなる。だが端的に言えば、自分のためにそれをしようと思っている」

「僕は、この矢で君の右の目を貫き、次の矢で右の肺を射抜き、一発だけフェイントで耳を掠めるにとどめた後、最後の矢を鳩尾辺りに撃ち込もうと思っている。理由は長くなる。だが端的に言えば、僕も自分のためにそれをしようと思っている」

 南風が吹きぬけた。わずかに木々がそよぐ。緊張感で満たされた場の空気を敵にも味方にもせずに、N氏はきょとんとした顔のままで言った。拡声器を投げ捨てて、地声で言った。

「とりあえずそれは、僕が例のPから始まる動物の名前を口にしたから、という理解で良いんだよね?」

 N氏の衝撃的な発言に、僕も今迫氏も十六夜も、動揺を隠しきれなかった。

「……知っていた、というのか?」

 沈黙を破って、今迫氏が呆然と呟く。

「当たり前じゃん。何年来の付き合いだと思ってんの。タブーなんて、隠そうと思って隠せるものじゃないよ。本気で隠すつもりなら、特別なやり口が必要になる。正直、君たちの差配程度じゃ無策に等しいと言わざるを得ない」

「言霊禁忌律令についての知識もあるわけか……。その上で、PPでもACIDでもありえない言い草……。もしかして、お前も何らかのタブーを背負っているというのか?」

「ご明察。ただし、僕の場合は隠すとか隠さないとか、そういったレベルを遥かに超越した次元でやってるけどね」

「それは、どういう……」

「そもそも、自ら不可触な単語を設定することで一〇八の感応の窓を開くという特防系の根本的なルールに関して、疑問を持ったことはない? ないってことはないでしょ。何しろ謎だらけの話だし。5W1Hを当て嵌めるだけで質問は出来てしまうから、自問の機会は死ぬほどあったはずだ。さらに言えば、その全ての問いに答えることは出来ず、意図的に目を逸らすことにしたはずだ」

 びょう、と耳元で風を切る音がした。満を持していた十六夜の手元から、矢が放たれていた。矢は綺麗な弧を描いて飛び、狙い違わずN氏の右の目に吸い込まれていく。ただ、その場の誰にも焦りはなかった。N氏の右腕が横合いから伸びて、着弾の直前に矢を無造作に掴み止めた。全てが予定調和の匂いに満ちていた。

 N氏は拡声器と同じように、飛来した矢も捨て置いた。声色一つ変えずに続けた。

「それをとがめだてする気はないよ。何しろ、僕だって同罪だ。本当に本質に踏み込むつもりなら、むしろ何らかのPPやACIDに所属すべきだったわけで、特防系統に身を窶した時点で、ある種の屈服があったのも事実。あとは、程度の問題となるけどね」

 屈服。一〇八もの窓を開くという特権的な位置付けにあるタブーの設定について、そんな単語で切り捨ててしまえる人を、僕は生まれて初めて目にした。

「僕がタブーとする単語を選ぶ上で重要視したのは、出現頻度でもなければ細かい給与形態の違いでもない。掲げられた防衛理念なんてのも形骸化しているから勿論論外だ。ただ一点、メリットよりもデメリットの方が圧倒的に大きくなること、それだけだ」

「ちょっと待ってくれ。自らそんな設定の仕方をしておいて、このシステムの問題点を指弾するのは本末転倒だろう」

「うん、それは認める。でも、こっちから聞くけど、システムで得られるメリットを維持するために、これまでにはなかったタイプの莫大なコストを支払う羽目になることは、本末転倒じゃないんだろうか」

「それは……費用対効果の問題だとしか言えんな」

「つまり、一〇八の窓は、人殺しをしてでも維持する価値のあるものだと、君はそう把握しているわけだね?」

「立場上、ここで首を横に振るわけにはいかないな」

 今迫氏は、常より遥かに脆い理論武装で首肯した。

「斎藤氏の場合、虚実が反転してもなお維持する価値のあるものだと、そう考えているんだよね?」

「驚いたな。僕の中身まで把握しているのか。しかし、その論理構築はいただけない。何しろ、僕の中身が十六夜であることと、言霊禁忌律令の間には、直接的な因果関係はないのだから」

