第10話【完結】

「今日、これからあるって」

 門のそばの小屋の前で、僕はふたりを振り返り、語尾をかすれさせながらそう言った。

「え?」

「あ、そうなの? それじゃ……」

 聖なる地から戻ってきて、一夜明けた朝。これが最後と、いつものように日課として、寺の入口にやって来たところ、これから鳥葬が行われると、小屋のおじさんは言った。

 佳代も英恵も、当惑したような、複雑な表情を見せていた。本当に見ていいのかと、そんな表情だった。嬉しいよりも、戸惑いの方が大きかった。

「行こうか」

「うん」

 そして、僕ら三人はやってきた。鳥葬の丘に。

 薄暗い朝の空はどんよりとして風もなかった。色あせ垂れ下がったタルチョに囲まれた鳥葬台に、数人のチベタンが集まっていた。

「人がいる……」

 いつも無人の空間に、人間が集まっていることが、なんだか怖い気がした。

 家庭用のゴミ袋のようなビニールを手にしている人間が、四人。

 僧侶ともつかない、おごそかな顔つきをした人間が、一人。

 全員、日に焼けたチベタンの男性だ。

 僕らが近づいてゆくと、その中のひとりが、険しい顔をして立ちふさがる。

 見学を断られるのかと思ったけれど、その男は佳代と英恵の顔を少し眺めると、突然目元を緩め、表情を崩して手を広げる。

「鳥葬を見たいのか?」

 頷く僕らに男は、ぜひ見ていくといい、さあもっと近くにおいでと、鳥葬台の近くまで招き寄せた。

「うわ、怖い……」

 後ろの山の上には、これまで見たことのないほど多くのハゲワシがひしめき合っており、じっとこちらを伺っている。何羽かはすぐ近くまで降りている。上空にも多くが旋回していた。五十羽近くは優にいるだろうか。

 近くで見るハゲワシは大きかった。鷺や白鳥くらいの大きさがある。猛禽類独特のするどい目つきのせいか、特殊なものを食べて妙に肥えているせいか、優美な感じはまるでなく、ひどく禍々しい雰囲気があった。

「どこでしょうね……」

 英恵が言う。遺体のことだろう。近くには見当たらない。

「見て……」

 佳代が指差した先、坂道をワンボックスの車が登ってくる。

 鳥葬台から少し離れた所に止まったワンボックスから、ムシロに覆われた二つの遺体が引き出された。

「あれ?」

「あれかな?」

「そうだな」

 おそらく、ほとんどの日本人がそうであるように、身内や友人の葬式以外で、人間の遺体というものを、間近で見たことがなかったであろう英恵が、むき出しにされたそれを目の当たりにし、軽くショックを受けている。

