第三話「思索」

 あたしはコーヒーをいれてから自分の椅子に座ると、影虎が戻るまでのあいだ『パンドラの瞳』について自分の知りうる情報を脳内で反芻していた。


 あたしが知るかぎり、人類はこれまでに何度か滅亡しかけている。

 少なくとも数百年まえにあった大洪水によって、人類の半数以上が犠牲になったのは紛れもない事実だ。これは考古学や地質学などによる調査によって明らかになっている。

 その時、地上にあった多くの貴重な書物や研究論文なども、文明とともに失われてしまったのだ。その中で損失を免れた一部が、古文書や古代の文献として今の世に伝えられている。


 影虎のおかげで教授に没収されずに済んだ文庫本を手にとり、あたしはコーヒーをひとくちだけ口にした。この『魔性の花束』は、大洪水より以前に栄えていた文明の中を生きていた人間が書き記したものだ。


 宮田寿々──


 名前からして女性だろう。間違いなく彼女はパンドラの瞳と接触しているはず。なぜなら彼女の小説『魔性の花束』に込められたメッセージが、そのすべてを物語っていたからだ。

 あたしは小説をパラパラとめくりながら、椅子の背もたれに寄りかかった。背もたれの軋む音が何気に心地よい。またコーヒーをひとくち飲む。あたしは目を閉じ、感傷に浸りながらつぶやいた。



「よく一冊、残っていたものね」



 都市伝説によれば、パンドラの瞳とは世界の災厄を知ることと同時に、希望をもたらす可能性を秘めた奇妙な赤い石とされている。

 科学者としての立場から言わせてもらえば、そんな非科学的なモノはこの世に存在しないと言わざるを得ない。だが一方で、あたしの推測が間違えていなければ、おそらくパンドラの瞳は実在しているのだ。


 つまり──

 この相反するふたつの解が同時に成立する結果を考えたときに、導き出せる答えはひとつしかない。それはパンドラの瞳が『常識的には現代の地球上に存在するはずのない代物』だということだ。

 神、または地球外生命からの贈り物か。もしくは超古代文明が残した産物か──

 どちらにせよ、今の人類にとって未知のモノであることに変わりはない。


 あたしが『パンドラの瞳は実在する』と結論づけた理由は次のとおりだ。

 まず、発見されたパンドラの瞳に関する過去の文献や論文の存在。

 そして、あきらかにパンドラの瞳の伝説を参考にしていると思われる芸術作品が数多く存在していたことだ。それは映画や小説のような物語に依存する作品のみならず、絵画や音楽のようなあらゆるジャンルの作品たちの中にまで潜んでいた。

 芸術作品に関しては都市伝説をそのままモチーフとして作品を創作していた可能性もあるが、どうみても体験談を物語に紛れ込ませたとしか思えないほど、繊細で緻密なリアリティを含んだ作品もいくつか散見できたのだ。


 特にその中でも、あたしにパンドラの瞳の存在を確信させた作品──

 それこそが宮田寿々の小説『魔性の花束』。


 この小説──

 表向きはフィクションということになっていた。書籍の中にもそう記されている。

 だが本の最後のページ。無駄な白紙が何ページも挟まったあと、不気味なほど余白を使って奇妙な位置に書かれていた謎の数字の羅列。最初は何の数字かわからなかったが、あきらかに不自然だったため、あたしは徹底的に解読してみたのだ。

 

 それは暗号によるメッセージだった。

 そして人類に対して次のように警告していたのだ。



『この物語は、必ずしもフィクションではない』と────。



 あたしは、この真実を知ったとき喜びに打ち震えた。なぜなら、そこに『人類の叡智えいちを超えた未知なる何か』があるということが明白になったからだ。

 もちろん、この宮田寿々の小説だけではパンドラの瞳の存在を確信するところまでには至らなかったが、彼女と同じようにパンドラの瞳の体験談をメッセージとして組み込んだと思われる創作作品が、数多く存在していたことが決め手となったのだ。


 あたしがコーヒー片手に椅子をくるくる回していると、夕飯の調達を終えた影虎が研究室に戻ってきた。


「買ってきましたよ。先輩」

「ありがと。それじゃ食べましょ」


 影虎は、ペペロンチーノのほかに白ワインのようなペットボトルをあたしの机の上に置いた。


「なにこれ? あたし頼んでないけど?」

「俺の奢りっすよ。先輩、ワイン好きでしょ」


 ラベルを見ると『白ぶどう』『スパークリング』という表記とともに『ノンアルコール』という文字が記載されている。


「なにこれ……ノンアルじゃん」

「本物は家に帰ってからプライベートで飲んでください」


 今からパンドラの瞳に関する研究をしようというのだから、アルコールなど飲んで酔っぱらわないようにという彼なりに気づかいなのだろう。それぞれの席で黙々と弁当を食べる。

 よく考えたら、会話が発生しなくても気まずい雰囲気にならないのは、あたしにとって影虎くらいかもしれない。


 あたしはペペロンチーノをフォークでくるくると巻いてから口に放り込むと、パンドラの瞳について思考を巡らせた。

 宮田寿々の小説やほかの参考資料を見て気づいたことは、パンドラの瞳に遭遇している人物たちには『本人の心を救ってくれる者が必ず身近に存在していた』ということ。それが体験談のほとんどに共通している条件。そしてその救世主は、どの体験談においても『ひとりだけ』だということだ。


 つまり──

 ふたりでもいいのかもしれないが、確実なのはひとり。


 もし故意にパンドラの瞳を出現させる方法があるとして、最低でも誰かからの絶対的な信頼は得なければならない。そのときに用意すべきなのは『ふたり以上ではなく、ひとりからの絶対的な信頼』なのだ。


 さいわい今のあたしは他人からの信頼など皆無に等しい。

 問題はあたしのことを心から大切に想ってくれるような存在を、今から『ひとりだけ用意しなければならない』ことだ。

 そう考えていたとき、あたしの中でひとつの答えが思い浮かんだ。


「ねぇ。影虎────」

「……なんすか?」

「あたしの彼氏になって」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る