第二話「本性」
あてもなく彷徨っていると、今付き合っている彼氏が目の前から歩いてきた。
お互いにびっくりした顔で立ち止まる。
「あれ……
まだ付き合い始めて間もないが、とても素敵な男性だと思う。
初めてのデートの日に、いきなりホテルに誘われた時はさすがに嫌悪感を抱いたが、わたしが拒絶すると素直に謝ってすぐに身を引いてくれた。
それからは変な下心を見せることもなく、とても気が利いて優しくしてくれる。
わたしには昔からずっと好きだった人がいた。
子供のころから、いつも一緒になって遊んでいた男の子。
だが最近になって、その恋は報われない恋なのだと強く感じるようになっていたのだ。
そんな矢先。わたしの前に現れたのが、この人────
わたしが初めてのバイトの日、彼はとても熱心に仕事を教えてくれた。
それから数日後、わたしは彼に告白されたのだ。
思えば、わたしが彼の告白を受け入れたのは、初恋の相手を忘れるためだったのかもしれない。
彼は、爽やかそうな笑顔をわたしに向けて言った。
「こんなところで偶然出会うなんて、やっぱり僕らは運命の赤い糸で結ばれてるんだよ」
もちろん悪い気はしなかった。
きっと彼なら、一生わたしを大切にしてくれる。
そう思っていた。
だが────
「ところでさ……。今日の夜とか、どう? 綺麗な夜景でも見ながら、雪村さんとディナーしたいんだけど」
彼の言葉の裏側で、違う言葉が聞こえてくる。
『へへ。ラッキーだ! 絶好のシチュエーション! もう我慢できなかったんだ。上手いこと言って、今日こそは絶対に喰ってやる!」
わたしの心臓が、ドクンと大きく脈打った。
あろうことか、彼の心の内側にあるものも例外なく、声となって聞こえてきてしまったのだ。
『こんなイイ女とヤれるチャンスなんて、そうそうないからな。絶対に逃がさないぞ……! その前に徹底的に
わたしの思考が停止する。
あまりの衝撃に、彼に返す言葉が出てこない。
『従順になってしまえば、あとは思う存分楽しむだけだし、いくら躾けても思い通りにならないようなら、捨ててしまえばいいだけだ』
わたしは目を大きく開き、口をぎゅっと強く結んだ。
すると彼は無言で立ち尽くすわたしを、不思議そうな目で眺めながら言ったのだ。
「……どうかしたの、雪村さん? なんて顔をしているんだい?」
この時のわたしは、いったいどんな顔をしていたのだろうか?
もし彼の本性を知らないままいたら、弄ばれるだけ弄ばれて捨てられていたに違いない。
この時ばかりは、この『不思議な
そしてわたしは彼と一言も会話を交わすこともなく、そのまま逃げるようにその場を立ち去ったのだ。
彼が何かを叫びながら追いかけてきたようだったが、そんなことはもうどうでもよかった。
どうせあとでメールで別れを告げて、二度と会うつもりなどなかったからだ。
わたしは彼のことを無視して、ひたすら走り続けた。
どこに向かうでもなく、ただ無我夢中で走り続けたのだ。
しばらく走り続けて疲れたわたしは、息を切らしながらその場で足を止めた。
乱れた呼吸を少しずつ整えて、深呼吸をする。
そしてわたしは、そっとうしろを振り返ってみた。
「……いない」
自然とため息が出て、その場に立ち尽くす。
落ち着いて思考がクリーンになってから、わたしはあることに気がついた。
相変わらず、ぽつりぽつりと醜い感情が断続的に頭の中に流れ込んではくるが、これまで嵐のように聞こえていた声は幾分か少なくなっている。
周辺には民家もあまりなく、工場などの建物もない。物理的に周囲に人がいなくなったことが原因だろう。
恐らく一定の範囲内にいる人が対象になっているに違いない。
わたしは、行くあてもなくまた歩き始めた。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう?
あの石を拾ってしまったから?
どうしてわたしだけが、こんな目に合わなければならないのか?
歩きながらいろいろ考える。不満や後悔ばかりだが、これまでに起きたことを思い返して思考を巡らせていると、少し気持ちが落ち着いて楽になった気がした。
それから少しすると、わたしは自分の心の中にも醜い感情があることに気がついた。
さっきまでさんざん嫌悪していた人たちと何も変わりないではないか。
わたしは、自分の彼氏だと思っていた男の心に潜んでいた内側の声を聞いてしまったことで、本気で彼に災いが降り注げばいいのにと、知らず知らずのうちに心から願っていたのだ。
あんな男など不幸になってしまえばいいのだと────
この世のすべての絶望が、あの男に降り注げばいいのだと────
そう、わたしは望んでしまった。
あの男が悶え苦しみながら死んでいく
気がついたら、わたしの目から涙がこぼれていた。
わたしの心は、こんなにも醜かったのか────。
あの男は、わたしを弄ぼうとした。
だが──
だからといって人の死を望むなど、わたしは何様だ。
わたしは醜い────
そう思ったら急に自分がみじめに感じて、いたたまれない気持ちになった。
周りには誰もいない。わたしはひとりぼっちだ。
ただ悪意の感情だけが、声となってわたしを取り囲んでいる。
怖い、怖い────。
ひとりでいるのが、こんなにも怖いなんて考えたこともなかった。
不安に押しつぶされそうになりながら、わたしは歩き続ける。
夕日が照らす田舎道を、ひとりぽつんと歩く。
もっと人の気配がしない場所を求めて、当てもなく、ただ彷徨い続けた。
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