第2話

 俺はあらゆる思いつきを片っ端から試していった。オカルトな超古代文明や各地の神話、伝説なんかも加えて地図を埋めていった。しかし、そのほとんどが既に調査済みの場所だった。

 やはり人間なんて考えることは皆同じなのだ。俺がこの前ひらめいたのは本当に偶然の、まだ触れられていない場所だったにすぎない。

 それでも何とかやらなければ。研究者としてのポジションは永久ではないのだ。しかしその焦りは俺を追い詰めるだけだった。

 変調は徐々に訪れる。次第に悪夢を見るようになった。幼い頃に怯えていたようなものたちが次々に俺を襲う。もうそんなものに振り回される歳でもないのに。そうして眠れなくなっていった。そんな頭でまともなことを思いつくわけがない。

「エド、しばらく休んできなさい」

 ボスからはとうとうそう言われてしまった。どこか呆れたような口振りだった。実際には違うのだろう、そうだったならばすぐに部下への高圧的な態度として聴取なりを受けるはずだから。被害妄想に駆られた俺にだけ、教授の声は俺を責めるように聴こえるのだ。

 部屋を出ていく俺に、リンダは何も言わなかった。

 

 休む、と言われても何をして良いのか分からない。眠ろうにも悪夢からは逃れられない。ただ俺は天井を見つめていた。こんなに惨めな気持ちは初めてだった。初めてのはずなのに、なぜか慣れ親しんだもののようにも思えた。

 いつの間にか眠りに落ち、悪夢に追われ、再び目覚め、恐怖に凍えた体はベッドに縛り付けられる。それの繰り返し。今日がいつなのか、何日休んでいるかも分からなくなった頃だった。

 手近にあった端末が何かを知らせる。このところ誰も連絡を寄越さなかった。俺には遊びに誘ってくれるような友達なんていないのだ。教授から、そろそろ出てきなさいという連絡が入ったのだろうと思った。そう思うと確かめるのが億劫だった。しかし端末は耳に心地よいはずの、軽やかなメロディを鳴らし続けていた。

 仕方なく顔を傾けてベッド脇の端末を見ると、玄関先に誰かが立っているのが見えた。今時人力の宅配なんて、特にこんな都会ではないはずだ。だからきっと必要に迫られた客人なのだろう。俺は重い体を引きずってベッドから降りた。ひんやりとしたドアノブをやけになって押す。

