第17話 タブラ・ラサ

 この人間モデルに従えば、魂を持つ人間は欲求する能力を備えており、この欲求によって獲得出来るものの一種が知識、ということになる。


 そして、この説を極限まで推し進めていけば、知識を必要とする文化的な全ての行動が後天的に決定されることになる。


 このような人間観を、アリストテレス自身は『霊魂論』で


「理性は可能的には或る意味で思惟されるものであるが、しかしそれが思惟するにいたるまでは、現実的にはそれらの何ものでもない。そして理性が可能的にそうであるのは、ちょうど現実的には何もそこに書きこまれていない書板のうちに文字があるようなものである」


 と説明している。


 古代ギリシャでは、木枠で囲んだ板の表面を蝋で覆ったものを書板という筆記用具の一種として利用しており(これを蝋板と呼称する場合もある)、知識を習得する前の理性を文字が刻まれる前の板に喩えたものだとされる。


 この「何もそこに書き込まれていない書板」という理性に関する説明は、紀元前3世紀頃から成立したとされる古代ギリシャにおける哲学の一派であるストア派に継承され、更に1~2世紀に存在したとされる、アエギウス(Aetius)という人物によって、ラテン語でタブラ・ラサ(Tabula rasa)と翻訳されたとされる。


 その意味は「文字の消された書板」だ。


 タブラ・ラサはイスラム世界における大学者だったイブン・スィーナー(980~1037)によって再解釈され、そこから更にイタリアの神学者だったトマス・アクィナス(1225?~1274)に伝わり、キリスト教神学に導入される。


 これがトマス主義だが、後述するようにキリスト教神学の基礎理論にはプラトンの思想が援用されていたため既存のキリスト教神学と対立し、やがてキリスト教神学としては衰退する。


 代わりに、タブラ・ラサを含むアリストテレス哲学を受容したのはヨーロッパ近代の哲学者達で、この用語を有名にしたのはイギリスの哲学者であるジョン・ロック(1632~1704)だった。


 しかし、アリストテレス哲学全般で考えた場合、より直截的にその論理を模倣したのはドイツの哲学者であるゲオルグ・ヘーゲル(1770~1831)であり、このヘーゲルの模倣者たち、いわゆるヘーゲル派は概ねアリストテレス哲学の模倣者であるとも言える。


 そして、イデアという仮説を元にしたプラトンの人間モデル(先天説)も、アリストテレスを元祖にしたタブラ・ラサ的な人間モデル(後天説)も、現実の人間からはほど遠いため、現実解析のツールとしては全く役に立たないどころか、たいていの場合害悪となる。


 先天説・後天説が危険なのは、現代に生きる我々が先天という言葉を聞くと、ほぼ反射的に遺伝的な要因や解剖学的な要因を想起して、さも科学的な根拠があるかのような誤認をする点にある。


 けれども、先天説はプラトンのイデア論、後天説はアリストテレスの反イデア論が根拠であり、グレゴール・ヨハン・メンデル(1822~1884)がブリュン自然協会で1865年に行った講演によって、遺伝学が始まった時期よりも2000年以上古いのだ。


 つまり、遺伝的かどうかと先天説には何の関係も無い。というよりも、遺伝学を優先するのであれば、そもそも先天的か後天的かという二元論的な区分はしない。


 例えば、有名な研究に双子が統合失調症を発症するかどうかという追跡調査があるが、2017年の研究では一卵性双生児の場合は30%が、二卵性双生児の場合は7%がどちらも統合失調症を発症するという結果が出た。さて、これを先天的か後天的かで決められるかというと……もちろん、無理である。


 何故なら、この研究では統合失調症の発症は確率的な事象として認識されているからだ。また、だからこそ発症するかどうかが確率で提示されているわけだ。


 ところが、先天説にせよ後天説にせよ、どちらも決定論的世界観が前提なので、先天的か、あるいは後天的かの二択になってしまう。未来が決定されている以上、先天的か、あるいは後天的かも予め決定されているので、「何パーセントの確率で発症するリスクがある」という説明は不可能なのだ。


 先天説・後天説が危険なのはこの点で、どちらを選んでも正しくない。これは陰謀論的認識のベースにありがちなパターンだ。


 また、その原因は、最初に書いた通りで、認識と視覚を同一視することによって、世界を見える・見えないに分け、見えない部分を認識できるようになれば世界の全てを認識可能になるため未来を予測できるはず、という考え方を自明にしていることにある。


 その結果として、ある人間が認識できない事象があったとしたら、その人間が「見えない」部分に「隠れている」あるいは「隠されている」何かを理解していないからだ、ということになってしまう。


 しかし、現実の認識能力は規則性の把握であり、視覚と同一では無い。視覚と結びついた認識力もあるが、五感とは関係の無い数学のような概念でも、規則性さえ在れば把握できる。


 逆に規則性が無いものは把握できないし、また規則性があると誤認してしまうケースもある。「隠されている」あるいは「隠された」部分が「見えない」から認識できない、という単純な理解は通じない。

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