「人だ……」

 鳥葬師たちが一斉にビニールを頭から被る。それは袋ではなく、レインコートのようなものだった。マスクをしてゴム手袋をし、さらに靴までもビニールで覆い隠す。

「汚れるから、だろうな」

 無造作に、ひとつの遺体がチベタンの手で運ばれ、ムシロを剥がされ、鳥葬台の石の上に乗せられる。

「え……」

 中年の男性だった。

 いいかげんに服を剥ぎ取られ、色のおかしい裸と性器がむき出される。次第に息が荒くなってゆく僕らの前で、遺体は物のように台の中央に転がされる。

 ひどく、恐ろしいものを見ることになる。……今さらそれを、実感する。

 ここから逃げたくなる。隣を見ると、佳代も英恵も落ち着きがない。ハゲワシがわめき出す。

 鳥葬師たちが、めいめい何かを手にする。それは、斧だった。

 目を伏せたかった。けれども、できなかった。

 何の合図もなしに、突如遺体の上に、力の限り、斧が振り下ろされる。

「っひぇ……」

 嫌な音が響く。幾度も幾度も、それが繰り返される。

 胴体が叩き潰され、両手両足がもがれ、そして首が落とされる。

 それぞれのパーツを、石臼のような小さな台に移し、そこでさらに細かく斧で切り裂かれて潰される。四人が交互に、餅つきのような様子で斧を振り下ろしてゆく。

 骨が露出し、肉が飛び散る。血はほとんど流れていない。すでに流れ尽くしたか、体内で凝固しているのか。

 パーツごとに細かくなった遺体が、さらにナタのようなもので潰されてゆく。できそこないのミンチになった遺体のそばから離れた鳥葬師が、なにやら空に向けて合図のようなものを出すと、全てのハゲワシが恐ろしい速さで集まってきた。

「……ああ」

 ハゲワシは猛烈な勢いで石臼を囲み、大きな音を立てて、肉を、内臓をついばみ始める。興奮した無数のハゲワシの中から、服の切れはしや肉片が宙を舞い飛んでいた。

 壮絶な光景だった。目をそむけることも、その場を動くことも、僕はできなくなっていた。たぶん、佳代も英恵も同じだろう。

 別の場所で、まだ半分以上ある、ミンチになっていない体の部位が叩き潰され始める。頭部を潰す場面だけは、僕は見られなかった。

 手足が形を残して転がっていた。斧を使うのは、肉だけではなく、骨も砕くためのようだ。ちらりと佳代を見ると、青い顔をして凍り付いている。

「え? 何?」

 鳥葬師がひとり、何かを手にして、僕らに寄ってくる。

 それは、肘から下の部分の、人間の手首だった。

 握手をしている形で持っているのは、おどけているのか、サービスのつもりなのか。レインコートにべったりと血と肉片をこびりつかせ、悪気のない笑顔で白い小袋から僕らに何かを取り出して見せた。頭蓋骨の欠片だった。

 英恵は今にも足から崩れ落ちそうなほど体を震わせ、佳代は顔を引きつらせながらも、それらをじっと見ていた。

 二体目の遺体が引き出されてきた。小柄な若い女性だった。

 英恵が一瞬倒れかけたので支える。大丈夫ですと言い、最後まで鳥葬を見届けた。


 死者の衣服を燃やし、遺骨なのか、小さな壷に頭蓋骨の欠片を少々詰め終えると、葬儀は終わりのようで、チベタンたちは後片付けをして、鳥葬台から去っていった。

 静寂が、鳥葬の丘に戻る。

 時間にして、一時間か、もっと長かっただろうか……。

 ハゲワシたちはまだ、丘の上にちらほらといる。気まぐれに招かれる聖餐に満足している様子だ。さっきまでハゲワシがひしめき、地面が見えなくなっていた鳥葬台の周囲には、よく見ると、骨のかけらや服の切れ端、そして血のこびりついた肉片が散らばっていた。

「肉体を、ひとつも余さず天に運んでくれる、っていうわけでもないんだな」

「骨は結構残ってるのね。……以前の人のものもあるみたい」

 丘の上から見下ろす世界を、白い雲が覆ってゆく。また雪になる。僕らは体を震わせながら、しばらくそこに留まっていたけれど、そろそろ行こうと、丘を降りることにした。

 村に戻るまで、僕らはほとんど無言だった。朝食はまだだったけれど、英恵がシャワーを浴びたいと言い、僕も佳代もそうしたかったので、どこにも寄らずに、宿に戻った。


 石川さんが残していってくれたオケを持ち、交代で行水シャワーを浴びる。凍えそうな体に熱いお湯が嬉しかった。湯気の中で、薄暗い照明を浴びながら、僕は思う。

 ……もう一度、なるたけ早いうちに、聖なる地へ向かうつもりでいた。

 佳代と英恵にそれは話さず、明日あたり石川さんと同じように、見送らせない工夫をして、そのまま聖なる地に、歩いて向かうことを決めていた。そのつもりだった。

 ……けれども、その前に見てしまった。諦めかけていた鳥葬を。

 美也子も石川さんも、これで心を持っていかれたのか。自分は今、どうなのか。

 ショックは受けているけれど、特別な変化といったものはない。感慨もあまりない。

 二人は、あの鳥葬に、何を見たのか。僕はずっと、あれを待っていたのではないか。見そびれた鳥葬から、何かを取り戻したかったのではないか……。


 ……美也子?

