忌避と執着の境界線およびそれと関わる過程と仮定
今迫直弥
忌避と執着の境界線およびそれと関わる過程と仮定
「心」
「歌」
「命」
「剣」
僕らはそれぞれ言った。一言で、ただただ簡潔に。
「……」
そいつは黙していた。しばらくそのまま時が流れ、沈黙は皆に重くのしかかり始める。
「あなたは?」
『歌』がそう尋ねた。僕はそこまできてもあえて黙っていた。
また間があった。
そいつは突然、ふっと口元だけで小さく笑った。それから、紅い唇が動き、言葉を紡ぐ。
「空」
フフフ、というような感じでそいつ、『空』は、笑い続けた。
僕らは笑えなかった。
とりあえず、何故だか走馬灯のように、過去が次々と目の前に蘇ってきた。
名前。
『命』は、それをそう呼んでいた。
「私達には、それが欠落しているの。だから、捨てられた」
それが欠落するとどうして僕達が捨てられるのか、繋がりはよくわからなかったけれども、『命』はとても悲しそうな顔をしていたし、彼女は
「あなたには、現実をあまり知ってもらいたくないの」
と、その頃はよく泣いていたので、彼女にそれを訊くことはできなかった。
「ただ、覚えておいて」
『命』はこうも言った。
「あなたはきっと、過去でも未来でも現在でもない、全く別の時間を持っている。だから、強く生きて行けるわ」
そう笑っている彼女は、とても綺麗だ。それを『剣』に言ったら、彼はにやりと、底意地の悪そうな感じの表情を浮かべて、
「お前、あいつに惚れてんじゃねえのか?」
そうかもしれない。
「やめとけやめとけ。あいつは確かにいい女だが、恋愛沙汰とは程遠い奴だぜ。何せ『命』なんだからよ」
……そうかもしれない。
「あら、そうかしら」
と、これは『歌』。
「案外、ああいうタイプのほうが情熱的だったりするのよ」
「あいつに限ってそれはねえだろ」
僕にはよくわからなかった。全てが。
「死」
三番目の敵は笑いながらこう言い、その時点で矛盾している気がしなくもなかったが、僕は黙っていた。
「如何なる手段を講じて、我を拒む?」
三番目の敵『死』は、僕らに銃器を突きつけながら笑っていた。僕らは四人。相手の銃器とそれを握る腕は四本。互角だった。
「手段か。考えもつかないし、考える気にもならないな」
『剣』は、不敵だった。強がりかもしれないが、それでも凄い。
「……死ぬことは、貴様らにとって恐怖ではないのか?」
静かに、三番目の敵は訊いた。
「恐怖……確かにそうかもしれないわね」
『命』は呟いた。顔色はあまりよくなかった。
「でも、それは根本的に違っているわ。死ぬことが恐怖であることと、この状況を恐れることは、私にとって別次元の問題だもの」
彼女は、コートの内ポケットから皮肉の魔王を召喚した。
「それが、私が『命』である所以」
皮肉の魔王は『命』を守った。ひたすらに銃器に噛み付き、発射される弾丸すら呑み込み、三番目の敵を驚愕させた。
「進むことと、前に行くことが違うのはわかる?」
『歌』は、旋律に乗せて語った。
「見えない流れを感じることが問題なのではないわ。前進が断絶の中にあっても不思議ではないし。でも、何より」
一呼吸の間ができた。
「前に行っても進めないことをあなたは厭わなさ過ぎた。すでに、取り返しはつかないの」
『剣』の攻撃は、必殺だった。
『歌』の言葉よりも早く、三番目の敵に届き、そしてそれを終わらせた。
『命』は、ため息をつき、緊張の糸が切れたように気を失った。皮肉の魔王がそれを支え、そして彼女の体を地面に静かに横たえると、帰って行った。
「まだ私、終わってなかったのに」
『歌』が『剣』に不平を言った。
「お前が遅すぎんだよ」
にやり。相変わらずの表情をした。
「『心』、大丈夫?」
思い出したように心配された。
とにもかくにも、『死』と言っていいのかどうか未だによくわからないその三番目の敵は、終わった。
「もしも私が星だったら、こんな風に思い悩むこともなかったのかもしれない」
『命』が言った。夜だった。崖の端、一歩先に虚空が広がるその状況でなお、淡々としていた。そこには、僕と彼女の二人しかいなかった。『歌』と『剣』は別行動をしていた。
「あなたは、星になりたいと思ったことある?」
ない。率直に答えた。
「そう。だと思ったわ」
彼女は、その頃よく煙草を召喚していた。この時も、コートの内ポケットに手を入れていた。
「あなたは、純粋すぎるもの」
そして、ポケットから手を出すと、火の点いた煙草が握られている。『命』はそれを咥えると、息を吸った。先端が、少しの間赤く灯る。
「狂おしいほどにね」
煙と共に吐き出された言葉には、僕の知らない感情が混ざっていた。
その時の彼女の顔を、僕は何故か思い出せない。
『命』は、僕に近付いてきた。世界は、暗かった。星を背に、僕は彼女を見上げていた。
彼女は、煙草越しに息を吸い込み、それから僕の頤に左手の指をかけ、顔を近づけてきた。
唇が、触れた。
反射的に逃れようとする僕の首の後ろに、煙草を持った右手をまわし、彼女の唇は、僕の唇と重なった。そして、彼女の口から煙が送り込まれる。
苦かった。そして苦しかった。
咳き込む僕を前に、『命』は悠々と、もう一度煙草を吸い、
「『命』……か」
と物憂げに呟いた。
僕にはよくわからなかった。
ただ、以来、煙草に曖昧な感情を覚えるようになった。
「無」
過去に逃げようとしていたその六番目の敵は、そう言った。そして、
「私は別に貴方達に干渉しようとか、そういうことは考えてないのよ――」
と語り始め、
「――だから逃がしてくれてもいいじゃない」
に終始するまでおよそ一昼夜の間発言を止めなかった。
「で、あんたは結局なんで逃げてるんだ?」
『剣』は、少しいらついていた。一昼夜、六番目の敵の話につき合わされたのだから当然だ。
「さあ。生まれた時からこうだもの。わかんないわよ」
「終われ。そんな薄弱な意志で続けられるようなことは、この『中』にいる限りでは存在しない」
「ちょ、ちょっと待――――」
終わった。
『中』。
ただそれは、捨てられた僕達のいるこの場所のことであり、その超越こそが現状打破の一歩であると『命』は考えていた。
「動くということで、近付かなければならないの。『中』ではない場所にね」
一度だけ、訊いてみたことがある。
どうして、現状打破を目指しているのかと。
彼女はその時、こう答えた。
「ここにいるのが嫌だからよ」
ここにいることが嫌だからと言っているが、僕達はここにいるからこそ、そういうことを言えるのではないか、と不思議に思った。
『剣』が口を出してきた。
「まあ、そういうことだな。妥協は敵だ。何にとっても。俺達は、進む必要があるんだ」
「なに格好つけてんのよ。あんたが一番妥協だらけじゃない」
「何だと」
そのまま喧嘩を開始する『剣』と『歌』は放っておいて。
『中』でない場所に辿り着いたとして、その時、僕達は何をすればいいんだろう。
現状打破? 妥協しない? 進み続ける?
