第三章 支配者たちの晩餐・2
「アテュイス、もうすぐニアーダからお客さんが来るんだよ!」
ただそれを伝えるためだけに、ハーレイは裏庭に足を運んだ。
ハーレイにとって、アテュイスは初めてできた友達だった。年はかなり離れているけれど、そんなことは少しも関係ない。
ここ最近は、特に眠れないわけではなくても部屋を抜け出すことが増えた。いまのところ、城壁の衛兵たちに見咎められたことはない。城外からの侵入者にばかり気を配っていてハーレイに気づいていないのだろうか。ありがたいような、頼りないような、少し複雑な気分だ。
さすがに夜の寒さが堪えるようになったから、寝間着ではなくきちんと厚手の上着とズボンを着込んだうえに、黒い毛糸の首巻まで巻いている。
アテュイスと話すことだけでなく、サナミアが淹れてくれる蓮茶も、ハーレイにとっての楽しみになっている。
小屋には暖炉がない代わりに火鉢があって温かい。ハーレイは首巻を外した。
「チュンナク王のことも教わったよ。ニアーダのみんなに愛されるすばらしい王様だって、ライサンダーが言ってた」
「そうですか」
アテュイスはお茶を口に運びながら、嬉しそうに目を細めた。
「弟はきっと良い王になるだろうと思っていました。本当に、そうなったのですね……」
いつも柔らかな笑みを絶やさない人ではあるが、このときのアテュイスの微笑には心からの喜びがにじみ出ていた。
ハーレイは自分が価値ある情報を伝えられて誇らしいと同時に、これしきの話でアテュイスの心が動いたことを意外に思う。
「ニアーダの人とは、誰とも連絡を取っていないの? ……ここに来てから、一度も?」
ハーレイが尋ねると、アテュイスの笑みは静かに翳った。
「チュンナクのことを習ったなら、私のことも習ったでしょう。私は圧政によって祖国を傾けた重罪人なのです。憲兵たちに命を狙われるほど憎まれているのですよ」
そもそもアテュイスは再び王位への野心を抱かぬよう、この裏庭に閉じ込められている。サナミア以外のニアーダ人と接触することも、ニアーダが現在どうなっているのか情報を収集することも、一切許されていないのだ――そうアテュイスは言った。
「おそらくニアーダにも、私がいまどこでどうしているのかは知らされていないでしょう」
「そんな!」
ハーレイは思わず叫んだ。
「そんなの、ひどすぎるよ」
ライサンダーはアテュイスを処刑しなかった父上のことを「寛大」だと言った。けれども二十年以上にもわたって相互に音信を絶たせるというのは、かなり残酷な仕打ちではないか。
「ひどくはありませんよ。私はそれだけのことをしたのですから。……そうでしょう、サナミア?」
「それは……」
突然水を向けられたサナミアは、答えに窮して口ごもる。すぐに否定の言葉が出ないことが何よりの肯定だ。
いまのハーレイには、ニアーダ人であるサナミアがここにいる理由を察することもできた。きっと彼女も、ニアーダから逃げのびてきた人たちの娘なのだろう。
「それでも、僕にはアテュイスが悪い王様だったなんて、全然信じられないよ。本当は、何か考えがあったんでしょ? ……そうだ、ライサンダーも前に言ってたよ、『一時的には国民に苦しい生活を強いたとしても、長い目で見れば国家の利益になることもある』って。だから……」
しかしハーレイが言い終わる前に、アテュイスはいつになく高い声を立てて笑った。
「あなたは私を買いかぶっておられる。『何か考えがあったか』ですって? 当然でしょう。たとえどんなに愚かな王でも、そのとき最善と思った判断をするものです。その結果が、いまの私です」
ハーレイがアテュイスの笑い声を聞くのは初めてだった。とはいえ、アテュイスは楽しくて笑ったわけではない。「自嘲」という言葉をまだ知らないハーレイでも、そのくらい分かる。あれは触れてはならない部分を、無遠慮に撫で回されたことへの拒否反応なのだ。
「ごめん、僕……」
「どうかお気になさらないでください。腹を立てたわけではないのです。ただ、私はあなたが思っているような立派な為政者ではなかったと分かってくださればいい」
そう言われてもなお、ハーレイの心は落ち着かなかった。
――アテュイスは深く傷ついている。優しい人だから、民を苦しめてしまったことを後悔しているんだ。
「さあ、せっかくのお茶が冷めてしまいますよ」
アテュイスはこの話を切り上げようとしている。ハーレイが謝罪したときのライサンダーと同じ態度だ。大人は自分の傷をしまい込んで、ひとりで抱えたがる。それを察して触れずにいるのが、大人の作法なのだろう。
「そうだね。……いただきます」
けれどもハーレイはまだ子どもで、余計なお節介を焼きたい年頃だった。
その後は当たり障りのない話題に移り、お茶を飲み干してお開きになった。
小屋を立ち去る際、ハーレイはわざとに首巻を椅子の下に落としていった。サナミアが気づいて、急いでハーレイを追いかけてきてくれる。狙い通りだ。
「あれっ、気づかなかったよ! わざわざありがとう!」
と大げさに礼を言った後で、いま閃いたふうを装って、こんな質問をつけ加える。
「ねえサナミア、ニアーダからのお客さんに、ニアーダ語でご挨拶したら、喜んでもらえるかな?」
「ええ、きっと喜ばれますよ」
ハーレイはにっこり笑って、サナミアにニアーダ語の教えを請うた。
〈はじめまして、僕の名前は、ハーレイといいます。彼は、兄のクロードです〉
〈あなたのお元気そうなお姿を拝見できて、嬉しいです。父も喜んでいます〉
〈よかったら、お友達になりたいです〉
〈国王陛下に、どうぞよろしくお伝えください〉
「ありがとう。……このこと、アテュイスには内緒にしてくれる? いつかニアーダ語を上手に話して、アテュイスをびっくりさせたいんだ」
嘘をついたつもりはない。ニアーダ語に興味があるのは本当だ。でもサナミアにこんなお願いをしたのは、聡明なアテュイスにこの企みを気取られたくなかったからだ。
「まあ、それはきっと、アテュイス様も感激なさいますね」
サナミアが嬉しそうに微笑むのを見ると、少し気が咎めた。
ハーレイは部屋に戻って眠りに落ちるまで、サナミアに教わったニアーダ語を何度も繰り返しつぶやいた。
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