「また、雪ですね」

 シャワーを浴び終え、部屋に戻ると、美也子がいた。

 いや、それは美也子ではなく、英恵だった。英恵は窓辺に立ち、髪からしずくを垂らしながら、ちらりと振り返り僕に言った。

 僕は隣に立って外を見る。景色が白一色に彩られてゆく。

「鳥葬、どうだった?」

 英恵に聞くと、白い空の下で行き交う夏藩の住民たちを眺めたまま、そうですね、と前置いてから答える。

「失敗しちゃった」

「失敗?」

「はい」

「……それは、鳥葬を見たことを、後悔してるってこと?」

「そんなとこです」

 シャワーを浴びに行っている佳代が言っていた。死人からは、血は流れないんだね、やっぱりこれは、生きている証の色なんだね、と。

「あぎさんも、佳代さんも、インドへ行ったことがあるんですよね」

「うん」

「あっちでは、遺体が河原で焼かれて、そのまま川に流されるのが、毎日やってるって、本当ですか?」

「うん。やってる。人間は毎日産まれて、毎日死ぬから」

「それも、鳥葬みたいに、おっかないものなんですか?」

 少し考え、僕は答える。

「最初は驚いたけれど、そんなに怖くはなかった。すぐ近くで、みんな沐浴とかしてるから、あまりおどろしい雰囲気はなくて」

 当局により鳥葬が次第に禁止されていったのは、それを見た欧米人が、あまりに野蛮で残酷だからという、自分たちの価値観を押し付けた結果だった。

「インドに行くと、そういうのを見て人生観が変わるって聞いたんです。鳥葬も、きっとそうかなって、おぼろげに想像していたんですけど、全然違いましたね。違うものを私、焼き付けちゃったな……」

「…………」

「すごく、はっきり見えたんです。不思議なくらいに。暗い視界の中で、鳥や人間の身体が、光って浮かび上がっているみたいに。……私の心の壁紙、えらいことになりそう」

 出会ってからずっと、いつも朗らかだった英恵が、聞いたことのないような重い声で、かすれるようにつぶやいていた。

「今日はずっと、空が真っ白ですね。もしかしたら、青空の下でだったなら、もっと違って見えたのかな……」

「そうかもな」

「こんな曇り空じゃ、空にも昇って行けないですね」

 英恵は聞こえないようにため息をついて、自分のベッドに戻り、けだるそうに寝転がる。

 雪を眺めながら、僕は思う。白い窓辺に立っていた英恵の背中には、見覚えがあった。それは、美也子が鳥葬の丘から背負って帰ってきたものと、同じだった。

「……なんですか」

 英恵のベッドに上り、上に覆いかぶさる。面倒だとでもいうように、目を閉じる。唇を重ねても、声も出さず、拒否もしない。どこにも力が込められていない身体から、湯上りの甘い香りが、冷たく立ち昇っている。

 服の中に手を差し入れる。体温を感じる。美也子にも佳代にも覚えた、主が放棄していながらも、むやみに熱い体温は、ちらつく焚き火の終わりようだった。

「佳代さん戻ってきますよ」

「なんで嫌がらない?」

「別に……。断る理由もないですし……」

 フリースをたくし上げる。下着を着けていなかった英恵の、白く透き通った素肌が露になる。大きな胸に押し上げられていた布の下で、折れそうなほどに細い身体が、小さな動物のそれのように、早く細かく脈を打っている。