現実問題、それが成された後で、果たしてそこで待っている何かに、僕達は満足できるのだろうか?
そもそもそこで待っているものは、僕達を迎え入れてくれるのだろうか?
いや、そこに果たして何かが待っているのだろうか?
「『心』、顔色が優れないわよ?」
『命』は、平静な顔でそのセリフを言った。
大丈夫だと返事をしながら、僕は恐怖に似た感情を喚起されていた。
虚無。
『命』。『剣』。『歌』。三人は、それに気付いていないのだろうか?
それとも気付いていて動き続けるのだろうか?
僕達は、何に向かっているのだろうか?
――第一、僕達の戦っている、『敵』って
何だ?
「悪」
その十六番目の敵は、後にも先にもそれしか言わなかった。そいつはただただそこにあるだけで、それを見る限りでは、むしろ生物と言うよりも静物に近い気がするような存在だった。
「どうする?」
『剣』が尋ねた。誰にともなく尋ねた。
誰からも返事はなく、僕達はただただその十六番目の敵の前で、ぼーっと突っ立っていた。
「歌う?」
と、しばらくして『歌』がそう訊いて来たが、またしても誰も返事をしなかった。
「歌うとさあ」
三百を数えるほどの時間沈黙と風音が続き、それに耳が慣れはじめた頃、『命』が口を開いた。しかしそれは、いつのまにやら彼女が体の主導権を渡したらしく、停滞の魔王の口調だった。
「終わらせた後の体がオルゴールになるじゃん。別の場所ならともかく、ここはまずくない?」
ここは、砂漠だった。こんなところにオルゴールが設置されると、音が出なくなってしまう。無為に終わらせる静物を増やすと、終わった静物を受け入れるために『中』はそれに応じて広がる。――この事態は避けなければならない。
「それもそうね。やめておきましょう」
状況は停滞した。
「じゃあ俺が斬る」
それを破ろうと『剣』が言った。
「こいつは斬っても終わらない。増えるだけだ」
『命』は、いや、停滞の魔王は言った。
「またかよ!」
僕達は九番目から十二番目の敵を思い出した。
「夢」「水」「油」「糸」
その存在自体に疑問を覚えるべきだった存在が多かったが、彼ら彼女らには『剣』の力が通用しなかった。その時は、歌と皮肉の魔王で対処したのだが。
「停滞の魔王が出てるってことは、『命』は戦えないってことだしな」
そのために、状況は再度停滞していた。
僕はため息をついた。しょうがない、こうなったら――
「『心』、お前は出るなよ」
『剣』に機先を制された。
「お前は、戦っちゃだめだ」
…………。
文句を言おうとしたが、言えなかった。僕が戦うということは、『命』にきつく止められている。
「大丈夫、私達がどうにかするから」
『歌』が、そう言った。
戦いは長時間に渡り、決着がついた時、『剣』は利き腕を、『歌』は右目を、それぞれ失っていた。
僕は、悔しかった。何もさせてもらえない自分が、歯痒かった。
十六番目の敵は終わったが、戦力としての『剣』も、終わった。
「この際はっきり言っておくけど」
『命』は、怒っているようだった。
「私は別に、このメンバーでなければ動けないとか、そういうことを言うつもりはないわ。今更になって、そんなことを言っているなら、戻ってくれても構わないのよ」
しかし、息が荒いのは、怒っているからだけではなさそうだった。いつものように体調の悪い彼女は、今にも停滞の魔王と入れ替わりそうだった。
「そんな言い方ってないんじゃない!?」
発言を受けた『剣』ではなく、横で会話を聞いていた『歌』が突然逆上した。
「『剣』はあんたのためを思って言ってるのよ!? 二十番目の敵を回避できるなら、それに越したことはないじゃない! 『剣』だって怪我してるし、戦力的に危ないんだから、多少遠回りしてでも――」
「じゃあ、あなたたちはそっちの道を勝手に行けばいいでしょ。私は一人でも進むわよ」
彼女は、ふらりふらりと覚束ない足取りで――それでも、停滞の魔王に入れ替わるのは必死で自制しながら、歩き出した。
誰も何も言わない。
険悪なムードの中、僕は迷った。
敵。それは、すでに戦うためだけの存在であり、僕らにとって直接の脅威かと言うとそんなことは全くない。
確執と虚無と外傷を提供する。これまでは、少なくともそれだけだった。
『命』は、体調が悪い。
『剣』は、利き腕を失っている。
戦力は、心許ないと言わざるを得ない。
――この状況で、敵と戦う必然性があるか?
答えは否だ。しかし――
「行くぞ」
『剣』は、何事もなかったかのように、『命』を追い始めた。
「ちょ、ちょっと、あれだけ言われたのになんで普通に着いて行こうとしてるのよ!」
『歌』が驚いたように言った。僕も驚いていた。
「別に俺は、あいつの意志を確かめただけだからな。二十番目の敵を回避して進むことにあいつが賛成したらいいなとは思ってたけど、正面からぶつかりたいとあいつが言うなら、それもそれでいい。俺はあいつに着いて行くって決めてたからな」
「…………」
「ほら、置いていかれるぞ」
促され、『歌』は渋々歩き出した。
僕は、一番後ろをゆっくり歩きながら、何故か冷静だった。
――この妄信と盲進は、果たして是認されてしかるべき内容だったろうか?
疑問。
僕達のこの動き。本当に進んでいるのか?
進んでいるとしても何に向かっているのか?
そしてこの道程に、不備はないのか?
わからなかった。全てが。
しかし、これだけは言える。
『命』が、停滞の魔王に意地でも変わろうとしなかったのは、『剣』と『歌』を停滞させないようにするため。つまり、彼女は二人の意志で決めさせようとしたのだ。自分に着いて来るか、それとも別れるか、を。
あの発言は、本気だった。
彼女は、本当に一人でも二十番目の敵に向かおうとしていたのだ。
そこまでして、彼女を駆り立てるのは何だというのか?