「ええと、エドワード・ミシェル・ローさんですか?」

 ご丁寧にフルネームを呼んだのは若い男だった。勢いよく開いたドアに驚くそぶりも見せなかった。もしかしたらリンダより余程性能の悪い人工知能なのかもしれないと思った。

「そうだけど、誰?」

 こんな男に礼儀など必要ない。そう思ったが、もしかしたら丁重にお帰り頂いた方が良かったのかもしれない、と後悔するのはもっと後になってからだった。

「中央局福祉部門からやってまいりました、ロンと申します」

 こちらのフルネームは知っているのに、それだけかよ、という間も無く、ロンは俺の部屋へと入ってきた。

 生憎客人にお茶を振る舞えるほど丁寧な生活なんてしていない。ストックしてある安酒ならその辺にあるはずだが、仕事中に飲むわけにもいかないだろう。

 ロンはよく見ると端正な顔立ちをしていた。誰がどう見ても綺麗だ、と答えそうなくらいの。政府機関の人間よりは役者の方が余程にあっていると思った。

「はあ、それで福祉の方が何の用で?」

 彼の微笑みは穏やかなのに、つい姿勢を正してしまうような静かな威圧感があった。

「あなたを助けにきたのです」

 もちろんそうでしょう、とでもいうように一層穏やかな笑みを広げ、芝居がかった仕草をして見せた。やっぱり役者になった方が良かったんじゃないのか。

「助けるって? 別に何も困ってはいません」

 気づけば敬語になっていた俺に対して意に介した様子もなく、彼は表情を変えぬまま淡々と話し続けた。

「バイタルサインが異常値を示していたので。つまりは脳の異常ですね。あなたの場合はストレスにより化学物質の生成や輸送に問題が起きている」

 どこかで聞き齧ったような単語が続く。これも何かの芝居なのだろうか。そうだったら早く言ってくれ、と思った。

「昔の言葉で言えばうつ状態ということです。今やそれほど重大な問題ではありませんが」

「ちょっと待って。そもそも俺のバイタルサインなんてどこで知ったんだ?」

 俺はリンダのように四六時中コンピュータが見張っている中で生きているわけではない。健康を気にして政府が無料で配っている測定装置を着けている人もいるが、俺はそんなものに興味はなかった。ただ研究をしていたかっただけだったのに。

 そう思った瞬間涙が溢れそうになって、ぐっと下唇を噛み締めた。

「それは機密事項でして。ともかく、あなたは治療と休養が必要な状態なのです。いえ、心配は要りません、既に医師の診察は終わっていますし、処方やそれ以外の指示も受けて参りましたので」

 診察が終わっている? どういうことだ。このところ病院どころか家から一歩も出ていないのに。

 それでもロンの笑みは一切の問いかけを拒絶するかのようで、俺は黙っているしかなかった。

「薬は毎週適切なものが選ばれ、送られてきます。おっと、捨てようなんて考えは良くありません。こちらで分かりますからね。そうして休んでいればばすっかり元通り、研究室にも復帰できます」

 研究室に戻れる、という言葉につい反応してしまった。後から考えれば実際にはどこの誰かもしれない男が渡してくる薬なんて危ないに決まっているのに、そんなことも判断できないほどに思考力が落ちていた。そして、研究に執着していた。俺の帰る場所はそこしかないのだと。

「ご納得いただけたようで。それでは。私は定期的に参りますので、今後ともよろしくお願いいたします」

 

 ロンは静かに去っていった。その後ろ姿が忌々しく、そしてなぜか行かないで欲しいと思った。数週間ぶりに会った人間だからだろうか。

 ロンが置いていった薬は何の変哲もない白い錠剤だった。ただし無機質な記号が刻印されているだけで、それが何の薬なのか調べることはできなかった。リンダに訊ねればあるいは分かっただろうが、そうしようとも思えなかった。

 昼に服用するように、と書かれている。食事の有無は関係ないらしい。俺は気がつくとコップに水を汲んでいた。薬を置いたまま、その水だけを飲む。とても甘く感じられた。喉が渇いていたらしい。もう一度飲むとコップは空になった。渇きはまだ癒やされない。再びなみなみと水を注がれたコップをテーブルに置く。隣には白い錠剤。どんな肌触りだろうか。ただの興味だ。考えるより前にシートから薬を取り出していた。思ったよりも小さかった。

 ごく当たり前のようにそれを口に含み、何事もなかったかのように水と一緒に飲み下した。空になったコップの代わりに、俺の渇きは癒された。

 気が付けばベッドの上だった。閉め切ったままのカーテン越しでもわかるくらいに外はもう暗い。どうやらあれは睡眠薬の類だったらしい。確かに今の俺の状態にはそういう薬を出すといいと医者が判断しそうだ。

 とにかく久しぶりの夢を見ない眠りだった。どうやら一日近く眠っていたらしい。空腹を覚えて食糧品のストックの中身を見る。そう言えば最後にそんなことをしたのもいつだったのかさえ覚えていなかった。

 休職している大学職員はもちろん食堂に行けない。それで休みの日にストックが山ほど渡された。研究員用に十分に用意されたそれらから適当に見繕って温める。一口目はどこか懐かしい味がした。それは多分、これが地元で作られたからという理由だけではないはずだ。

 あっという間に空になった皿をダストシュートに放り込む。ちょうどその瞬間、端末の呼び出し音が鳴った。ちらりと画面を見るとあのロンとかいう男だった。無視した方が面倒臭いだろう。俺は仕方なく玄関に立った。