「あれ? その部分は知らないの? 幻覚娘々の気まぐれにも困ったもんだね。斎藤氏は、三年前に部活の知り合いのタブーを正面から完膚なきまでに犯したんだよ。一〇八の窓のうち、八〇以上を潰すくらいの勢いで。当然、相手は斎藤氏の命を狙い始めた。斎藤氏のことを気に入っている幻覚娘々は、当然それを止めようとしたけど、相手に聞き入れてもらえなかった。斎藤氏に窓の補償的分配を提案したけれども、それも却下された。やむを得ず彼女は、斎藤氏の命を守るため、その虚実を入れ替えることで、相手に手出し出来ないようにしたというわけさ。だから、十六夜がここにいることと、言霊禁忌律令に関しては、決して無関係じゃない」

 十六夜は絶句した。予期せずに、彼の身に起こった虚実の交錯の真相が明らかにはなったが、それが望むべからざる結果であったことに疑う余地はなかった。

「このシステムは、そんな風に使うものじゃない。少なくとも、システムに踊らされている事実から目を逸らして、賢く利用しているように思い込もうとするやり方は、不細工だと思う」

「随分な言いようだな」

「……もう一人の僕、聞こえているかい?」

 N氏が突然僕の方を向いたので、僕はびくりとして顔を上げた。

「これは全くの想像になるけど、君の中身が誰であれ、君は今僕の感応器を通して世界と触れていると思う。幻覚娘々ならきっとそうするはずだ。そんな君の口から伝えてくれないか。今、僕の窓が幾つ開いているのかを」

 今迫氏と十六夜が、僕のほうを睨み付けた。

 僕は答えた。

「三つだ……」

 視覚。聴覚。触覚。

 この体にはもはや、通常の五感をさらに下回る感応器しか残されていない。これまで無意識下に押し込められていた他の全ての窓に目をやると、それらがある一つのビジョンで埋め尽くされていたのがわかった。それがN氏のタブーの正体なのだということに思い至り、僕は戦慄を抑えられなかった。

「三つだと……。まさか、ありえない! 一〇〇以上の窓が占拠されて、まともに活動できるわけがない!」

 今迫氏の叫びも、尤もだ。根は今迫氏に近い僕にしても、この現実を目の当たりにしなければ、同じことを叫んでいたことだろう。

「正確には、二つと五分の三かな。左側の視野は殆ど失われている。実のところ、さっき飛んできた矢だって、左目だったら間違いなく反応できずに刺さってたよ」

 さも面白いことのようにN氏は言った。

「それでもね、僕は感応の遡及的回復を考えたことは一度もないんだ。どうしてかわかるかい?」

 僕には、既にその答えはわかっていた。同時に、今迫氏と十六夜には、決してわかることはないということも、わかってしまっていた。N氏は、へらへらと笑いながら、こんな風に続けた。

「僕のタブーはたった一つ。僕の名前なんだ」

 僕の意識の窓を埋め尽くしていたのは、N氏自身の姿だったのだ。

「な、何を考えているんだ。自分の名前なんて、一番耳にする機会が多いじゃないか」

「だからこそ、だよ。魔奏概念を積層してあるから一度や二度呼ばれたくらいじゃびくともしないけど、僕がどういう思いで自分の名前を耳にしていたか、君たちにわかるかい? 僕の名前を口にする者というのは、大概の場合において僕のほうからも知っている人間だ。家族、友人、恋人、教師、その他大勢の知己が、僕のことを呼びながら僕の感応器を潰そうとして来るんだ。悪意なく、むしろ親愛の情を込めて、僕を追い詰める。それが僕の世界なんだよ」

 N氏は、悲観も絶望も、何らの重々しい覚悟すら感じさせずに、自然体のままで告げた。

「その中でもなお、誰一人殺さずに生きていけることを証明したい。僕がたった一つ決めたルールだ。簡単なことだろう? 耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶだけ。日本人に出来ないわけがない」