『中』への忌避? 『中』でない場所への執着?
…………。
ひたすらに、僕達は動き続けた。
「今」
「昔」
その二十番目の敵は二人いて、それぞれ何だか、ばらばらなことを言った。
そして、それぞれが
「何か用があるのかな?」
「何か用があったのかな?」
と、内容的に大差のない質問を同時に投げかけてきた。
「終われ」
一言、これは『剣』が言った。もっとも、彼自身の手でその二人の二十番目の敵を終わらせることは、怪我のためにできない。
「なんてことを言うんだ!」
「なんてことを言ったんだ!」
二人は激怒した。
「どうして君はそんな悪辣な言葉を他人に投げかけることができるんだ?」
「どうして君はそんな悪辣な言葉を他人に投げかけることができたんだ?」
「黙れ。わざわざ二人して同じことを言うな」
「同じことではない!」
「同じことではなかった!」
「さりげなく片方不自然なんだよ!!」
さりげなくもなく、あからさまに不自然な気はした。
『剣』は怒りのままに飛び出しそうになり、『歌』がそれを必死に止めていた。
「よほど僕達を終わらせたいみたいだけど、何か理由があるのかな?」
「よほど僕達を終わらせたいみたいだったけど、何か理由があったのかな?」
これには、『命』が答えた。彼女は、皮肉の魔王をすでに召喚していた。
「『中』ではない場所に行く。そのためにはお前たちを終わらせる必要がある」
「何故だ?」
「何故だった?」
「? お前たちは二十番目の敵でしょう。それ以上の理由がある?」
「二十番目? 何を言っている?」
「二十番目? 何を言っていた?」
『命』は少し狼狽した。
「敵は二十五人いて、最後の敵が示す場所が『中』ではない場所なんでしょう?」
「誰がそんなことを言っている?」
「誰がそんなことを言っていた?」
「え……」
『命』は『剣』を見た。そして『歌』を見た。さらに僕を見た。
「俺じゃないぞ」
「私でもないわ」
無論僕でもない。
「じゃあ私は誰から聞いたの?」
あの物知りの停滞の魔王かもしれないと思ったが、奴はその場を停滞させることしか言わないはずだ。
「これまでの十九人は、自らを敵と称しているのか?」
「これまでの十九人は、自らを敵と称していたのか?」
「……いえ」
「なら、話は早い。彼らは敵ではない。同じく、僕も」
「なら、話は早かった。彼らは敵ではなかった。同じく、僕も」
『命』の顔に衝撃が走った。同様の表情は『剣』と『歌』からも見てとれたが。
僕は別に、驚かなかった。
「それでも、僕達を終わらせようとするのかい?」
「それでも、僕達を終わらせようとしたのかい?」
二人の二十番目の敵……いや、『今』と『昔』は、穏やかの表情でそう尋ねた。武器らしい武器も持たず、彼らは本当に、ただ生き続けて行きたいだけなのだ。
僕は、『命』の背中を見た。微かに震えているのは、泣いているからかそれとも――
「ええ」
と、これは別段何も変わったところのない『命』の声だった。
『今』と『昔』の顔が驚愕に彩られるその直前に、彼らの首から上は、皮肉の魔王の腹の中へと消えた。血は、相変わらず出ない。首のない静物が二つ残った。
「全部持って行って」
『命』の命令通り、皮肉の魔王は静物ごと消えてしまった。
「『心』」
つぶやくように僕を呼んだこの彼女の声はなぜか、可哀相なくらい震えていた。
「私、間違えてないよね?」
僕は 首を振った。
いや、間違えてる。
「そう…………」
彼女は、静かに歩き始めた。もしかしたら、今度こそ本当に泣いているのかもしれないと思った。
『剣』と『歌』が顔を見合わせる。僕には何も言わず、彼らも『命』に続いた。
僕は、追わなかった。しばらくしてから、踵を返した。
そのまま、振り返らなかった。
「やっと追いついたぜ」
後ろからそんな声が聞こえてきた。後ろを向くと、そこには『剣』がいた。
どうして追って来たのさ?
「『命』が、追えって言ったからさ。しかしお前も、よくこんな所まで戻る気になったなあ」
僕がいるのは、七番目の敵……『闇』が終わった場所だ。
本当は、一番目の敵の所まで戻るつもりだ。
「……祈るためか?」
『剣』が訊いた。
僕は頷いた。
「でも、祈ったって、終わった奴が戻ってくるわけじゃないんだろ?」
そうだ。けれども僕は、そうしなければ気がすまない。もう、終わった相手に謝ることはできないし、せめて祈ることで、相手を思う心がまだこの『中』に存在することを示したいんだ……。
「わからないでもないがなあ……」
『剣』は、そこで少し困ったような顔をした。
「『命』は」
言いよどんだ。言ってもいいのかどうか、迷っているようにも感じられた。
「薄々勘付いていたみたいだ。敵が敵ではないかもしれないことに」
…………。
「だから、お前には絶対戦わせないようにしていたのさ。もし、こういう事態になっても、お前の後悔と自責の念が浅くてすむようにな」
そう、だったんだ。
「ああ。あいつは、お前にどうしても『中』ではない場所に行ってもらいたいんだよ」
…………。
「一緒に、行こうぜ。『命』と『歌』は先に進んでるんだ」
また、敵ではない存在を終わらせながら進むのかな?