「どうも。上がってもいいかな?」

 この前よりも親しげに話しかける。役人のくせに、とちらりと思ったが嫌な気はしなかった。

「どうぞ。何もないけど」

 本当に、もてなせる何かがあるわけでもない部屋に通す。向かい合わせのテーブル、そこしか座る場所もない。

「少し顔色が良くなった」

 ロンの声は以前よりほんの少しだけ何かの色がついたように思えた。会うのが二度目だからだろうか。無機質さが僅かになくなっていた。

「そうかな。薬が効いたみたいだ」

「それは良かった。薬はしばらく同じものになると思う」

 そう言ってロンは立ち上がった。

「もう帰るのかい?」

「仕事がまだあるからね。でも近いうち来るよ」

 その後ろ姿を見送った後、まるで彼ともっと一緒に居たいと言っているようなものではないかと思った。別に特別彼を気に入っているわけでも、ましてや友達と思っているわけでもないのに。

 ロンに渡された薬を手に取る。今度は一度目よりも躊躇いなく飲み込んだ。これの効果が納得できたからかもしれない。

 そのままベッドに横たわる。今は休息が必要なのだろう、たぶん。昼だからといって眠れないなどということはなかった。目を閉じるとそのまま意識のない世界へと引き摺り込まれていった。

 どうやら再び長い間眠っていたらしい。今日が何日かということには興味が持てなかった。ただカーテンの向こうが暗いのに、きっと夜だろうと思った。気になったのはロンが来ていなかったかどうかということだけだった。

 薬はまだ十分にある。食べ物も。だから何も心配することなどない。

 俺は何をすべきで、何をしたいのだろう。ふと風呂に入ったらいいだろうと思った。何日もそうしていなかった。

 すぐに熱いシャワーが出てくる。ぼんやりとしていた意識が、ほんの少しはっきりしてきたように思えた。研究はどうなるのだろう。いつまで休めばまた元のように研究できるだろうか。それとももう戻れないのか。

 勢いよく流れる湯に打たれながら次々とマイナスのことが頭に浮かぶ。そんなたちではなかったはずなのに。

 どのくらいそのまま立っていただろうか。まるで誰かがスイッチを押したかのように、ふと栓を閉めて風呂場を出た。そのまま寝巻きに着替える。テーブルの上には夜用の薬がいくつか。

 夜用の薬もあったのか。ロンは細かいことを何も言わなかったから、俺自身もよく分かっていなかった。飲み飛ばしたのかもしれないが、それが問題になるのなら注意されるだろう。とにかくそこにあったものを口の中に放り込んだ。今度は三粒。一気に飲みくだすと、心の奥底に蠢いていた不安が消えたような錯覚を覚えた。そのままベッドに入りたい気分だったし、実際にそうした。

 それからまた長い眠りに落ちた。

 

「エド、エド」

 優しい声と、穏やかな手が俺を眠りから覚ます。目を開いて、ゆっくりと焦点が合う。そこにいたのはロンだった。

「大丈夫かい?」

「ああ、ずいぶん気分がいいよ」

 言葉通り、これまでにないほど爽快に目が覚めた。疲れなどという言葉さえ忘れてしまいそうだった。

「それは良かった。そろそろ薬を変えよう。休息は十分そうだからね」

 ロンの言葉に俺は素直に頷いた。反論する理由など思いつきもしなかった。

「それから、リハビリと言っては何だけれど、ちょっとしたアルバイトをしてみないかい? 部屋の中ばかりでは退屈だろう?」

 その提案には少し驚いてしまった。ロンは薬の話ばかりするから、何となく医者のような気がしていたが、そういえばお役所の人間だった。それを思い出して、確かに悪くない提案かもしれないと思った。

「悪くないかも。例えばどんな?」

「君みたいに高等教育を受けた才能ある人にぴったりの仕事なんだ。君の脳を、使いたい人に貸す。その間君は眠っていてもいいし、その人の考えを一緒に体験していてもいい。要するに、君にサーバになってもらいたいという訳だ。どうだろう?」