 今迫氏も十六夜も、唖然として声を出せないようだった。

「もっと単純な話をしようか。人を殺すことの是非を問う以前に、人を殺さざるを得ないような状況になった時点でそいつは既に失敗している。解決手段が殺人しかないような窮地なんて、いくらでも回避し得たんだから。窮地でもないのに殺すというのなら、そいつは自他共に認めるサイコパスだよ。少なくとも僕はそのどちらにもなりたくなかった。そう、少なくとも僕は、ね」

 ぎろり、と今迫氏がN氏を睨んだ。N氏は全く意に介さなかった。

「優柔不断な僕にしては珍しく、僕の主張をはっきりと告げよう。愛くるしい白黒の大型哺乳類の名前を聞かされたくらいで旧知の者に殺意を向ける君たちは、完全に道を踏み外している。今すぐに特防系統のあらゆる組織から足抜けして、全ての窓を閉じ、一般人に戻るべきだ」

 今迫氏は無言。十六夜も同様だった。

「何度も言うけど、君たちは僕の名を呼ぶことで、僕の窓をいくつも塞いで来た。それに関して、僕が何か言ったことがあった? 僕からの殺意に怯えた覚えはあった? もっといえば今の時点で、君らに罪悪感はある? その全ての答えが否なら、最低限ここは手を引きなよ。黙って表世界に帰って、幻覚娘々と相談するといい。機嫌が良ければ最善手を教えてくれるでしょう」

 僕は、今迫氏か十六夜が、『帰ろう』と声に出してくれるのを期待していた。いや、確信していたと言ったほうが良いだろう。善か悪かは定かでないが、二人とも賢しい人間であるのは間違いないはずだ。まともに判断して、これ以上この場にいても事態の改善は何一つ望めない。ここは素直に引くべきだった。

「断る、と言ったら?」

 僕は自分の耳を疑った。期待は裏切られた。

 今迫氏は、マイナスドライバーを持ったまま、ゆらりとN氏の方へ一歩だけ近づいた。

「正気か?」

 思わず口にしていたのは僕だったが、その言葉が果たして誰の意思を汲んでいたものなのかは、全くわからなかった。

「正気? 正気だとも。中身が僕であるはずの君がそんなことを口にするなんて、残念だよ。何だか自分に裏切られた気分だ。もっとも、昔から僕は僕を裏切ってばかりだったような気もするが」

 今迫氏は酔歩するような足取りで歩き出す。

 十六夜はそれを止めようとしなかった。おもむろに、二の矢を弓に接ぐ。

「おい!」

「止めるな。これは僕達の問題だ」

 十六夜は吐き捨てるように言い、一転して綺麗な体勢できりきりと限界まで弓を引いた。

「覚えておきなよ、もう一人の僕」

 N氏がまっすぐに僕の目を見た。

「これが、言霊禁忌律令に関わった者の末路さ。人間は誰であれ、身の丈以上のものを御することは出来ない。特防系統、PP、ACID、そのいずれにしろ、自分たちが利用しているつもりのシステムに踊らされているだけに過ぎないんだよ。豊かさの全てを失ってもなおそれに気付かないほど、愚かしく醜く変えられながら、ね」

 達観したような顔つきだったN氏が、次の瞬間弾けるように笑い出した。どこかのネジが一本緩んだように感じた。

「ははは、ふざけんなよ、お前ら。殺すのかよ、僕を。もう、正直よくわかんないよ、お前ら! あれだけ言ったのにそれでも僕を殺すか。友情も温情も同情も、何一つないのか。無情か。冷酷非道か。死んでしまえ。僕を殺す前に殺されてしまえ。僕以外の誰かの手で縊り殺されてしまえ。言っておくが、僕は殺さないぞ。自分の誓いを破らないためなんかじゃないぞ。僕には殺せないんだ。何故かって? 決まってるじゃないか。僕が裏世界のN氏だからだよ。お前らの体には指一本触れられないように出来てるからだよ。さっき表世界のN氏を召還したはずだって? 笑わせるな。そんなの、できるわけないじゃないか。幻覚娘々の作り出した世界で、さらにメタ的に動ける登場人物がいるわけないじゃないか。僕はその振りをしてただけだよ、ははは、ばーか。騙されやがって。要するにお前らは僕を殺したところで自分の窓を解放することは出来ないんだよ。ただ、N氏を殺したという後味の悪い記憶を脳に刻み込んだまま、血にまみれた姿でもとの世界に戻るだけなんだよ。ははははははははははははははは、ざまあないな。せいせいするよ。この僕にあらゆる痛みを与えるつもりのお前らは、これから心に二度と治らない傷を負うのさ。お前らはそのために裏世界に来たのさ。僕がこれだけネタ晴らしをしても、一向に殺意を収めようとしないのがその証拠さ。聞いてるかい、失敗者諸君。ここまで全てをひっくるめて、予定調和なんだよ。幻覚娘々の手のひらの上で踊らされてるんだよ。予告しよう。表世界に戻った時、お前らの中で最低一人は発狂して病院に送られる。上野の喫茶店では救急車の手配も済んでる頃合だ。はははは、ざまあみろ。今後一生苦しみ続けろ!」