「……たぶんな。でも、せっかくここまで来たんだぜ。これまで終わらせた奴の分まで、俺達は進み続けるべきじゃねえのか?」
僕は、すごく迷った。
本当に。
すごく。
「おそかったじゃない」
『歌』が、『剣』に文句を言っている。
「仕方ないだろうが。思いの外『心』が遠くまで行ってたんだから」
これは、嘘だ。
彼が僕に追いついてから、すぐに引き返していれば、三日は早く彼女達と合流できただろう。
彼は、僕と一緒に、一番目の敵が終わった場所まで戻ってくれたのだ。
祈るためだけに。
「まあ、『心』を連れて戻ってきたんだから、あんたにしては上出来よね」
「そりゃあ、どうも」
「何よ、それ。褒めてあげたんだからもう少し喜びなさいよ」
「どこが褒めてたんだよ……」
ため息をつく『剣』だが、まんざら喜んでいないわけでもなさそうだった。
「『心』」
『命』の声だった。後ろから、静かな語り口で僕の耳に飛び込んできたその単語を受けて、しかし僕は一瞬だけ振り返るのを躊躇した。
『歌』も『剣』も、僕の後ろ、おそらくは『命』がいる方向を見ていた。
時の流れが遅くなったような錯覚を覚えた。
ひどく緩慢な動きで、どうにかこうにか首のほうから順に体ごと振り向こうとしている自分がもどかしく、しかしその最後のモラトリアムの間に、僕は自分が彼女と対峙する瞬間に、何を考え、何を思い、どんな表情をし、どんなことを口に出せばいいのかを。
決めなくてはならなかった。
それは、不思議と僕の心に痛みをもたらさなかった。
罪悪感も何も、自分が本来持っているべき感慨まで失念していたのだ。
少し見上げるような位置に、彼女の顔が見えてくる。
別にいつものようなポーカーフェイスで。何の感慨もないかのようにこちらを見据えている。体調は、どうやら悪くはないようだ。
ふと、
気を抜いた瞬間に時間は元の流れを取り戻し、僕と彼女は向かい合わせに立っていた。
まだ、何を言うべきか、決めていない。
もしかしたら、実は心の奥で僕は、『中』ではない場所を目指すことを止めるように言うつもりだったのかもしれない。しかし、言えなければそれは無いことと同じ。
彼女の両手が突然伸びてきて、一瞬僕は首を締められるのかと思った。
反射的に身をすくめる僕を、彼女は――抱き寄せた。
首と、背中に腕が回される。
僕が何も言えないうちに、僕の肩に乗った顔を耳元に寄せて、彼女はこう囁いた。それは、別にいつもの彼女の口調であり、そんなに珍しいフレーズでもなかったが、
「――おかえりなさい」
僕は、何故か胸が詰まる思いがした。
やるせない気持ちで一杯になった。
――僕は、これからどうすればいい?
揺らぎは、頭の中にそういう明確な疑問を提示してきたが。
僕は、未来を考えるほど、できた人間ではないので。少なくともこの時はそうだったので。
目をつぶった。
そして、少し笑った。理由もなく。声も出さず。
ただ、呟くのみ。
……ただいま。
『命』が泣いているのが、雰囲気でわかった。
「金」
その二十四番目の敵は非常にわかりやすいことを言った。
「で?」
と、これは『歌』が、今度は非常にわかりにくい形式で質問した。
「『で?』とは?」
その二十四番目の敵は非常にもっともなことを訊いた。
「結局、最終的には何がしたいの? ってこと」
『歌』が、今度は結構わかりやすい形式の文章にした。
その二十四番目の敵は、返答に窮した。そして、
「いや、別にその先は特にこれといって何も考えていない」
三日考える時間をあげたらこのように答えてきた。
「この三日間で考えろよ」
という『剣』の意見はかなりのところ正論だと思う。
これに対して、その二十四番目の敵はかなり的を射たことを言ってきた。
「しかし、君たちも同じことではないかね? 先程から少々話を拝聴させてもらったが、『中』ではない場所に辿り着くことを目的にしてはいるが、その先を考えていないようではないか」
「そうね」
即答。『命』の横にはすでに三日前から皮肉の魔王が待機している。
「でも、『中』にいる限り、『中』ではない場所のことをいくら考えても、想像だにできないでしょう?」
はっとさせられた。
これは、その二十四番目の敵ではなく、もしかしたら僕に向けられていたのかもしれなかった。
疑念。
――この盲進は何が理由なのか?
一つの答え。
盲進ではなかったのだ。
彼女は、希望を見出すために前に進もうとし、その結果どうしても避けられない未知領域に衝突した。
そしてそれを避けなかった。
それだけのことだったのだ。
もはや彼女には、自分の行動が盲進と見られることすらもおそらくは予想できていて、それでもなお前に進もうとしたのだ。
確かに、本当に前に進んでいるのかはわからないし、仮に目的を達成した後も、路頭に迷う羽目になるかもしれない。
そのリスクを冒してまで彼女が動こうとしたその理由はわからない。
だが。
少なくとも、これは、浅はかな行為というわけではなさそうだ。
「そんなことを言ったら私も同じだよ。こんな暮らしの中で、金がある時のことなんて、想像だに出来ないわけだから」
「違うわ」
『命』の横では、皮肉の魔王が牙をむいている。
「未来という言葉の意味が分かるかしら。それは、未だ来ていないということを表しているのであって、暗にこれから来る可能性が示唆されているの。そして、これから来るかもしれないことは、ある程度予想できるわ。当然よね」
少し、彼女は必死になっている気がした。
「でも『中』でない場所に行くことは、もともと私たちの未来としてとらえられてないの。そんなことをした者は過去にも現在にもいないわけだし。わかるわけがないのよ」
その二十四番目の敵は、とても意外そうな顔をして、不意にため息をついた。
「納得はしない。私が生きてきたことそのものが、決められた道の一つを歩いているような風に言われるのは心外だからな。ただ……」
笑った。
「私は、君たちに期待してみることにするよ。過去でも現在でも、未来でもない。そんな生き方を目指している君たちにね」
その二十四番目の敵は、『歌』の方を向いた。静かな目をしていた。
「君は、歌うことができるのだろう? せめて私を、終わらせてからオルゴールにしてくれ」
「……わかったわ」
その二十四番目の敵は、瞳を閉じた。
「一つだけ、教えて」
『歌』が旋律に乗せて詞をつむごうとした刹那、『命』が邪魔をした。
「何かね?」
「今、私はあなたに何を言うべきかしら?」
その二十四番目の敵は、瞳を閉じたまま、いかにもおもしろいことを思いついたように笑った。
「早く終わってしまいなさい、目障りな二十四番目の敵、と言うべきだろうね」
「……ありがとう」
そうして歌が始まった。
『剣』は『歌』を見守るように。