 どうだろうも何も、そんな話聞いた事もない。そもそも安全な技術なのだろうか。いくらロンの言うことでも信じられなかった。

「これは極秘のプロジェクトでね。政府の肝入りなんだ。だから参加者はこちらで厳正な審査をして、適格だと判断された人にしかオファーしない。君はこのプロジェクトにうってつけの人材だよ」

 ロンの話し方、身振り、表情、どれをとっても俺の自尊心をくすぐるものだった。俺は自分の才能というものを信じていた。しかしそれはあっという間にぐらついてしまいそうな脆いものだった。事実、研究が上手くいかなくなった途端にこの有様だった。

 そんな俺に、ロンの言葉は染み渡っていった。

「詳しい話を聞かせてくれ」

 ロンは慣れた様子でプロジェクトの内容を説明してくれた。

 この頃研究成果に対する競争は激化の一途を辿っている。それこそ優秀な人間があぶれるほどに。君もそのひとりだ、とロンは言った。そんな頭脳を無駄にはしたくない。だから多くの研究課題を抱える一部の科学者が、優秀な人間の頭脳を借りるのだと。

「それなら俺みたいな奴らをそういう分野に振り分けてくれたらいいだろう」

「でも、今からデータサイエンティストになれなんて言われて気が向くかい?どんなに優秀な人間でも訓練には数年かかる」

 そう言われて、確かに違う分野に移ってまで研究者に固執したりはしないだろう、と思った。数式ばかり見続ける人生は想像がつかない。

「けれど、才能がある人間の神経は他の人より発達しているんだ。これはトートロジーだね。神経が発達しているから才能がある。だから訓練を受けている人間がその神経を借りることができれば、十分に使いこなせるというわけだ」

「その技術が極秘に開発されたと?」

「そういうことになるね」

 驚くべき話だが、信じられないことはなかった。人工知能だって普通の人間には目にもしないような代物だし、俺自身リンダに会うまでは存在を疑ってみた事もあるのだから。

「そして、俺がその実験に参加する?」

「いや、実験というのは違うね。もう技術そのものは確立されているんだ。安全性も入念にチェック済み。ただし非公開のプロジェクトだ。採算が取れるかも分からないからね。ベンチャー企業でパートタイムジョブをしてくれと言った方が正しい」

 ロンの役者じみた話し方はまるで人を操るために身につけたかのようだ。心地よい声、見目の良い顔だち。さぞかしモテるだろう。俺だって、もうほとんど心は決まっていた。

「それなら、時給はいくら?」

 答えは悪くなかった。俺は渡された契約書にサインした。

 

 

 

 それから一番の変化は、薬の種類が増えたことだった。もっと仰々しい機械かなんかを取り付けられるのかと思っていた。

「それはお客さんの方が持っているんだよ。誰にでも使える技術じゃないからね」

 独り言だったそれを聞いたのか、ロンが答えた。今日は初めて「客」

 がやってくる日だった。最初だから付き添うと、ロンは早めにやってきたのだった。

「そろそろかな」

 ロンが呟くと同時にチャイムが鳴った。ディスプレイにはいかにも学者然とした姿の男が映っていた。

「どうぞ」

 勝って知ったる、とばかりにロンがその男を迎え入れる。不愉快ではなかった。あまり喋る気にはなれなかった。

「どうも。私も初めてなので、不手際もあるかと思いますが」

 紳士らしい話し方をするその男は、どうやら数学者らしい。

 数学は専門外だ。基礎科目として勉強したときも合格を取るのに苦労した。そんな人間が数学者の思考を覗いてもつまらない、それどころか疲弊し切ってしまうのが容易に想像できた。

 俺は眠っていることにした。

 そう決めると、俺の準備はただいつもの睡眠薬を飲むことだけで良かった。準備は勝手にやってくれるらしい。気になったから機械を見せてくれないかと頼むと、研究室で俺が使っていた小型のメモリと同じようなものを見せてくれた。