 幸か不幸か、その後のことはあまり覚えていない。

 ただ、十六夜は二の矢を撃ったし、今迫氏は間違いなくマイナスドライバーを持ってN氏に襲い掛かった。誰かの悲鳴が聞こえたし、何故か僕の両目に激痛が走った。

 視界が暗転し、何も感じられなくなった。全ての感覚が遮断された。僕は取り残された。




 ある時気付いたら、見慣れた闇の中に幻覚娘々が立っていた。

 そんな風に覚醒するまで、体感時間で六〇年は経っていた。死んだかと思った。

 彼女は仙人らしく、不思議な淡い光を全身にまとわせていた。

「それで、どうするの?」

「どうするもこうするもあるか。この状況とそれに関わる全てについてちゃんと説明してくれ」

「……めんどいからパス」

「ふざけるなよ」

 僕は頭痛を覚え、それと一緒に痛みという感覚をようやく思い出した。

「あなたは、三者の中間的存在として調停の場に居合わせた。心理的には今迫氏の記憶を引き継ぎ、肉体的にはN氏の感覚を引き継ぎ、斎藤氏のように十六夜の手で著述される存在として」

「そんなのむちゃくちゃだ」

「そうね。私のやることなすことはいつもそう」

「自覚はあったのか」

「伊達に仙格を持っているわけじゃない。人間と違う立脚点から人間と関わるのが私の仕事」

「なるほど。もっともらしい話だ」

「もっともらしいだけで決して事実ではない」

「おい……」

 幻覚娘々はくすくすと楽しげに笑ったが、いつものようにそれは幻覚だった。

「話を戻す。あなたは裏世界で見たことを踏まえて、三者に何らかの裁きを下さなければならない。あなたは三者にとっての中間的存在だから、誰に対しても平等に強制力を持つ。各々に均等に思い知らせることが出来る。全ての過ちをどこまで許容出来るか冷静に判断出来る」

「責任重大だな」

「考えるための時間は十二分に与えたはず」

「それが考えるための時間であると認識するには不十分だったけれどね」

「そんなレトリックに拘泥している場合じゃない」

「言いたい放題だな」

 三者の中間的存在であるらしい僕は、三者に対する裁きとやらについて思いを巡らせた。各々に対して一体何をどうしてやれば、この状況を上手く打破出来るだろうか。それも、できる限り平和的に。

「ところで、僕にはどこまで出来るんだ?」

「どこまで、とは?」

「三者それぞれに沙汰を言い渡すにしても、多少の罰を与えるくらいで解決するような話でもない。思想を捻じ曲げたり、最悪の場合、過去を改変したりすることも必要になってくると思う。僕にはそのどこまで出来るんだ?」