『命』はいつもの表情で皮肉の魔王の横に並びながら。
僕はその二十四番目の敵のために祈りをささげつつ。
旋律と詞に、耳を傾けた。
「早く終わってしまいなさい、目障りな二十四番目の敵」
その二十四番目の敵『金』は、こうして美しい音色を持ったオルゴールになった。
僕は、そのオルゴールの音を聴いてみたいと、何故かあまり思わない。
「明日、二十五番目の敵の所に辿り着く」
突然、『命』が言った。
「そうなのか!? なら、今俺達はかなり『中』ではない場所の近くにいるってことだな!」
「そうでもないでしょ。そんな物理的なアプローチしてるわけじゃないんだから。あんた、もう少しこの動きの意味を把握しなさいよ」
『歌』に諭される『剣』を横目に、『命』は僕の目を見た。どことなく、うれしそうにも見えた。
「『心』も、こんなわからないことだらけの動きでよくここまで着いて来てくれた。本当にありがとう」
まさか、そんな風に礼を言われることになるとは思っていなかったので、僕は呆気にとられた。
「明日、私たちは、『中』でない場所の正体を知るでしょう。そして、そこへ行くことができるかどうかは、私たち次第だと思う」
彼女は、すっと自然な動きで内ポケットから小箱を召喚した。
「もしも、もしもね。私たちがどうしようもない事態になって、あなたがそれに対処せざるを得なくなった時、戦うより逃げるより何をするよりも先に、その小箱を開いて」
そっと、素敵な笑みと共に、それを手渡された。思いの外重量感のある小箱を、複雑な思いで見つめた後。
僕はそれを、大切に懐にしまいこんだ。
できればそれを開けることがないようにと、願いながら。
そして。
その二十五番目の敵たる女は僕らを見るなり、いつも僕らが機先を制して尋ねていた質問をぶつけてきた。
「あなたは、何のために生き続けている?」
はっと我に帰った時、その二十五番目の敵『空』はまだ笑い続けていた。
「空が、『中』ではない場所だということなのかしら?」
忌々しげに、『命』は『空』を睨んだ。
それを見ても、その二十五番目の敵は笑うのを止めなかった。
「答えて」
『歌』が、少し憤りながらそう言った。残った左目が、ひどく悲しそうに歪んでいた。
「何故そう思うのか、私のほうが訊きたいくらいだわ」
『空』が笑うのを止めてそう呟くと、何故か場が凍りついたような気がした。
「お前が、二十五番目の敵だからだよ」
『剣』は、普段と変わらないように見えた。
「へえ? 何それ。何かのおまじない?」
『空』は、再びフフフと軽やかに笑みをこぼした。
「……あなたは、それで結局何がしたいの?」
『歌』は、単刀直入だった。
「空のために生きて、それで、どうなれば満足なの?」
答えはしばらく無く、僕はゆっくりと空を見上げてみた。
そこが、『中』でない場所だとしても、どうすればいいというのだろう?
空は、常に僕達の上にあり、僕達は、空に出ても地上に落ちる。
『中』からは、決して出られない。そういうことだろうか?
「いいことを教えてあげるわ」
『空』が、自虐的にとしか思えない荒みを伴った笑みを口の端に浮かべ、『歌』を見た。
「三年前にも、三人の若者がここに来たわ。彼らは、あなたたちと同じように、何かのおまじないに取り付かれていた。四十八番目の英雄に話を聞いて、『中』を素晴らしい世界に変えるヒントを得るのが目的だった」
そこまで一息で言って、そこから後は説き伏せるようなゆっくりな口調に変わった。
「三人のうち一人は拳のために生きる強靭な体を持つ男で、正義のために力をふるうことを喜びとしていたわ」
なんとなく、僕は『剣』を見た。
「一人は己のために生きると言い張るくせに他人のこともしっかり考える女で、そのおまじないに従った動きの計画を真っ先に言い出した人物だった」
なんとなく、僕は『命』を見た。
「最後の一人は唄のために生きていて、ただ純粋に唄えればそれでよく、二人の動きに着いて行ったのも、実は、拳のために生きる男のことが好きだったからというくらいの理由しかなかった」
なんとなく、僕は『歌』を見た。
「彼らはここで四十八番目の英雄『空』の話を聞いて、素晴らしい世界をつくるために空に向かい、失敗し、落ちてしまったわ」
フフフ、と例の笑い声があって、
「あなたたちも、無為に死ぬことになるだけよ。今なら何もせずに帰してあげるわ。早く去りなさい」
と続いた。
『命』はゆっくりと、コートの内ポケットから久々に煙草を召喚し、一服し始めた。
煙と共に、言葉を吐き出す。
「お前は、続いているが、それは何故だ?」
『空』の顔に動揺が走った。
「ど、どういうことよ」
「私には、お前が空のために生き続けているとは思えない。さっきの話の中に出てきた四十八番目の英雄『空』とやらはお前じゃない。たぶんお前は、唄のために生き続けていたっていう――」
「言うな!」
激昂した。僕には何故か、その豹変振りが、悲しそうに見えた。
「私は、空のために生きるんだ! 二人のために祈り続けることを誓ったあの日から、四十八番目の英雄を憎しみに任せて終わらせたあの日から、自分が壊れてしまったことを認識したあの日から、私は空のために生きると決めたんだ!」
泣きながら叫ぶその二十五番目の敵を傍目に、『命』は煙をくゆらせながらゆっくり背を向けた。
「『歌』、後はまかせたわ」
そのまま、来た道を引き返し始める。
「ここに、二十五番目の敵は、いなかった」
吐き捨てるように言っているのに、暖かく感じるその不思議な口調を、僕は二度と忘れないだろう。
『剣』と僕は、とりあえず結末を見守ろうと思った。
「『剣』」
『歌』が静かに、正義感の強い隻腕の男を示す言葉を吐いた。
静かな声ながら、しかしそれはよく通った。
「何だ?」
『剣』はわざわざ、『歌』のすぐ横まで歩いて行った。
「――――――」
次の『歌』のセリフは、僕には聞こえなかった。
『剣』の表情は、全く変わらなかったが、どこか、呆気にとられたようにも見えた。
「なんで―――なんだ?」
『剣』のセリフも、一部聞き取れない。
「別に。言葉の綾よ」
『歌』は大したことではないと笑いながら、いまやすでに座り込んで動かなくなっているその二十五番目の敵に近付いた。
「『うた』いましょうよ」
それが、『歌』の、『うた』でない最後の言葉だった。
『うた』が終わると、そこには二つのオルゴールが残った。
『剣』は、泣いていた。
泣きながら片方を渾身の力で持ち上げると、一番見晴らしのよい丘の上まで運んだ。ネジを巻いて、メロディーを流すと、それはあの、『剣』がよく歌っていた曲だった。
風に乗り、旋律は悲しく流れ落ちる。
「『歌』は、こうなって終わりたいって、私に言っていたわ。あなたと『剣』がいなかった間に」