「……早く済ませて」

 片方の掌を僕の頬に当て、荒くなり始めている息の中から、英恵はため息を言葉にしたような声で言う。

「そういう風に、鳥葬を見てから、えらく変わっちゃった女がいたんだ。自分の身体がどうでもいいものになったみたいで。人形か、生きている屍みたいになって」

「きっと、私と同じですね。その人、どうしたんですか?」

 あさっての方向に目を向けたまま、英恵が消え入るように力なく聞く。

「遠くへ行った。うんと、遠くへ」

 そうなんですかと、少しだけ口元を緩めて英恵は言う。なめらかに反らされた首筋と、はだけられた胸は、生贄として神に心臓を捧げられる少女の奴隷のようだ。

「すごく遠くにあるのに、すぐに行ける場所なら、私知ってますよ」

 十万億土とでも言いたいのか。それとも涅槃か黄泉の国か。英恵はもう、持っていかれてしまったのか。

 ……そうはさせない。

 僕が一緒にいて、そうはさせない。二度と。

 体を離し、ベッドから降りる。ひとつ腕を伸ばして、僕は言う。

「よおし、これから出かけよう」

「……はい?」

 英恵に支度をさせ、戻ってきた佳代にも、外に出るからとっとと着替えろと言う。

「外は雪だよ? こんな中、どこへ行くの?」

「鳥葬の丘」


 木の生えない白い丘を登ってゆく。

 霧にまかれて雪を踏みしめる坂道。走れば死ぬ薄い空気に息は切れ、早鐘のように鼓動が胸を打つ。

 やがて、丘の頂にたどり着く。

 わずかに視界が利く地面の他には、何も見えない。霧は濃く深く、ミルクの中にいるようだ。

 遥かな南の果て、この世のはじっこにいつも漂っているという、深い霧の中に立ち、荒涼とした大地をひとり眺めたならば、こんな気持ちになるだろうか。下界からはるか離れた高所にあるこの地の寒気に、身をすくませながら思う。

