第二話「相談」
◇ ◆ ◇
喫茶店『
お店の前で看板を眺めながら、私は相変わらずの小声で、独り言を呟く。
「少し早かったかな」
すると間もなく、約束をしていた同僚の声が背後から聞こえてきた。
「す、すみません……幸村先輩。いきなり呼びつけちゃって……」
「いいよ、別に。どうせ暇だったし」
私の前で、うつむいて申し訳なさそうにしているおさげの女の子が、同僚の
普段からオドオドしている感じだが、今日はいつも以上に怯えているように見える。
私は山尾さんに問いかけてみた。
「どうしたの? 緊張してる?」
「え……? その……よ、よく……わからないです……」
変な沈黙が、その場を支配する。
たまらず私は、取り繕った笑顔で話を打ち切った。
「……とりあえず、お店……入ろっか?」
「…………はい」
私たちは一番奥の角にあった二人用の小さなテーブルに着席すると、すぐにブラックコーヒーを二つ注文した。
再び訪れる沈黙。
仕方ないので私のほうから話を切りだす。
「……それで? 何か相談があるんでしょ?」
「……はい」
返事だけして、また黙り込んでしまう山尾さん。
気まずいほどの沈黙に包まれるなか、注文したブラックコーヒーを持って店員がやってきた。
「お待たせしました。ブラックコーヒーです」
店員はそう言ってから、私たちの前にコーヒーを二つ置く。そして「それではごゆっくり」と軽く会釈をしてから、その場を立ち去っていった。
再三にわたって、私たちを沈黙が支配する。
私はコーヒーカップを手に取って、ゆっくりと香りを楽しんでからコーヒーを少しだけ口に含んだ。
口の中に広がる深い味わい。酸味と苦みが程よく調和して、何とも言えない極上の風味が香りとなって鼻から抜けていく。
「……美味しい」
無意識に言葉が口から漏れた。
ホッとするような心地よいあと味の余韻が、私の疲れた心を癒していく。
すっかり気が抜けてリラックスした私の表情を見て、山尾さんもコーヒーを手に取り、ひと口だけすする。
直後、彼女は目を丸くして今日一番の大きな声を出した。
「……ほんとに美味しいですね!」
心ばかりか彼女の顔に笑みが浮かんだように見えた。
それからしばらく私たちの間にはコーヒーをすする音だけが響いていたが、少ししてから山尾さんがその重たい口を開いた。
「……あの、それで…………話なんですけど──」
コーヒーのリラックス効果が効いたのか、やっと本題を口にした山尾さん。両手でコーヒーカップを包み込むように持って、相変わらずのビクビクした感じで語り始める。
「わたし……仕事…………辞めたいんです」
「そう……なんだ」
仕事の相談と聞いていたので、少し予想はしていた。
私も同僚として、あんな仕事など認めていない。人間社会にとって何の役にも立ってないどころか、人に害を与えることでしか利益を得られないような会社の存在理由。いったい何のために存在しているのか。
だがそれでも仕事さえこなせば、とりあえず生きるためのお金はくれる。だから私は辞める気はない。たとえ私のせいで、誰かが傷つくことになるのだとしても。
私は──
いや、私でなくても、この世界で生きていくためにはお金というアイテムが絶対に必要で、それを得るためには世間が仕事と認識している行為をこなし続けなければならない。仮にそれが社会にとって無意味なモノであったとしてもだ。
たとえ疲れていようが、病気になろうが、休むことは許されない。
そういう世界で、私たちは生きている。
「……それで? なんで辞めたいの?」
私は理由を尋ねてみた。
相談に乗ると言った手前「辞めたいんです」と言われて「はい。そうですか」と終わるわけにもいかない。彼女が私に話すことで、なにか自分の中での正当性に理由がつけられるのなら、聞いてあげたいと思った──というのが表向きの建前。
本音は彼女が辞めたいと願う理由を、彼女自身の口から聞きたかった。
もしかしたら、私が自分の仕事に対して抱いていた嫌悪感と同じようなものを、彼女も感じていたのかもしれない。
私は、それが知りたかった。
彼女の心の中に何があるのか──それを知りたかったのだ。
山尾さんは私の顔をじっと見つめてから、下唇をぎゅっと噛みしめる。そして震える声で語り始めた。
「わたし……もう嫌なんです……」
今から彼女がその心のうちを告白するのかと思うと、まるで私の心臓が何者かに鷲掴みにされたかのように強く鼓動した。目を大きく広げて沈黙する私の前で、彼女は訴える。
「生きるためとはいえ、誰かを騙してお金を奪いとるようなこと……もうしたくないんです」
彼女の目にうっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。
徐々に私の鼓動も速くなっていく。
同じだ──
私と同じだった。
私と同じことを思いながら、彼女も仕事をこなしていたのだ。そう思うと彼女のことが心配でたまらなくなった。
私がそうであるように、このままいけば彼女の心もきっと壊れてしまうだろう。
私の心は──
もうとっくに壊れている。
でも彼女はまだ大丈夫。今引き返せば、まだ間に合う。
世の中、価値のある仕事をしながら充実した生活をしている人間もいるだろう。だが、そんなのはごく少数でしかない。多くの人は心をすり減らしてまで、意味のない仕事に人生の大半を捧げて生きている。
なんで、こんな世界になってしまったのか。
誰が、こんな世界にしてしまったのだろう。
人を傷つける仕事に存在価値などあるのだろうか。
私は心の中の自分に問いかける。
「私たち……なんでこんな仕事してるんだろうね」
私は視線を下へ向けて、誰にも聞こえないほど小さな声で囁いた。
一瞬、山尾さんが反応したようにも見えたが、気のせいだろう。
本当は彼女と共有したかった言葉だった。
しかし今の私には、それを口にする資格がないと思ったから、ハッキリと声に出せなかったのだ。
その代わりに別の話題を切り出してみる。
「山尾さんは……仕事辞めちゃっても生活は大丈夫? 先の人生に不安とかないの?」
いつの間にか私は、山尾さんが他人とは思えなくなっていた。
何とかして助けてあげたい。このどうしようもない世界で、クソッタレなシステムに組み込まれてしまった彼女を解放してあげたいと思った。
でも今の私には、彼女の話を聞いてあげることくらいしかできない。所詮は私も同じ穴の
山尾さんは、少し躊躇してから答えた。
「大丈夫じゃないです……。この先どうなるのか不安しかないですよ……。それでも……もう、この仕事は嫌なんです! 誰かを不幸にすることで手に入れたお金で生き続けて……その先で、いったい私に何の価値が残るって言うんですか⁉」
その言葉とともに、彼女の目からとめどなく涙があふれ出した。
彼女はまだ若い。いくらでもやり直せるチャンスはある──などと他人事のように言うのは簡単だが、その一方で辞職が個人のキャリアに傷をつけて、後々の人生に影響を及ぼしかねない社会であることも事実である。
私の決断が彼女の人生を狂わせてしまうかもしれない。それが怖くて、私は無責任なことを言えないと思っていたのだが──
「……辞めちゃいなよ。こんなクソみたいな会社」
──気づいたら、そう口にしていた。
私自身、この仕事のせいで感情を失ったロボットのようになってしまった。だからこそ彼女には、そうなって欲しくないと思ったのだ。
私は──
彼女の心の価値を護りたかったのかもしれない。
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