『命』が、いつのまにか僕の隣にいた。丘の上にいる『剣』と、同じくらいの大きさのオルゴールを遠くに眺め、彼女はまた煙草を召喚した。
「『空』……いや、『唄』は、これでよかったのかしらね」
視線を転じ、もう一つのオルゴールを見た。
それは何故か、綺麗な空色をしていた。
「私たちは、これからどこに行けばいいの?」
『命』の呟きは、旋律の中に溶けた。
答えはなく、僕は何となく、空色のオルゴールのネジを巻いてみよう、と思った。
悲しい音がして、哀しい音がした。旋律はただ、その連続だった……。
その日の夜、『剣』は、いなくなった。
何も言わず、姿を消していたのだ。『命』は言った。
「こうなるような気はしていたわ」
あまり、悲しそうには見えなかった。
僕と『命』は、ゆっくりと、今まで来た道を戻り始めている。
時折、空を見上げてはため息をつく『命』の姿が印象的だった。
「やっぱり、私は間違えてたの?」
煙草を召喚する頻度も高くなってきていた。
足取りを見ても、元気がない。
「現状打破なんて、考えなければよかった」
そして、いつになく弱気だ。
僕は、そんな彼女の横顔を見ながら、後悔してはいけないよ、というようなことをぽつりと言った。ごく自然に口から飛び出したといった感じだった。自分でも、どうしてそんなことを言ったのかわからない。
「なぜ?」
彼女は問うてきた。当然だ。
僕は、さも最初から考えてありましたという風を装った。
終わった人たちに、申し訳が立たないからさ。僕達は、前に進もうとしていなければならないんだ。間違っていたかどうかなんて、もう気にしている場合じゃない。ここまできたら、どうにかして『中』ではない場所に行こう。
と。自分のこれまでの発言も、態度も、その全てを棚にあげて僕は言い放った。
胸のつかえは、言葉と一緒に流れて行った気がした。
でも、過去は、消えない。終わった者は、戻ってこない。
『命』は、目を閉じて笑った。弱々しい笑顔にも見えたし、苦笑しているようにも見えた。やっぱり、笑顔が綺麗だとは思った。
「変わったな、『心』は」
ため息と一緒に吐き出されたその言葉の中に喜びと悲しみが混在している刹那が、確かにあった。表面的には、感心しているといった様子だったと思う。
変わった?
僕は、どうして『中』ではない場所を目指すようになった?
償い? そんなものを理由にすること自体、終わった者に申し訳が立たないような気がしないか? 真っ当な、何か別の、やるべきことがあるんじゃないか?
第一、もし仮に辿り着いたとして、僕はそこで何を成すつもりなんだ?
現実への忌避も、未知への執着も、何も持たずに動きを続け、一体どうするつもりなんだ?
冷静になれ。
僕は…………もしかして、間違えている?
それを認めるわけにはいかなかった。
僕は、空を見た。何かを模索しようとした。対象もわからなくては模索の仕様もない。
空を見るのを止めた。同時に、模索することも止めようとしたが、そもそも始まっていなかったことをやめることはできなかった。
そんな僕の横で、彼女はいきなり足を止め、
「少し休む」
と、外見上なんら変化はなかったが、停滞の魔王と入れ替わった。
「おお『心』、ちょっと久しぶりじゃん。元気だったか?」
戸惑った。いきなりそんなことを言われても、そのキャラのギャップに困惑することしかできない。
停滞の魔王は、ふと辺りを見回した。
「あれ? なんか人数減ってない?」
減ったさ。
「どうしたんだ? 残りの二人は?」
…………。
僕は、自分でもわかるほど渋い表情になったが、それでも問いに答えた。何も進まない状況にある今、いくら停滞の魔王と会話したところで、場が停滞することはない。突破口が見つかる可能性すらある。
……『歌』は、オルゴールになった。
それを聞いて、停滞の魔王は目を丸くし、一瞬絶句した。
「……え?」
睨むようにこちらを見る停滞の魔王から、僕は我知らず目を逸らした。
「どうして?」
わかりやすいように、僕はわざわざ、二十五番目の敵とのやりとりを全て話した。
歩きながら、それでも身振り手振りまで交える。
僕は、一体何がしたいんだろう?
「……じゃあ、あれか。『剣』は、その後を追って終わったってわけか?」
停滞の魔王は怖い顔をしていた。
それについて、僕はただ、わからないとだけ答える。
停滞の魔王は、妙な印を切った。それはどうやら、僕らのため息と同じような意味を持つ仕草らしかった。
「なんで『剣』を捜さないんだ? もしかしたら、まだ続いてて、どこかその辺にいるかもしれないじゃんよ?」
停滞の魔王からそんな提案が来ることは意外だったが、僕は首を振った。
もしかしたら、最初から首を振らせるための質問だったのかもしれない。
結局この提案でも、状況は停滞したままなのだから。
視線を下に降ろし、地面を眺めて。
『剣』に、一緒に来いと言う資格は、僕達にはない。
僕は、停滞の魔王にそう告げた。
次の瞬間。
停滞の魔王は、コートをはためかせて跳躍し、僕の胴に何らかの攻撃を仕掛けた。
何をされたかはわからなかった。
ただ、それは、痛みというよりは軽い衝撃といった程度のものが走り抜けただけで、さすがは非戦闘用の魔王だな、と思った。
停滞の魔王は、『命』の顔と声のまま、
「そういうことじゃないんじゃないか? 捜し出して、話し合おうとぐらいするだろ、普通は? 資格がどうとかじゃなくて、仲間なんだったら、助けようとする意志くらい――」
仲間?
停滞の魔王の話はまだ続いていたが、僕の思考の中からは完全にシャットアウトされていた。
仲間?
もう一度、胸の中で反芻する。
何かが妙だ。
「これまでの十九人は、自らを敵と称しているのか?」
「これまでの十九人は、自らを敵と称していたのか?」
あの二十番目の敵――いや、『今』と『昔』の言葉が蘇る。
そうだ、そこだ。
敵は、自らを敵と称していたわけではない。
同じく僕達も、なのだ。
自ら、仲間だと称して動いた覚えはない。
「私は別に、このメンバーでなければ動けないとか、そういうことを言うつもりはないわ。今更になって、そんなことを言っているなら、戻ってくれても構わないのよ」
『命』は、このメンバーで動くことに必要性があるわけではないと言った。
ではどうして、仲間と称することもなく、必要性があるわけでもないこのメンバーで動き続けていたというのか?
僕達は、仲間だったのか?
自ら称することなしに、僕達が仲間だったとすれば、例の二十五番目までの敵が、自ら称することなしに、本当の敵だった可能性もある。
誰の、敵だったのかはわからないが。
「――て、わけだ。おい、聞いてんのか?」
停滞の魔王を見る。
停滞の魔王を通して『命』を見る。
仲間?
