パンドラの瞳

音村真

パンドラの瞳

第一話「覚醒」

 拾わなければよかった──



 数日前。わたしは図書館からの帰り道でを拾った。

 最初は、ただの綺麗な赤い宝石のようなモノだと思って、なにも考えないで拾ってしまった。

 つい無意識で拾ってしまったのだ。


 拾って次の瞬間「早く捨てなきゃ」と思った。

 すぐに捨てたが、その直後からすでにが自分の身に起き始めていることを、なんとなく感じていた。



 うかつだった。

 どうしてを拾ってしまったのだろう?

 わたしは自分が持っている常識の外側にあることなど、天地がひっくり返っても起こるわけがないのだと、勝手に決めつけていたのかもしれない。


 子供のころ、親から『知らない人についていったら駄目』だとか『知らない人からお菓子をもらったら駄目』だとか、うるさいくらい言い聞かされていたはずなのに──。

 大人になってもそれは常識として当たり前のことで、が何なのかわからないうちは手にするべきではなかった──ということに私は気づけなかったのだ。



 しばらくして、わたしは自分の身に何が起きているのかを理解し始めた。


 そこらじゅうから、たくさんの人の声が乱雑に聞こえてくるのだ。

 周りには誰もいないはずなのに──。



 聞こえてくる声は、恐らくこの周辺にある民家に住んでいる人たちのものだろう。


 『あのクソ女、まじムカつくわー。お高くとまってんじゃねぇっつーんだよ! あー、ムカつく! まじで死ねよ!』

 『あそこの奥さんときたら……失礼しちゃうわ! せっかくこの私が近所でもらった野菜を好意で少し分け与えてあげたっていうのに、もっと高価なお返しを買ってこれないのかしら?』

 『あのクソ上司ども、偉そうに上から目線で俺をバカにしやがって! いつか痛い目に合わせてやるからな』

 『健二のヤツ、このアタシが彼女になってあげたっていうのに、なんてセコい男なのかしら? もっと貢いでもらわないと割に合わないわ』

 『さて……またいつものスーパーに万引きに行くか。あそこ絶対に捕まらねぇし……』

『また無能コメンテーターが、偉そうに的外れな意見ばかり口にしやがって! さっさと消えろよ、カス!』


 他人の醜い感情が、次々と頭の中に流れ込んでくる。

 聞きたくもないような心の声が、勝手に聞こえてくるのだ。



 醜い────

 なんて醜いのだろう。



 この声の主たちは、きっとうわつらでは、いかにも理性のある人間を装って平然と生きているに違いない。


 だが、わたしだけは知っている。

 いや、わたしだけが知っている。

 たった今──知ったのだ。


 お前たちの心が、いかに汚くて醜いのかということを────

 お前たちが、誰にも知られるわけがないと思って隠している心の内側を────

 たった今、このわたしが知ったのだ。


 こいつらは人間の皮をかぶっているだけの────

 ヒトのカタチをしているだけの何かだ。



 わたしは大勢の人の内なる声を聞いてしまったことで、人間というものがどんなに醜いのかということを初めて心から理解したのだ。


 他人のプライバシーを侵害しているも同然だが、まるで罪悪感など感じなかった。

 申し訳ないなどという気持ちは微塵も湧いてこない。

 なぜなら、そこに人など存在していないと感じたからだ。


 本当に醜い──。


 なぜ、こんな心の声が聞こえてくるようになってしまったのだろうか?

 思い当たることはひとつしかなかった。



「きっと、さっき拾った石のせいだ……」



 そう思って、わたしは捨てた石を確認するために足元を見渡したが、なぜかいくら探してももうその石は見当たらなかった。



 実際に、こうやって他人の心の声が聞こえるという設定は、映画やドラマでもよく目にする。

 だが実際に自分がなってみて初めてわかる。

 他人の声が────

 醜い感情が────

 勝手に頭の中に流れ込んでくる恐怖。


 まるで世界中が悪意に満ちているようだ────────。



 怖い……怖い────。

 わたしは、不安に押しつぶされそうになっていた。



 とにかくこの声から逃れるために、できるだけ人がいない場所へ────

 そう考えていたわたしの中に、ひとつの疑問が湧いてきた。


 なぜネガティブな感情しか聞こえてこないのか?


 これだけたくさんの心の声が聞こえてくるのに、なぜかポジティブな感情がひとつもないのだ。

 そこまで、この世の中は腐っているのか────?


 だが今のわたしに、そんなことを深く考察している余裕などなかった。



 あたりにある家から住人たちの醜い感情だけが、ひっきりなしに聞こえてくる。

 綺麗な声などひとつもない。

 こんなものを聞き続けていたら、本当に人間不信に陥ってしまいそうだ。 

 世の中にあるすべてのものが醜く感じられて────

 まるで自分の心までも侵蝕されそうで、とても恐ろしくなった。


「こんなの、知らないほうがよかった……」


 そう小さく呟いてから、わたしは小走りでその場をあとにした。

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