「寒いなあ……」

 むかし、北の海に新しい航路があると、多くの冒険者が白い海へ旅立った。

 十八世紀、十九世紀、そして二十世紀と、霧と吹雪と氷だけが統べる水路の先へ、恐れを知らぬ男たちは、競うように舳先を進めた。

 彼らのほとんどは戻ることはなく、僅かな生還者は皆、口を揃えて言った。何も無かった。危険なだけで、そこから得られるものなど何もない、白い地獄だった。

 ここも、同じだろうか。世界のどの海からも一番遠いここには、あらゆるものが何もなく、何も見えない。

 空虚な時間は長く辛く間延びし、このままずっと終わらないのではとさえ思えてくる。

「……はあ」

 幾度目かの深い吐息をつく。それが、合図となった気がした。

 頬をかすめ、ひとつ風が吹く。うつむいていた顔を上げる。

 霧が風に流され、視界が開けてゆき、遠くまでが見渡せるようになる。

 所々に岩が覗くだけの、雪をまとった白い荒野は、なだらかな丘の連なりで、どこまでもゆるゆるとうねり、地平の果てまで続いていた。

 風はさらに強く走る。高く大きく遠くまで駆け抜け、青空を覗かせてゆく。

「…………」

 雲の切れ間から陽光が射し、全てのものを強くまぶしく照らす。地上を覆う雪はまたたく間に溶けてゆき、彩度のなかった視界が鮮やかに色づいてゆく。

 白はいつか、残らずきれいに消えていた。霧と雪に閉ざされた丘の一辺が、わずかの間に青い空に抱かれた、広大な世界の頂に変わったのだ。

「すごい……」

 魔法のような、世界の創造の瞬間のような、劇的な変貌だった。壮大な組曲が流れ終えた後の、万雷の拍手が聞こえてくるようだった。


――ここには、全てがあるの。全てのものが、ここにあるの――


 いつか僕の隣で、美也子がつぶやいた言葉を想い返す。もう戻らないものの言葉が、蒼い虚空にほどけてゆく。

 風の中に、命を育む豊饒の匂いがする。焼けつくような強い陽射しに、身体はすぐに汗ばんでゆく。凍てつくようだった空気が心地いい。

 手をかざし見上げた空までは、もうすぐ届きそうに近い。風に抱かれ空に抱かれ、全ての行方をこのまま見つめていたい。

 どんな南の島の空でも及ばない、深くまぶしく美しい青がそこにあった。


「すごい、青色……」

 見上げた空に手を伸ばし、指の隙間に風を受けて、佳代がつぶやく。

 これまで見た空の中で、いいや、この旅だけでなく、人生で一番美しい青色が、そこにあった。

「まぶしいですね。見えます。ちゃんとまだ、見える」

 額に手をかざしながら、英恵が言う。

「あぎさん、これを見に来てたんだね。いつも」

「な? いいだろ?」

 鳥葬を見た美也子は、魂の抜け殻のようになり、どこにも行きたがらなくなった。僕はひとり、鳥葬の代わりにこれを見た。

 ある朝、置手紙のひとつもなく、美也子は姿を消し、どこにも現れず、そのまま行方不明とされた。時たまチベットなどでは、日本人旅行者が行方不明になり、ゲストハウスで人探しの張り紙が出されたりするけれど、見つかることはまずない。美也子も例外ではなかった。

 あの時、力ずくでも連れ出して、一緒にこれを見ていたならば、違っていたのかもしれない。

「晴れなかったら、雪の中で凍えて帰るだけだったじゃない」

「でも、晴れるんだ。ここは、必ず」

 まったくと、佳代が呆れながらも、愉快そうに彼方を見渡す。背後に鳥葬台が見える。風を受けて雨を浴びて陽に焼かれ、タルチョが時を刻んでいる。

「英恵さ、こっち焼き付けておけよ」

 そうしますと、笑顔でこくりと英恵は頷く。

「ここでこうして、生きていたことを、忘れるなよ」

「そうし……ます……」

 英恵の声が震える。強い陽射しの中で、土の上に、骨の上に滂沱する。

「……私、泣けなかったんです」

 子供のように、涙で顔をぐしゃぐしゃにし、しゃくり上げながらも英恵は、しっかりとした口調で言う。

「誰かのためには、泣けなかったの。言葉を使い過ぎてたら、なんだかわからなくなって。なにもかも、わからなくなって。もう、それでいいんだって思えてきて。……だって、そんな私にも、いっぱい、いっぱいいてくれたから。……でも、でもね、今ね、誰もいなくなった私がね、なんだかさ、こんなに、こんなにね……」