疑問符は消えない。
ただ、魔王は原則中立であることを思い出し、少し安心する。
そして、物知りであるこいつに聞いておこうと思った。
だから言った。
君は今、誰を仲間だと思っているの?
そして、仲間だと思う根拠は何?
きょとんとした顔の停滞の魔王は、『命』の顔であることを抜きにしても、珍しかった。
「……なんか、お前が『心』である理由が分かった気がするよ」
と笑い、続いて今度は小さく呪言を吐いた。これは、どうやら深く考え事をする時の、僕達で言えば顎に手を当てるくらいの仕草のようだ。
さすがは停滞の魔王と言うべきか、僕達はいつのまにか立ち止まっていた。
少し経って、停滞の魔王は口を開いた。
これは本音じゃないと思って聞け。普通、こんなことを正直に話す奴はいないからな。
それが語り出しのセリフだった。
「この『中』で仲間だと思ってるのは、お前と『剣』と『歌』だな。『命』は、仲間っつうよりは、上司みたいなもんだし、皮肉の魔王とか混迷の魔王は、同業者っつうかライバルだし」
混迷の魔王?
そんな魔王は見たことがなかったが、僕は黙っていた。
僕の知らない魔王を、『命』が召喚できたとしても不思議ではない。
「仲間だと思うのに、根拠も何もねえと思うけどな。ただ、雰囲気? みたいなもんで、分かるじゃん、何となく。一緒にいて居心地が良いとか悪いとか、まあその程度だけどさ」
一緒にいて、居心地が良いかどうか?
僕達は、一緒にいて居心地の悪い者を仲間とは思わないのだろうか?
…………。
そうかもしれない。
ただ、あの、二十五番目までの敵と一緒にいて、居心地が悪かった記憶もない。
「仲間ってのは、信頼とかいう絆で結ばれてるもんだって、何かで聞いたことあるけど、それに関しては、俺にはよく分からんね。俺達、魔王にとって、信頼なんて常備薬みたいな存在だからな。必要な奴には必要だが、いらない奴にはまるで用がない。仲間がそんなもんを絆にしてるっつうのは、何となく俺の感覚とは違うんだよな」
信頼。
信じること。
信じ切ること。
僕は……誰を信頼していた?
同行者を、盲進だのなんだのと心の中で罵倒し、自分の身の置き場所はここではないのではないかと本気で考えたこの僕は。
一体誰を信頼していたんだ?
信頼の絆は、僕にはない。おそらくは。
僕はそれを口には出さなかった。しかし、停滞の魔王は、僕の表情を見て心中を察したらしい。
「あとは……情でつながれてるっていう考え方もあったな、確か」
情?
「ああ。実のところ、これは考えっつうか、当たり前のことを言ってるだけなんだけどな。ここでの情ってのは、主に情愛のことさ。ほら、友情とか愛情とかって言うじゃん? ああいうのが、結局、仲間を仲間たらしめてるってこと。なんかやっぱ、意見としてはかなり安っぽいけどね」
情。
愛?
好きと嫌い。
……確かに、それは分かりやすいような気もした。
好きだから、一緒にいる。仲間だといえる。
僕の仲間は、それなら一体誰なんだろう?
「でも、仲間なんていう概念にそんなに縛られることはないと思うぜ。ようするに気持ちの問題なわけだから」
停滞の魔王はそう締めくくった。
僕の仲間は、一体誰なんだろう?
誰までを、仲間と呼ぶんだろう?
疑問は尽きない。
僕達はもう一度歩き始めた。
そして、それは本当に唐突だった。
僕達はそのまま歩き続けていて、別に大したことのない場所にいたし、何か特別な話をしていたかというとそうでもなく、時刻に関しても変わったものでなかった。
つまるところ、状況の変化に必然性を求めても無駄だということなのだろう。
停滞の魔王でさえも状況を停滞させられなかったという事実も、そんなに大したことではないのかもしれなかった。
そうだ。
「進むことと、前に行くことが違うのはわかる?」
『歌』の言葉がリフレインする。
僕達が前に行くことと、事態が進行することも、全く別の問題なのかもしれない。
とにかく、それは起こったのだから。
物陰からその人影が現れた時、僕は何故か歓喜よりも先に違和と恐怖を感じた。
「やっと追いついたぜ」
その人物は、いつか聞いたことのあるようなことを言いながら、僕達の道の前に立ちはだかった。
口調は、前と同じだった。
「『剣』!」
停滞の魔王はその人物を見て、顔をほころばせた。
僕は全く喜べなかった。
「追ってきたのか?」
「ああ。一人になって考え事してたら置いてかれちまってね。あせったぜ」
その人物は、『命』が停滞の魔王であることにも気付いているようだった。
何故なら――
「で、どうして俺たちに向かって剣を抜こうとしてるんだい?」
停滞の魔王は、静かに、笑みを絶やさぬまま後退した。
目だけは、その人物を見ていた。
僕は、その場を動かず、その人物と対峙する形になった。
「本当の、二十五番目の敵を倒すためさ」
その人物は、隻腕に剣を携え、僕の方を見た。
「二十五番目の敵『心』をな」
どういうことだ?
僕は、驚愕を隠していた。あくまで平静を装った。
それでも涙は零れた。
「そういうことだ。お前が二十五番目かどうか、そして敵かどうかは実際のところどうでもいい。それは俺の作り話だからな。ただ、『心』、お前自身が実はすでに『中』でない場所にいるのは疑いようもない。『中』でない場所との接点はお前にあったんだ」
わかっていた。
というか、わかっていたと思うことによって、わかったことになった。
早い話が、そういうことだったのだ。
僕は、皆と一緒に動いていたようでいて、実は、そう思っていただけなのだ。
僕は、すでに『中』でない場所に行っていたのだ。
そして、僕の世界から、思考するという形式でこの『中』に干渉した。
この世界の過去も未来も現在も、僕には関係ない。
そういうことだったようだ。
「俺は、それに気付き、お前を終わらせることを思い立った。しかし、傍には『命』がいる。あいつはお前を守ろうとするだろう。だから俺は、わざわざお前らの前からいなくなった。俺を捜すために、お前らは別行動をとるだろうと思ったからだ」
僕は、相手の持つ剣の切っ先を見た。
僕の力を持ってすれば、おそらくこの剣を兎に変えることだって出来るだろう。
しかし……僕はどうすればいい?