「正確に言えば、あなたには何も出来ない」

「え」

「ただし、私には人間の因果律を操る力がある。要するに、何でも出来る」

「……僕の記憶が確かならば、君は、濫りに因果律を操作することは避ける方針なんじゃなかったかな」

「勿論。そう言っておかなければ、少しでも都合の悪いことが起こるだけで、私を頼ってしまう。人生にやり直しが効くことを知らしめるのは得策でない。それが私の判断」

「まさか、僕の人生も何度もやり直して改善されたものだとでも言うのか」

「僕、とは誰? 今迫氏? 斎藤氏? N氏?」

「その全員」

「勿論。微細な軌道修正も含めれば、数百回はくだらない。その都度歴史は変わるから記憶には残るまいが」

 僕は、少し苛立ってきた。

「ならば何故、今迫氏が九九人も人を殺すのを看過してきたんだ」

「それが最善だった」

「人を殺すことが? まさか!」

「あなたは、蒸発した手賀沼を見たことがある?」

「……え?」

 手賀沼というのは、今迫氏の自宅の近くにある湖沼の名前だった。

「倒壊した安田講堂は? 陥没した東京二三区は? 消滅した房総半島は? 宣戦布告した日本国政府は? 全天を黒雲に覆われた太陽系第三惑星は? どれか一つでもあなたは見たことがあるか?」

「……戯言だ」

「今となっては、ね。あなたにとって幸運だったのは、そのどれもが私にとって興味をそそる対象でなかったということ」

「今迫氏が人を殺さなかっただけで、そんなことが起こるとは到底思えない」

「あなたの思うほど、因果は単純でない。残念なことに、早い段階で死んでいなければ世界に害をなしてしまう存在というのは、善良な市民の中にこそ多い」

「今迫氏が殺していたのは、偶然そんな人たちばかりだった、と?」

 これに対して、幻覚娘々は答えなかった。

だから僕は、ようやく理解した。幻覚娘々が、そういう人間を抹殺するために今迫氏を利用していたのだ。今迫氏は、踊らされていただけに過ぎないのだ。

「それを踏まえて、裁きの内容を決めることだ。過去を変えることは容易だが、無理のある改変は世界をすら滅ぼす」

「身勝手な話だ」

「私のやることなすことは全てそうだ」

 僕は舌打ちをして返した。

 今回のパンダを巡る騒動に関して言えば、今迫氏と斎藤氏に特防パンを破棄させることで容易に決着する。上野駅でN氏がパンダのことを口にする直前にそれをなせば、大した過去の改変でもなく、大きな歴史的混乱も起こらないだろう。

 ただ、そんな単純な改変で済む話ならば、何故わざわざ、三者の中間的存在などという複雑な代物――ようするに僕、まで借り出される騒ぎになっているのか、説明がつかない。幻覚娘々単独の力でどうとでもなる話だ。

だとすると僕は、僕だからこそ可能な、何らかの解決策を求められているということになる。それもおそらく、幻覚娘々にとって面白みのあるものに違いない……。

 六〇年ですっかり鈍ってしまった頭では、良いアイデアなどまるで浮かんでこなかったが、僕はいい加減疲れてしまった。

「とりあえず、表世界の三人をここに呼んでくれないか。出来れば三人とも後ろ手で両手を拘束して」

「お安い御用」

 幻覚娘々が言うなり、今迫氏、斎藤氏、N氏の三人が闇の中にぼんやりと浮かび上がった。三人とも、身動き一つせず、まるで死んでいるようだ。

「この裁きが終わったら、僕が三人の中に均等に戻ることで、僕の記憶を三人ともに戻すことは出来ないかな?」

「無論、出来る」

「では、速やかにそうして欲しい」

 僕は、今迫氏、斎藤氏、N氏の方へ近づいた。つかつかと靴音を立てて近づきたかったが、闇の中、不思議な空間をふわふわと漂う以上のことは出来なかった。

「判決を言い渡す。感応の窓の大部分を潰されたからといって、古くからの友人の命を奪おうと即断した軽挙妄動は決して許されるものではない。よって、今迫氏、斎藤氏の咎は明らか。ただし一方で、二人が特防パンを遵守していることを把握した上で、あえてパンダと口にしたN氏の作為的言動に何らの問題も無かったかといえば虚偽となる。そこでこの場は、双方に咎ありとし、喧嘩両成敗の原則に従って、中間的存在である僕が、均等に全員をボコボコにするだけで治めたいと思う。言霊禁忌律令の抜本的解決も、塞がれた窓の補償問題も、そんなことは僕の知るところではない。自業自得、自己責任の言葉を胸に、全員が自力で何とかしやがれ!」

