第31話 エッセイ 『忘れたくない瞬間』

 茶室への誘いを、私はいつものように軽く会釈をして通り過ぎようとした。

 相手と、視線を合わせないまま。

 だが、すぐに私は考え直す。

 今日は手持ちに余裕があるのだ、今までと違って。

 おまけに今日は風もなく、雲も少ない良いお天気。気温も寒くも暑くもなく、ちょうどいい。


 この期を逃してはならない。


 たまに内側から聞こえてくるこの声に、私はいつも正直に行動するよう心がけている。


 声をかけてくれた上品さ漂う御婦人に、利用したいと伝えると、茶室へとつながる道を教えてくれた。


 茶室へは、すぐには辿りつかなかった。

 道中の景色を眺めながらゆっくりと進んでいくと、やがて一人の男性が退室しようとしている茶室が見えてきた。

 私は男性と入れ替わるように茶室にあがる。

 客は私一人。

 これまた上品さ漂う女性が、一番見晴らしの良い席を案内してくれた。

 ちなみに、私には茶道の経験や知識がまったくない。

 そんな私の小さな不安に、にこりと穏やかな笑みと共に、気軽に楽しんでくだされば、と女性の柔らかくも凛とした声が返ってきた。

 私は案内された席に座る。


 なるほど、目の前と左脇から見える、茶室越しの風景が心を和ませる。

 私が女性に代金を渡すと、上品な佇まいの可愛らしい干菓子が運ばれてきた。

 先にお楽しみくださいと言われたが、お抹茶が来るまで手をつけなかった。

 もしかしたら、先に食べるのが作法なのかも……と思いつつも、許可を得ていたので何回かシャッターを切る。


 茶室から見える風景、お茶の道具、茶室全体……

 今感じている空気を忘れたくない、また思い出せるようにと願いながら、私はそれらを撮影した。


 静かで穏やかな空気が、茶室には満ちていた。

 それを吸っては吐きながら、雰囲気を楽しむ。

 なんという贅沢で特別な瞬間だろうか。


 やがて運ばれてきたお抹茶。


 女性の綺麗なお辞儀に、一瞬息をのむ。

 ああ、これがきちんと作法を学んだ方の姿勢なのだ、と妙に感心した。

 そして、お抹茶を口に含む。


 お抹茶!!


 私の脳みそが思考停止した。

 口に含んだお抹茶の香りに、支配されたのだ。


 これは……すごい……


 私は湧き出る自身の感覚に少し戸惑いながらも、先に出された干菓子と、お抹茶とを楽しむ。

 茶室から見える風景と、漂うありのままの空気を感じながら。


 終わりが近づいた頃、私はしばらくの間、お抹茶の器をじっと抱えたまま、ぼうっとしていた。


 心地、よすぎる。

 それまで抱えてきたなにもかもを、今はなにも感じない。

 ただただひたすら、ぼうっとする。

 満ち足りた瞬間と、手の中の器の重さ。


 忘れたくない。


 私はすっかり満足して、ありがとうございましたと礼を述べて茶室を後にした。

 入れ違いに、茶室へ向かってくる一人の御婦人の姿が見える。

 どうか、最高の空気を味わえますように。

 少しわかりにくい茶室への上がり口をにこりと笑って御婦人に伝え、私はそう祈りを捧げたのだった。

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がんばれ私なのだ 鹿嶋 雲丹 @uni888

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