第18話 古代ギリシャの人間モデル

 この「単純な理解」はプラトンやアリストテレス、そして彼らの後継者達が前提とする人間モデルの決定的な欠陥だ。彼らの人間モデルは、ある刺激を与えられた人間は、特定の反応をするという仮説で成り立っている。たとえば、馬を「見た(これが刺激だ)」人間が、それを馬だと「認識する(これが反応だ)」というモデルだ。


 両者の違いは、プラトンが予めイデアによって理念上のイデアが決まっている(これがイデア論、かつ先天説だ)のに対して、アリストテレスは特定の肉体には特定の魂が宿り(これが内在説だ)、その中で人間の魂には学習能力があるため、知識を学ぶことによって馬を馬であると認識できるようになる(これが後天説だ)、という2点しかないし、アリストテレスは反イデア論なので、意図的にイデア論にならないように、自説の展開を行っていることは何度も述べた。


 ところが現実の人間、もしくは多くの高等生物にとって、認識は規則性の把握である。この能力が必要なのは、非決定的な世界で未来を予測する必要があるからだ。


 たとえば、あなたが道を横断しようとしたところで、数百メートル先から車が走ってきたとしよう。その車がそのまま減速しなければ、自分が轢かれてしまうと「予測」し、それが危険であると「判断」したのであれば、あなたはそれを回避すべく小走りになるか、あるいは横断を止めて元の場所に戻ろうとする、すなわち「行動」するだろう。


 この「予測」をする時に必要なのが認識、つまり規則性の把握だ。規則性を把握していれば、次に何が起きるかを予測することが可能だからだ。もちろん、現実には非決定的な面があるので、必ず予想した通りに物事が起こるとは限らない。


 先述の例であれば、車を避けようとしたら同じ方向に車が曲がってきたので轢かれてしまった……というような状況もあるだろう。だが、予測する能力が無ければ、そもそも車を避けようという判断は不可能になる。そして、プラトンやアリストテレスの説がベースの人間モデルは、概ねこの予測能力を欠いている。


 プラトンはイデア論(外在説)&先天説なので、車のイデアとして「人間を轢く車」あるいは事故のイデアとして「車に轢かれるケース」があり、それを人間が思い出すことによって、事故が回避できるということになる。


 正直に言うが、とてもそのようなモノが我々の世界の外部に存在するとは思えない。


 一方のアリストテレスが唱えた内在説&後天説は、どうだろう? 彼の主張通りだとすれば、車という機械には「車とは何であるか」という問いから導き出せる「本質」があり、それを理解し学習することによって、車に人間を轢いてしまうという危険性がある事が認識できるようになる、ということになる。


 繰り返しになるが、これは内在説を自明にする人にとって疑う余地のない真理だ。車の「本質(存在)」さえ把握していれば、それが人を殺す凶器になるのは自明であり、その事実は後天的に学習することが可能である……という説明に、論理的な問題点があるとは思えない。


 もちろん、問題はある。まず、科学的に「イデア」が証明されていないのと同じように、「本質存在=実体」も証明されていない。従って、内在説も根拠が無いという意味においてイデア論と同等である。


 次に知識を学ぶことによって、後天的に認識が形成されるという説も怪しい。どういう意味で怪しいのかというと、この説が正しいのであれば、既存の知識に無い新しい認識は学習の対象にならないため、そもそも認識ができないということになってしまう、という意味で怪しいのだ。


 現実の人間は、得られた様々な情報から規則性を仮定(これを仮説と呼ぶ)し、それをそのまま信じるか、あるいは本当に規則性があるかどうかを検証する。この繰り返しが、人間に新しい認識(執拗に書くが、この場合の認識とは規則性の把握のことであって、視覚のアレゴリーではない)をもたらす。


 ところが、アリストテレスの説にこうしたプロセスは明示されていない。これは当然で、アリストテレスの認識論が視覚のアレゴリーを基本としている以上、人間に「規則性を仮定する能力」や「仮定した規則性を検証する能力」があることは想定されていないのだ。


 アリストテレスは、この問題に「可能態」や「現実態」という概念を提示して説明を試みようとしているが、当たり前の話だが失敗している。彼の理論のスタート地点が、世界を見える・見えないに分けるという考え方である以上、どれだけ精緻な理論を組み立てようが、どうしても例外が生じてしまうのだ。


 そして、これも繰り返すがプラトンのイデア論も視覚のアレゴリーを前提としている以上、アリストテレスの反イデア論との一元化が可能である。


 イデア論と反イデア論(内在説)が一元化可能、というのは一見すると矛盾律に抵触するが、イデア論は我々の世界の外部に異世界が存在するという説なのに対して、内在説はある個物の内部に本質が潜んでいるという説なので、これを一元化するのはそれほど難しくない。


 つまり、個物の内部にイデアが「潜んで」いればいい。もっと極端な言い方をすると、個物の内部がイデア界のゲートのようなものになっていればいいわけだ。


 この考え方を、新プラトン主義と呼ぶ。

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陰謀と教養。あるいは、どうして高い教養を備えた人々が、陰謀論をあっさりと受容してしまうのか? 鳥山仁 @toriyamazine

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