「これだけ?」

「そうだ。詳しいことは極秘だけれど、それで高解像度に脳の活動を解析し、その上で制御できる。制御はこれでやるけどね」

 机の上に置かれたPCに今更気がついた。研究者がそれを持ち運んでいるのは自然なことだからだろうか。

 何だか面倒になってしまって、さっさと終わらせようと思った。詳しく説明されたところで、どうせ俺には分からない。専門外なのだ、数学も神経科学も。

 飲み込んだ睡眠薬の効き目はいつもより速い気がした。

 アラームの音で目が覚める。夢を一切見ない深い眠りだったのにも関わらず、すっきりとした気分だった。その上このところ感じなかったような心地よい感覚も味わっていた。

「では、今日の謝礼です」

 すっかり片付けを終えた数学者は、封筒を置いてそのまま出ていった。

「簡単だっただろう? それじゃあ」

 ロンも少ししてすぐに出ていってしまった。机の上に残された電子小切手を入れている封筒を手に取る。開けてみると、想像よりも多い金額が記されていた。俺のいつもの時給の何倍だろうか。

 こんなことでいいのか。これなら、小遣い稼ぎに続けよう。俺は簡単にそう思ってしまった。

 次からはロンはやってこなかった。客はメールでアポイントを取り、こちらから返事をする。一度例の機械を使えば遠隔でも操作できるらしく、そのおかげか例の数学者からの依頼が多かった。

 やっているうちに不安が広がる。他人に脳みそを弄くり回されているのを想像して気分が悪くなった。しかし眠っているだけで金が入る。それに客もロンも、俺は性能が良いと褒めてくれた。研究で自信を失っていた俺にとって、それは甘い毒のようなものだった。

 起きている間は悩みが絶えない。いつまでこの仕事をするのだろうか。研究室には復帰できるのだろうか。復帰したとして、俺の能力は通用するのか。結局研究者なんて俺には過ぎた夢だったのではないか。

 だから意識を失っている方が楽だった。何も考えないでいられる時間が必要だった。それが金にもなり、誰かの役にも立つ。それならそれで良いじゃないか、これだって誰にでもできる仕事ではないのだから。

 

 

 

 代わりがいくらでもいるような仕事には就きたくない。それは俺の、いわば裏に隠した人生の夢だった。それは父親を見ていたからだろう。田舎町から出たことはなく、やっと結婚した相手は別の男を作って出ていった。父親は常に俺に愚痴を言っていた。仕事の愚痴、そして俺の母親に当たる女の悪口。酒を飲めばそれがエスカレートした。俺はそれを画面の向こうの映像のような気分で眺めていた。その場から離れることはできなかった。俺なりに父親というこの男が哀れだった。だから見捨てることが出来なかったのかもしれない。

 俺が大学に入ることになった時、父親はこれであの馬鹿女を見返せると言った。これは全部俺のおかげだからと。それで俺はこの哀れな男にしてやれることは全部したような気がした。これ以上俺に何が出来るというのだろう?金を渡したとて、次の酒代になるだけだ。だから俺は街を出て以来、父親には会っていなかった。

 眠りと眠りの間の朦朧とした意識の中で、そんな昔のことを思い出していた。なぜ今更父親のことなど思い出すのだろうか。さっさと忘れて仕舞えば良いのに。

 そう、またすぐに仕事を引き受ければいい。何人か常連の客がついた。みな年上の男で、大抵情報工学か神経科学をやっている。ひとりは文学者だと言っていた。このご時世に大金を文学にかけられるなんて、さぞ優秀なのだろう。昔の俺ならこの男の意識を覗こうと思ったかもしれない。しかしそれさえもどうでも良かった。

 

 

 ある日客ではない人からメールがあった。差出人はリンダだった。近々会えないかという、ただそれだけだった。俺は何も考えずにイエスと返事をした。あの美しい顔を久しぶりに見たくなったのだった。

 返事を送ってからすぐに、これで良かったのだろうかと思った。もう研究室に行かなくなってかなり経つ。それよりも、この妙なパートタイムジョブをしていることにどこか後ろめたさを感じていた。ただ眠っているだけ。そんな俺を見て彼女はどう思うだろう。