 ひとしきり、体の奥から痛みを搾り出すように、涙を流し続ける英恵。

「あはは、どうしたんだろう。心なんか真っ黒な私が、カメの産卵みたい。もう一生分、みんな出しきっちゃいたい」

「心が真っ黒なら、あたし負けてないわよ。……ちょっとあぎさん、なに頷いてんの」

 佳代の涙も、僕はこっそり見たことがある。泣けるならばいい。心はまだ死んでいない。血と同じだ。死者からは涙は流れない。

「鳥葬見たし、目的果たしちゃったね。石川さんもいなくなっちゃったし、みんなでどこかまで移動する?」

 佳代は日本まで、英恵と一緒に帰るのだと言っていた。ひとりにさせるのは心配だし、仕方ないよねと言っていた。

 僕にも今は、目的がある。それを二人に告げようとする。

「あのさ、僕……」

 電子音が鳴った。

「うん?」

「あれ? 携帯? 誰?」

 着信音は僕のポケットから聞こえていた。

「あ、英恵のだ。借りたままだった」

「え? 誰だろ? こっちでは日本とは繋がらないのに。あぎさん、出てもらえます?」

 いいよと携帯を取り出し、ニーハオと耳に当てると、聞き慣れた声がそこから聞こえてきた。

「終わりだってよ」

「…………」

「終わり。だから、これからまた始まりさ。あ、最初は、最近暑いねえとか、世の中大変だよねとかを、挨拶代わりの話題を出した方がいいのかな?」

 石川さんだった。僕の周りの風だけが、その時止まった。

「雨やら雪やら、本当に忙しい空模様だな。それでも必ず、この空の色だ。いっぺん一日、ぼーっと眺めていればさ、心に壁紙みたいに焼きついてくれるかもな」

 大きな窓を開けて、風を受けて、長い足を投げ出している姿が見えてくるような、石川さんの声。

 姿は見えないけれど、声は見えているよりも、そこにその人を感じさせてくれる。青い虚空に、そいつの身勝手な顔が浮かぶ。僕は応える。

「……こんなに眩しい空が、いちいち画面に映ってたら、ぼーっとしかできなくなりそう。もっと、狭い空でいいです」

 ふんと、石川さんは、どこかの空の下で鼻を鳴らす。

「昔の輝きが、そこに見えてしまうような言い方だな。あぎさんはまだまだ途中さ。人生で一番素晴らしい場所、旅の途中さ。早起きして、朝日をいっぱい見るといいぞ。旅の途中の醍醐味さ」

「そうですね」

 佳代と英恵が、誰? 誰? と聞いてくる。

「朝の庭はいいぞ。ひだまりに立って、世界の終わりの波濤を受けている心地で目を閉じると、なにやら予感が湧いてくる。世界のどこの街角だろうと、朝は同じようにやってくるからな」

「前にもそんな話をしましたよね。ヒマにまかせて一日中ストーブの前で。地の終わりが海で、その反対が地の果てでチベットだとか。あと、季節のある国とない国についての、人間のセックスの違いがどうとかって。あれって、結論出ましたっけ?」

「答えを見つけたり、結論を出すために、俺たちは生きてるわけでも、恋をするわけでもセックスするわけでもないさ」

 くすりと笑い、鼻をすする。

「しれっとそうやって、スケベな話に持っていこうとする。もうちょっとましなこと喋れないんですか」

「まとも? チベタンの少年が長い服を土に引きずって、バスを待っている時の表情の神々しさについてとかか? それとも、旅で眺める海は、対岸が見えるヨーロッパの国境がいいか、雪の舞う荒くれた断崖がいいか、夕暮れの与那覇前浜がいいかなんて話を、文学的な表現を交えて話せっていうのか? 二分くらいなら、つきあえるぞ」

「なんで二分なんですか。どこから出てくるんですか」

 石川さんなの? どこにいるの? としきりに聞いてくる佳代。

「二分あれば、誰かを好きになるには充分だ。そいつを知るには充分さ」

「ねえ、今、どこにいるんですか?」

「今どこにいるかって? 初めてチベットを訪れた時みたいな、夢の中にいるような景色が見えてるな。ここを、どう伝えればいいのかな」

「あの中じゃないんですね?」

「あの中っていうのは、抽象的な表現か? ともかく外にいる。ちょっと、行く場所が見つかったんだ。ううん、場所じゃないな。居場所かな。まあ、そいつのせいで、当分忙しくなりそうだ」

「もしもし? 石川さん、どこ?」

「あぎ、お前の想定は、外れだ。そしてな、俺の想定は、ほぼ当たっていたぞ。あとは察してくれ」

「呼び捨てにすんなよ! カッコばっかつけて」

 笑いながら怒鳴り、ぼろぼろとこぼしている僕を、佳代と英恵が不思議そうに見ている。バカ野郎この人間のクズと、思いつくままの罵詈雑言を口にする。お前なんかさっさと、どっかで風にでもなっちまえと言う。

「風になるのはもういいさ。透明になるのもいい。おっと、そろそろ電池が切れてきそうだ。充電ばかりさせられる古い携帯ほどイラだつものもないけれど、そいつが充電できた時の愛おしさも悪くないんだよな。そうそう。想定は外れだったけれど、偶然ビンゴだったものもあるぞ。ちょっと代わるけれど、本人の意向と諸般の事情で、ひと言だけだって。ちょっと待ってろ」