「だが、お前らは俺を捜そうともしなかった。あせったし、何より悲しかったよ。普通、仲間だったら捜そうとくらいするだろうが」
仲間。
またその言葉だ。
「本当の仲間なら、剣を向けたりはしないんじゃないのか?」
停滞の魔王はおずおずと言ってきたが、
「今、そんなことはもう関係ない。『心』が、『中』でない場所に繋がっているのなら、俺は迷わず、斬る。撤回もしないし、妥協もしないぜ」
『剣』は、いつものような底意地の悪そうな笑顔でそう返してきた。
「もう一度言おう。お前はもう、俺にとっては二十五番目の敵だ」
『剣』は有無を言わさず踏み込んできた。
僕は箱を出した。『命』から渡された小箱だ。
小箱を開く前に剣に斬られる可能性もあったのだろうが、それはないと思うことでそれはなくなった。
だから安全に、僕は小箱を開けた。
「もしも、もしもね。私たちがどうしようもない事態になって、あなたがそれに対処せざるを得なくなった時、戦うより逃げるより何をするよりも先に、その小箱を開いて」
戦えば、僕は絶対に勝てるのだろう。
逃げれば、僕は絶対に逃げ切れるのだろう。
それでも小箱を開いた僕は、もしかして間違えている?
答えはなかった――
「ここがどこだかわからないだろう? 私が誰だかわからないだろう? 何が起こったのかまるでわからないだろう? わからないことに困惑している今この瞬間に、実は君達にはそれぞれ重大な変化が訪れた。しかし、それもわかるまい。いや、わかることなど絶対にできないのだ。君達は、わからなくなっているということだけを理解し、その後味の悪い感触だけを覚えながら我に帰り、そして――」
混迷する。
そこは、別にどうと言うことのない場所だった。
そこにいた三人は、何がなんだかわからなくなったことだけを理解するにつけて、自分達に一体何が起きたのかを判断する材料がまるでないことを知る。
「何かおかしくないか?」
真っ先にそう呟いたのは男だ。彼は、自分の体を確かめ、きょろきょろと周囲を見回してみるが、妙な違和感を覚えるだけだった。利き手で銃をもてあそびながら、今度は、その場にいる残りの二人を観察してみる。
「おかしい? そうでしょうね。きっと、私たちは、かなりおかしくなったんでしょうね」
思わせぶりに、ポーカーフェイスで語るその女は、見た目はいつもの通りだが、いつの間にか停滞の魔王に体の主導権を渡していたらしい。口調が全く違っている。
「『心』、あなたはどう思う?」
問い掛けられて、その三人目は曖昧な笑みを浮かべた。
「どう思うって言われても……そんなの僕にもわかるわけないだろ?」
停滞の魔王はため息をついて、
「そうよね」
と、自嘲気味に笑った。
「よくわからないが、とりあえず進もうぜ。『中』での安全を維持するために、俺達は三十三人の盗賊を捕まえなければならないんだからな」
男……『銃』は、いつものように底意地の悪そうな笑みを浮かべ、そして歩き出した。
停滞の魔王もそれに続く。
『心』は、しばらくの間立ち止まっていた。
なんだかひどく、自分が『心』と呼ばれることが分不相応な気がした。
(もしかしたら、自分は心のために生きているわけではないのかもしれない。)
『心』は、そう考え、そして二人を呼び止めた。
「ねえ。僕はこれから心以外の物のために生きていこうと思うんだ」
「何だ? おかしくなって、心境も変化したのか?」
『銃』は笑った。
「……そうかもしれない。でも、なんだか、前から思ってたような気もするんだ」
「それで? 何のために生きるの?」
停滞の魔王の問いかけに、『心』はしばらく沈黙を挟んだ。
そして――言った。
「絆」
「そうだ。とても面白いことを聞かせてあげよう。忘れないでおきたまえよ。とは言っても、ここでの出来事は我に帰れば忘れているのだがね。……実は、君達は『中』から抜け出すことなど出来ないし、それ以前に、目的を持って動いても、それを達成することすら出来ないようになっているんだ。魔王が各地で暗躍しているからね。『中』にいる者は、皆その目的を達成できないように、魔王によって方向付けられている。停滞の魔王然り、私然りだ。君達は、皮肉の魔王が、何故皮肉の魔王というのか考えたことはあるまい。あれは、一人の人間の目的を達成するのに加担することにより、より多くの人間の目的達成を潰すからなんだよ。だから、皮肉である、というわけだ。君達は実のところ、わからないことをわからないままでいることに慣れ過ぎている。冷静に考えてみてくれ。そんな『中』で、むやみやたらと動き回ったら、事態はさらに――」
混迷する。
「『絆』か。なかなかいいんじゃねえの?」
「そうね……とても興味深いわ」
停滞の魔王は、少し楽しげに笑った。『絆』は一瞬、その顔に見惚れてしまう。
「私が『愛』に戻ったら彼女にも伝えてあげてね。きっとびっくりするわよ」
(そうかもしれない)
何故か、わけもなく『絆』は涙を流した。
停滞の魔王と『銃』は、なおも歩き出す。
「そうそう。君、『心』だっけ? 君が悪いんだよ、全部。どうせ忘れるから言うけどさ。どうして『中』から脱出できたのかはわからないけど、君を連れ戻すために魔王って動き出したんだから。いや、かなり前の話だよ、これは。『中』でない場所にずっといたのに何も気付かなかった君が、よりによって『中』でない場所を目指し始めてしまったら、さすがに、どんな流れになろうとも最終的には――」
事態は混迷を極めるだろう?
ふと、『絆』は幻聴を聞いた。
幻聴だとわかりながら、それでも聞こえた。
声質も、口調も、何もかもよくわからなかった。
それでも確かに聞こえてきたのだ。
「――――お帰りなさい」
『絆』は、自分がどこから帰ってきたのか、そんなことは知らない。
それでも、どうしてか、不意に絶望感と、そして深い喪失感に襲われるのを、彼は避けることが出来なかった。
ゆっくりと、笑おうとした。声も出せず、引き攣るように。
そして、結局は、ただ呟くのみ。
「ただいま」
虚無を知った。
彼らを待ち受けていたのは、果たして何だったと言えるのだろう?
私は、それを考えずには、いられない。
そして、これからひたすら自問し続ける。
一人の脱出者を、理由もなく連れ戻すためだけに動き続けていた我々は、
もしかして、間違えていたのか?
――答えはない。
それだけが救いかもしれなかった。
『忌避と執着の境界線およびそれと関わる過程と仮定』
――――報告終了
忌避と執着の境界線およびそれと関わる過程と仮定 今迫直弥 @hatohatoyama
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