第三話「希望」
しばらくひとりでトボトボと歩いていると、また知っている人に遭遇した。
ずっと前から好きだった幼馴染の男の子だ。
「あれ、
「き、
突然話しかけられて、わたしの顔はのぼせたように赤くなってしまった。
もう諦めたはずだったのに────。
「おまえんちって、こっちじゃねーだろ?」
「そ、その…………」
わたしがオドオドして口籠ってると、彼は「ま。俺んちもこっちじゃねーし、そんなことどうでもいいか」と言って自ら質問を取り消した。
わたしの様子から何かを察して、きっと気を使ってくれたに違いない。
そういう気さくなところも好きだった。
しばらくふたりの空間を沈黙が支配していたが、しびれを切らした彼の口から先ほどとは別の話題が飛びだした。
「最近おまえに連絡しても全然返事がないから、どうしてるのかと思ってたんだよ。元気でやってんの?」
「それは…………」
せっかく話しかけてくれたのに、返す言葉が出てこない。
きっと彼に黙って
別にわたしと恭介くんの間に、これと言って特別な関係があったわけではない。
だが、なぜか変に意識してしまって、思うように喋れないのだ。
すると、彼はいつものように悪態をついてきた。
悪意を感じさせない心地の良い悪態。
「──ていうかさ。お前って昔からぜんぜん変わらないよな。口にファスナーでもついてんの?」
いつも彼は、わたしに対して遠慮がない。
でも、きっとそういうところも好きだったんだと思う。
昔、思いきって遠まわしに告白してみたことはあったが、なんとなく有耶無耶にされて流された。
彼は絶対にわたしの気持ちを知っているはずなのに、何の音沙汰もないというのはわたしに気がないからに決まっている。
だからわたしは彼への想いに決別するために、利彦さんの告白を受け入れたのだ。
そんなことを考えながらぼーっとしていると、彼が心配そうな顔でわたしの顔を覗き込むようにして声をかけてきた。
「おい、愛乃。大丈夫か?」
突然、目と鼻の先に彼の顔がきたことで、わたしは驚きと恥ずかしさでいっぱいになり、停止していた思考が動きだす。
そして活性化したわたしの脳が、次の瞬間わたしに警告を発したのだ。
(一刻も早く、この場所から離れなきゃ────────!)
今わたしは限りなくひと気の少ない場所まで来ていたから、先ほどまで悪夢のように聞こえていた声の存在を忘れ去っていた。
だが間違いなく聞こえてしまうはずなのだ。
彼が心の内側に隠している感情も、秘密も、何もかもすべて────。
わたしは彼が心の中にしまっているものを知ることが、とてつもなく怖かった。
彼がわたしに悪意を持っているなどとは思いたくもなかったが、これまでの出来事でわたしの心は酷く歪んでしまっていたのだ。
仮に悪意は持っていなかったとしても、もし彼の中にあるわたしの評価が他の誰よりもずっと低くて、どうでもいい存在だと思われていたとしたら、わたしは────
もう立ち直れなくなるかもしれない。
だがそんなことよりも怖かったのは、彼の心も醜く歪んでいるかもしれないということだった。
彼にとってわたしが恋愛の対象かどうかなど、この際どうでもいいのだ。
彼がわたしに興味がないであろうことは、もうとっくからわかっていた。
それよりも、彼の心の中に醜悪な感情が渦巻いていることだけは認めたくなかったのだ。
もし彼からも悪意に満ちた心の声が聞こえてきてしまったら、これまでわたしが積み重ねてきた想いのすべてが崩れ去ってしまう。
子供のころから十五年間、ずっと想い続けてきた恋心。
彼と結ばれなくてもいいから、わたしの恋が無駄ではなかったのだと────
わたしが捧げた十五年間は、価値があるものだったのだと────
そう、思いたかったのだ。
(ここにいたら、彼の心の声が聞こえてしまう……! それだけは避けなければ────)
わたしは急いでこの場から立ち去ろうと、慌てて身をひるがえした。
だが、それは叶わなかった。
なぜなら、すでに彼が心の内側に隠していたものすべてを覗いてしまったから。
わたしは彼に背を向けたまま、その場で静かに佇んでいた。
すると無言で立ち尽くすわたしの背中を見て、心配した彼が小走りでわたしの前に回り込んできた。
「お、おい⁉ 急にどうしたんだよ、愛乃! ──って、うわっ⁉」
わたしの顔を覗き込んだ彼は、びっくりした顔で数歩退いた。
「なに…………? な、なんでおまえ……泣いてんの…………?」
わたしの両目にはたくさんの涙があふれていて、重力に耐えきれなくなった左目の涙だけが、わたしの頬を伝って流れていた。
わたしは──
彼が心の奥底に隠していたはずのものすべてを覗いてしまったのだ。
彼しか知らないはずの、わたしへの想いも────。
昔からわたしのことを好きだったということを。
ずっとわたしを想ってくれていたのだということを。
誰よりもわたしを大切にしてくれていたことを。
十五年間ずっとわたしだけを見ていてくれたことを。
そして何より──
彼の心からは穢れひとつない声しか聞こえなかったという奇跡が、これまで絶望に打ちひしがれていたわたしの心に、希望という名の小さな光を灯したのだ。
彼がわたしに気がないふりをしていたのは、彼なりのやさしさからだった。
自分に自信が持てない中途半端なまま、わたしに告白することを嫌ったのだ。
彼の夢は世界的に有名なパティシエになること。
いつの日か自分の夢を叶えることが出来たら、わたしに告白しようと考えていたことも知ってしまった。
そんなことをしているうちに、わたしが他の男とくっついてしまったらどうするつもりだったのだとも思ったが、それはわたしのことを真剣に想ってくれている証明でもあり、わたしにはそれがとてもうれしかった。
あの赤い石を拾ってから彼のもとに辿り着くまでの間、嫌というほど人間の醜い心だけがわたしの頭を支配していたが、最後に残った彼の心だけはとても綺麗で──
それだけで、わたしの心は満たされたのだ。
別れ際、わたしは彼に「いつまでも待っているから」とだけ伝えた。
彼は少し驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻って「わかった」と言って帰っていった。
次の日の朝────
もう他人の心の声は聞こえなくなっていた。
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