最終話

「いま、お幸せなんですって?」


 だから沙希にそう言われ、須藤の名が出るまでは宗弘の話が耳に入ったのだろうと思っていた。


 周囲の心づもりも、みるみる熟してゆく。


 叔父夫婦も両親も、美奈子には宗弘が一人前になるまで2、3年手元に置いて画廊の仕事を続けさせ、時を待とう……そう考えているに違いなかった。


 だが、沙希は榊との交際が続いているのを指摘したらしい。


 その口調には、単にそれを祝福しているというだけではない何かが含まれているような気がしていた。


 須藤クンは、沙希に何か話したのかしら? あるいは、榊クンが須藤クンに何か言ったのかも……。


 喫茶店から出て沙希と別れた後、美奈子はもっと彼女について訊いておくべきだったと後悔した。


 美大を卒業した後も、絵描きとして生きて行きたいとキャンパスへ残って勉強を続けている沙希。


 その頑固さからか常に他人に誤解され、美奈子はそんな彼女に比べて人受けの良い自分がいつもうしろめたく感じられるのだった。


 沙希が誰かを批判する。


 すると、彼女の言葉が的を射ていると心得ながらも美奈子は必ずフォローした。


 沙希はしっかりしている分他人に攻撃され、美奈子は自分を持たぬ故に他人から受け入れられていた。




 そんなある土曜日の夕暮れ。

 美奈子は榊に呼び出され、夕陽の沈みかけたまだ夏には早すぎる海岸へ出かけた。


「教師を辞めることにしたんだ」


「え?」


 愚痴とも相談ともなく、高校での出来事はいろいろ聞かされていたが、その言葉は寝耳に水だった。


「辞めてどうするの?」


「藤田のいるイタリアへ行くよ」


 榊はステンドグラスを学びに行った仲間の名を挙げた。


「イタリア……」


「ああ、俺は行くよ。行って何が変わるかわからないけど。どうなるかわからないけど。とにかく俺は行く。そう決めたんだ」


「いつ行くの?」


「来春かな。今担当してる連中を卒業させて、金を貯めて。それまでイタリア語の特訓だ」


「寂しくなるわね」


 榊はチラッと美奈子を見遣った。


 それから、足元の白い砂に視線を落として呟いた。


「いつも思ってたよ。飛んでった藤田や、大学に残って勉強を続けてる沙希に対して、ずっと引け目を感じてきたんだ。生活は安定してるし、将来だってまずまず不安はない。生徒の中にはカワイイ連中だっている。けど、どんどん絵が描けなくなった。芸術的な刺激がないんだ。子供達は授業が終われば絵なんか描かない。結局、美術なんてのは受験と関係ない、高校じゃ脇に寄せられてる科目なんだよ。わかっちゃいたけどね」


 美奈子は茫然と立ち尽くしている。


「こないだ新宿のギャラリーで沙希の作品を観てね。電話したら少しも変わってなかった。昔のままの辛辣さでね。彼女らしい素晴らしい絵だったよ。ぬるま湯に浸かってちゃ何も描けやしない。俺もとにかく前に進みたくなった」


 わたし、何も知らなかった。あなたがそんなことを考えてたなんて。あなたは何も言わなかったわ。沙希の絵を観たことだって、一言も……。


 思いつつ、美奈子は静かに榊の言葉を聞いていた。


 残照は消え、夕闇が濃くなって行く。


「出発する時は、みんなで見送りたいな。沙希や須藤クンたちも誘って」


 何言ってるんだろ、わたし……。


「あいつらが見送りになんか来るもんか」


「来るわよ」


 バカね、信じてもいないことを請合って。


 海沿いの道を車が走り過ぎる。


 潮騒が重なる。


 踵を返した榊が、道路へ向かって歩き出した。


 薄闇の中、白い砂に足跡が刻まれる。


 美奈子は動けなかった。


 ふと振り向いて、榊が言った。


「この3年、まがりなりにも教師としてやってこられたのは美奈子のおかげだ」


 そうでしょう!


 そうでしょう!


 そうでしょう!


 強く思いながら、美奈子は裏腹に優しく微笑んだ。


「ありがとう」


 暗がりの中、榊に見えるとも思えぬ笑顔を浮かべたまま、美奈子は彼の後姿を見送った。


 足下の砂が湿りをおびる。


 潮が満ちてきた。            

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さざなみ 令狐冲三 @houshyo

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