 人工知能なのだから、俺に対して特別な感情など抱いてはいないだろう。しかししばらく彼女と会っていないうちに、俺の脳は彼女を人間だと誤認したようだ。いや、それ以前から間違え続けていたのかもしれない。

 ともかく、了承の返事をしてしまったのだから、今更断るのも気が引ける。それにやはり、リンダに会いたかった。研究室に戻ろうという話かもしれないし、と自分に言い聞かせる。

 その間の不安と期待が入り混じった焦燥感から逃れるように、あのパートタイム・ジョブに時間を費やした。ロンからはたまに連絡が来る。俺の評判は上々らしかった。しかしどうでも良いことだった。俺は寝ているだけなのだから。

 日付も時間の感覚もなくなった頃、リンダとの約束の日を迎えた。リマインダーをセットしていたおかげで何とかその時間に起きることができた。

 チャイムが鳴ったのは時間きっかり。すぐにドアを開けて中へ案内する。気の利いた紅茶でも用意しておけば良かった、と思ってすぐに、リンダにはそんな気遣いは無意味だったと思い出した。

「やあ、久しぶりだね」

「ええ、そうですね。元気そうで良かったです」

「今日は何か用事があるのかな? 教授からの伝言とか」

「いえ、私の用事だけです」

 俺はそれに返事をしなかった。というよりも出来なかったという方が正しいだろう。人工知能の彼女が、自発的に俺に会いに来た? 教授のクレームを伝えに来てくれた方がまだ心が楽だったかもしれない。

「私もあなたに仕事を依頼したいのです。一度だけでいいので。お金はあります」

 電子小切手が剥き身のまま机の上に置かれた。誰よりも作法に詳しい彼女がそんなことをするのもまた信じ難いことだった。

「もちろん、無理にとは」

「いや、引き受けるよ、もちろん」

 リンダの表情がどこか寂しげに見えた。そのせいだ、すぐにそんな返事をしてしまったのは。彼女の人工知能らしくない振る舞いと、人間らしくない振る舞いの、そのどちらもが俺をおかしくさせていた。

「もう一つ、お願いがあります」

「なんでも聞くよ」

「私の用事をしている間、あなたにも起きていて頂きたいのです」

 

 

 こうして俺はリンダの言う通り、初めて起きたまま仕事をこなすことになった。最初の仕事よりも緊張した。

 リンダも他の客と同じようにあの機械を持っていた。俺はベッドに横たわり、リンダは隣に椅子を持ってきて座っていた。

 俺の方ですることはいつもと変わりがないようだった。それなら客が勝手に俺を起こしたままでいることも出来たのか、と不意に思った。

 しかし今はそれよりも彼女がどうするのかという方が興味があった。ただ研究に使うわけではないだろう。それにしては、あまりにもおかしな状況だった。

 いつも通り目を閉じて、リンダが何か操作しているのを感じる。いつもならもう眠りに落ちている頃だった。しかしまだ意識はある。意識はあるのに、脳が勝手に動き始めたのを感じた。白昼夢を見ているかのように、瞼の裏に見たことのない映像が浮かぶ。

 そこはどことも説明のつかない場所だった。敢えて言うなら古い映画に出てくる宇宙空間のようだった。そのせいか身体が浮遊している感じがする。ゆっくりと前に進むと、リンダの後ろ姿が見えた。まるでついて来いとでも言うように、リンダが歩き始めた。俺はごく自然にその後ろをついて行った。

 リンダが扉を開けるような仕草をした。実際にはそこには何もなかった。俺には何もないように見えただけかもしれない。

 場面が変わるように、今度は現代的なごく普通の部屋が現れた。ちょうど家族で暮らしているのだろうと思わせる風景だった。しかし俺とリンダ以外に誰もいなかった。食卓の上には食べかけの料理が三人分。この部屋の主たちはどこへ行ったのだろう。

 リンダはキッチンの近くで立ち尽くしていた。ちょうど食卓が見える位置だった。俺はリンダの背中越しに同じところを見ていた。

 どこからか声が聞こえた。幼い女の子の声だった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、私が悪いの」