 言いたいことを言ってすっきりした僕は、ちらりと幻覚娘々の方を見た。幻覚の向こうで満足そうに微笑んでいる。もう知ったことか。

 僕は、右手を強く握り、拳を作った。

「幻覚娘々」

「何?」

「僕の右腕を、三本に増やせるか?」

「は?」

「一度振りぬくだけで三人を同時に殴れるようにしたいんだ」

「むちゃくちゃな話だ」

「阿呆が三人集まればそうなるに決まってるだろう!」

 僕は三本の右腕を大きく振りかぶった。

「おらあああ、全員、歯ぁ食いしばれぇい!」

 さて、血祭りの時間だ。




 うひょああああ、という全くもって無様としか言いようのない悲鳴を上げながら、僕と斎藤氏は全く同時に椅子から転げ落ちた。全身に鈍い痛みが走り、続けて、卓上から落ちたグラスが割れる甲高い音が聞こえた。周りにいた客が、何事かといっせいにこちらを見ているであろう視線が痛い。

「いててて」

 向かいで唇から流れ出た血を恐る恐る触っている斎藤氏は、見るからにひどい顔をしていた。目の周りに痣が出来、頬が腫れ上がっている。きっと自分も同じようなことになっているのだろう。

「自業自得、だな」

 僕も斎藤氏も、あの中間的存在とやらの記憶をはっきりと持っていたので、誰を責めることも出来ないのはわかりきっていた。

「そうだな。全くの余談になるが、今、僕の中身は斎藤本人のものに戻っている。十六夜が殴られてくれればよかったのに、と思わなくもない」

 よろよろと起き上がる。姿勢を変えようとするだけで、胸や腹にも痛みが走る。あの中間的存在、本当に容赦せずにボコボコにしやがった。

 これからどうするか、なんて考えたくもなかった。とにかく一刻も早く家に戻って、休みたい。それだけだった。

「お、お客様、大丈夫ですかああ」

 少し間の抜けたウェイトレスが、僕達のテーブルに向かって走って来た。床にはグラスの破片が散乱していた。一般人に迷惑をかけてしまったことだけが悔やまれる。

「すみません。転んでしまって」

 愛想よく、誤魔化そうとしたが、ボコボコになるまで殴られた顔ではさすがに限界だろう。ウェイトレスは、引き攣ったような表情に変わり、逃げるように引き返していった。

 男性店員が箒とちりとりを持って駆けつけてくる。黙ってガラスを集め始めた。僕達は恐縮して、それを見守った。

 先ほど立ち去ったウェイトレスが戻って来た。お盆の上に冷たいお絞りを山のように盛っている。どうぞ、と僕達に差し出す彼女は、まるで天使のように見えた。

「ありがとうございます」

 そう言って痛がりながら顔を冷やし出す僕を見て、急にそのウェイトレスはくすくすと笑い出した。他人の痛がるところを見て笑顔を隠せないとは、どれだけサディスティックな奴なんだと、僕が正気を疑い出した頃になって、彼女は恥ずかしそうに弁明した。

「すみません。何だか不謹慎な話なんですけど、場所が場所だけに、お二人がパンダみたいに見えてしまって……」

 目の周りだけ黒ずんでいる僕とその同胞は、思わず顔を見合わせた。窓がどれだけ塞がれても、その愛くるしい姿に苛立つことは決してもうない。

「……残念ながら、パンダはこんなに腹黒くないですよ」

 斎藤氏が上手いのか上手くないのかよくわからないことを得意そうに口にした。僕は久々に腹から声を出して笑った。

 ついでなので、パンダに引っ掛けて「おもしろいな」と口にしようとした――これは勿論、パンダの顔面が大方は白いこと、さらに、『尾も白い』とも見なせてパンダの尾の部分が白いことにまでかかっているという、我ながら非常に高度な言葉遊びだった――のだが、誰にも伝わらないと思ってやめておくことにした。

「パンダだけに、とてもおもしろい結末ね」

 幻聴が聞こえた。ちりとりにかき集められていくガラスの中に、重層された仙女がかすかに笑って消えていくのが見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パンダ 今迫直弥 @hatohatoyama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