最終話「パンドラの瞳」
あれから十年後────
彼は立派なパティシエとなって、わたしのもとに帰ってきてくれた。
そして、わたしたちは結婚した。
彼と結婚してからは幸せな日々が続いていたが、わたしはある日ふと〝あの奇妙な赤い石〟のことを思い出していた。
思い返してみれば、あの赤い石はいったい何だったのだろうか?
わたしはあの奇妙な石を『パンドラの
命名の由来は、わたしの体験したものがまさに神話に登場する『パンドラの箱』そのものだったからだ。
人間は多かれ少なかれ、誰もが心の奥底に負の感情を抱えて生きている。
嫌なことがあったり、ストレスがたまれば、それを発散させるために人はマイナスのエネルギーを発生させるのだ。
だが、そうしたエネルギーには形がないため、その人が隠そうとするかぎり誰もその人の醜い部分に気づかないこともある。
感情のこもっていない機械のような笑顔を振りまいて、上っ面だけの付き合いをしている人たちが、この世界に一体どれほどいるのだろうか?
わたしはあの石に触れたことで、そんな人々の醜い心の内側をすべて覗いてしまったのだ。
だけど、同時にわかったこともある。
心から大切に感じている人が近くにいれば、人の心は負の感情から解き放たれるのだ。
好きだとか、愛おしいだとか──
きっと心がそういう愛情で満ち足りているからだろう。
人が無意識のうちに心の奥底に抱え込んでいる負の感情が災厄であるとするならば、きっと愛情こそが人にとってたったひとつの希望なのだと────
わたしはそう考えるようになったのだ。
パンドラの箱からあらゆる災厄があふれ出したあと、箱の中にたったひとつだけ希望が残っていたように────。
きっとあの石は、もともと人間の醜い感情だけが声となって聞こえてくるように出来ていたのだと思う。
だからすべての人の心から、悪意のような感情しか伝わってこなかったのだろう。
ただひとつ──
例外として、もしそのような状況下でも綺麗な声が聞こえることがあれば、それはきっとその声の持ち主があの石を手にした者のことを本当に心から想っているからなのだと────
そう、わたしは思うに至ったのだ。
あの時、恭介くんの心の声だけが一点の曇りもなく澄み渡っていたのは、きっと彼がわたしのことを大切に想ってくれていたからに違いない。
また忘れてはいけないのは、わたしには醜い声しか聞こえなかった人たちにも、必ず大切に想う人がどこかに存在しているということだ。
もしあの石を手にしたのがわたしではなくて別の誰かだったとしたら、きっとその人にとっての大切な人の心だけが綺麗に映ったのだと思う。
恐らくあの石は、持ち主のことを大切に想っている者以外の心に潜む負の感情を、際限なく増幅して聞かせてくるのだ。
だからわたしは、それを『パンドラの箱からあふれ出したあらゆる災厄』と比喩した。
そしてわたしにとっては、恭介くんの存在が箱の底に残っていたという『たった一つの希望』そのものであり、
大切な人がそばにいるだけで、この世界から災厄がふたつ消える。
大勢の人が大切な人といるだけで、この世界からそれだけ分の災厄が消える。
この世界のすべての人がすべての人を愛することができたのなら、この世界からすべての災厄が消えるのではないか────
そんなふうに思ったりもした。
わたしが一度は諦めた幼馴染の彼と結婚することができたのは『パンドラの瞳』がわたしと彼を再び巡り会わせてくれたからだと信じている。
それ以来、あの石は二度とわたしの前に姿を現すことはなく、いつの間にかわたしは自分の生活のなかで少しずつその存在を忘れていった。
そして生涯わたしを愛し続けてくれた彼と共に、わたしはその満たされた人生に幕を閉じたのだ。
数百年後────────
わたしのブログは世界から消えたが、それは次のような都市伝説に姿を変えて、人々の生活の中に溶け込むように定着している。
§ § § § § § § § § § § § §
この世界には『パンドラの瞳』と呼ばれる赤い宝石のような輝きをもつ奇妙な石が存在している。
もしも目の前にその石が姿を現しても、軽はずみに触れてはならない。
触れてしまえば、すでに災厄が世界のすべてを覆いつくしている事実を知ることになるだろう。
それを知ったとき、必ずあなたは世界に絶望する。
だが──
もしあなたがたったひとつの希望と引き換えに世界の災厄を知る勇気があるのなら、覚悟をもって『パンドラの瞳』を手にしてみて欲しい。
その時にあなたがひとつの希望に辿り着くことができたならば、きっとその希望があなたの世界を光り輝くものに導いてくれるはずだから────。
§ § § § § § § § § § § § §
これはわたしの人生において大きな分岐となった奇妙な出来事を綴った愛と奇跡の物語である。
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