 聞いたことがあるような声だった。しかし誰の声か分からなかった。それに続いて大人の男の声がした。何を言っているのかは聞き取れなかった。ただ怒鳴っていることだけがはっきりと分かった。

 俺は父親を思い出して軽く身震いした。リンダも同じような反応をしたような気がした。しかしそれは俺の幻覚だ。

 リンダは気が済んだかのようにその部屋の扉を開け、次の場所へと向かった。

 今度は初めよりももっと混沌とした場所だった。まるで俺が想像するカオスを誰かが作り上げたようだった。創作されたカオス。カオスと人びとに思わせるためだけに作った場所。リンダはそのカオスの女神のように見えた。

 一瞬だけ何かの意味のような花火が閃く。しかしその意味を掴む前にその光は消えていく。その度に小さな感情が流れ込む。微粒子のような感情。俺のものではないそれは確かに俺の脳の一角を占めた。ごく僅かな面積を。きっとシナプスの一つも奪ってはいないだろう。しかしその微粒子は確かに俺に感じ取られた。

 リンダが手を伸ばす。創造の儀式。カオスから意味が立ち上り、その意味を彼女は次々と掴む。彼女の手には宇宙が造られ始める。俺には見えない宇宙。彼女には見えているのか。

 きっと球体をしているのであろうそれを、リンダが俺に手渡した。ここでリンダの顔を見るのは初めてだった。

 俺はそれを受け取った。

 リンダは安心したような、後悔しているような、俺には理解できない表情で俺を見た。そのまま、あのカオスの中に溶け込むかのようにリンダは消えていった。

 そこに新しい扉が現れた。リンダが開けたものと同じだった。俺は考えるよりも先にその扉を開けた。

 今度は俺の部屋だった。今の部屋じゃない。子供の頃に住んでいた部屋。ベッドがようやく置ける程度の小さな部屋にはロンが立っていた。

 俺はリンダに渡されたそれをロンに手渡した。ロンはあの映画俳優のような笑みでそれを受け取った。

 

 仕事の終わりを告げるアラームが鳴った。俺はゆっくりと目を開いた。そこに映るのは見慣れた天井だった。隣にはもうリンダはいなかった。

「やあ、気分はどうかな」

 その代わりにロンが座っていた。これは現実だった。

「ああ。最悪だよ」

 リンダが居なくなったことでも、ロンがそこにいることに対してでもなかった。

「君は合格だ」

 本当に、俳優になれば良かったのにと思った。そうしたら俺もこんな目に遭わずに済んだ。いや、この人を魅了するような容姿の全てが彼の目的に必要なものだったのだろう。

「君はリンダと同じになれる。最高の人工知能にね。君は選ばれたんだ、特別だ。君の父親とも、その他大勢の低俗な人間とも違う。新しい存在だ。言わば神の御使い、天使になれるんだ」

「そして、神はお前か?」

 ロンは高らかに笑った。見目の良い俳優は、悪役にだって向いているのだ。

「まさか、私はそんなに自惚れてはいないよ。特別な才能だってありはしない。ただそのことを自覚していただけなのさ、君と違ってね」

 何度も縋って、そして裏切られた期待。それを目の前で粉々に踏み砕かれた。なぜロンの言葉を素直に受け入れてしまうのだろうか。それを考えることすらもどうでも良いほどに、俺は何かを失ってしまった。

「もう戻れないんだ、エド、しかし、これは良い結末だろう? 君は二度と苦しむこともない。ずっと穏やかな夢を見ていられるんだ。沢山の人間が君を重宝するだろう。誰にとっても、幸せなことだ」

 そう、これは幸せなことかもしれない。穏やかな夢を。記憶に残らない程の夢を。俺は脳を売った。それは心を売ったのと同じだ。それにしてはマシな対価じゃないか。

 俺は手渡された、いつもと違う色の錠剤を一息に飲み込んだ。

 

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救われたい男と降りかかる救済(Save Me) 七水とひろ @tohironanami

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