「もしもし? なんだって?」

「ねえ、ちゃんと食べてる?」

 壊れたオモチャのような、軽やかな細い声。

「心配しちゃったよ。相変わらず、水ばっかり飲んでちゃダメだよ。いつかまた、いっぱい話そうね」

 言葉をなくしていると、すぐにまた、石川さんの声が聞こえてきた。

「あそこにはもう誰もいないし、何もない。それだけを伝えたかったんだけれど、要点をまとめようとすると、余計に長くなっちまうもんだな。あ、置いてったギターだけどな、あの店にでもあげてやってくれ」

「……どこ? どこに? 会いたい」

「ちょっと遠いんだ。でも、いつか会えるよ」

「もしもし? 石川さん、もしもし?」

「じゃあな」

「あぎさん、ねえ、あぎさん、替わってよ、石川さんなら、替わって!」

 佳代が肩を揺する。あごから鼻先から、しずくが虚空に舞い落ちる。

 佳代は僕からむしり取った携帯の画面をじっと見てから、英恵にひとつ首を振る。

「切れちゃったの? もう、さっさと替わってよ。こっちからかけ直そう。通知はあるよね?」

「あぎさん、誰と話してたんですか?」

 世界はもう狭いという。けれども、そうでもない場所だってある。

 ここには、走り終わることのない地平がある。神々の庭園のその先で、空の向こう側と繋がっている。

「ねえ、ちょっと、あぎさん?」

 濡れた頬をぬぐい、ぼやけた視界も一緒にぬぐう。

「佳代、前にさ、ここで一緒に裸になっただろ。なんかあれ、すごく気持ち良かったよな」

 訝しげな顔つきがさらに深まり、互いに顔を見合わせた二人だったけれど、そんなことしてたの? と、からかうように英恵がにやけ出す。

「やっぱりここだと罰当たりだからさ、晴れたし、向こうの岩山行って、もういっぺんやってみようか」

 こういう提案を、つまらなく拒否するのは、佳代には似合わなかった。本人もそれをわかっているようで、すぐに斜に構えた生意気な表情を見せ、いいわね行こうと笑って頷く。

「え? あたし、やりませんから」

 丘を降りる途中で、英恵がきっぱりとした口調で言う。寺の裏まで下ってゆくと、いつもの門番のチベタンが、小屋の中で一生懸命何かをしている。ちらりと窺うと、携帯をいじっていた。きっとラブレターだよと、勝手に決め付ける。

「いいかげん腹減ってきた。食べてってからにする?」

「どっちでも。それよりあぎさん、さっきのこと」

「あたしやらないからね」

 夏藩のメインストリートを、顔なじみになったチベタンたちに声をかけられて歩いてゆく。ぬかるんだ足元を気にしながら、いつもの店に向かう。

「大盤鶏でも食べようか。鶏一匹丸ごと煮。鳥葬の村だけに」

「ものすっごくつまらない冗談ね。いいわよ」

「いいですよ。やらないですよ」

 雪解けの水がうるおす空気の中を、子供が犬と走り、女たちが明るい笑顔を交わして歩いてゆく。百年前と変わらない光景が、時を外れ時計を忘れて生きている。

 どこかにある地の始まりから、朝の光は世界中の街角にひだまりを落とし、村の少女と歌い、旅を続けてゆく。気高く生きる古い旅人のように。

「見て、まだ続いてる。この色」

 三人で見上げた空には、ブルージーンズのようなチベット・ブルーが風をまとい、ささやかな目抜き通りを見下ろす屋根の上で、羊のような雲を遠くまで運んでゆくのが見えていた。


                                ――了―― 

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チベット・ブルー 黒白さん @kuro0_0shiro

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