第9話

 打ちつけた窓の隙間から、室内に稲光が差し込んでくる。外はもう吹き降りの雷雨だった。

「雨はじきに止むよ。それまでここで休んでいればいい。そのくらいの間は、大丈夫だ」

「そのくらいって?」

「そのくらいさ」

「いえ、大丈夫って、何がですか?」

「大丈夫ってことだ」

 聞き慣れた、低く穏やかな声が、闇の中から聞こえてくる。それは間違いなく、石川さんのものだった。

「崖の上で、佳代と英恵が、僕を待っているんです。そっちは平気かな」

 忍者屋敷のどんでん返しのような形で開いた壁の扉から、家の中に入るように石川さんに言われたが、室内は真っ暗で、ずっとその姿が見えない。

「車内にいれば大丈夫だろ。あぎさんを置いてどこにも行かないし、行けないよ。ただ、ここにはあまり、長くいてはいけない。雨が上がったら、なるべく早く帰るんだ」

 たまに差し込む稲光のおかげで、この家の中が、粗末な椅子とテーブルと、むしろのようなものが散乱しているだけの、殺風景な空間であることがわかる。

「石川さん」

「うん」

「おととい、鳥葬を見たんですね」

「ああ。見た」

 やはり、石川さんは、鳥葬を見たのだ。美也子と同じように。

「そのまま宿を出て、ここに来たんですね」

「うん」

 時折轟く雷鳴が、土壁を揺らす中で、石川さんは僕の質問に、どこかから穏やかな声で短く答えてくれる。

「もう、戻らないんですか?」

 ほんの少し間を置いて、石川さんは同じ返事をする。

「ああ」

 次の言葉を、少し選んでから口にする。

「……僕らは、石川さんのことが心配で、もう一度石川さんに会いたいと思って、ここに来たんです」

 闇の中で、見えない石川さんの気配が、そっと揺れる。笑っているように。

「ありがとう。でも、ここで遠慮させてもらうよ。二人によろしく伝えてくれ」

 またひとつ、稲光。一瞬照らし出される室内に、石川さんの姿は見えない。ただ、どこかへと続く扉が、向かいの壁にあるのが見えた。

「心配させちゃったな。ここまで俺の無事を確かめに来てくれたのなら、とても嬉しいし、そこまでさせてしまった君たちに、本当に申し訳なかったと思ってる。身勝手な行動を、どうか許して欲しい」

「石川さん」

 あの扉の向こう側は、隣の家なのだろうか。この町は家同士が、中で繋がっているのかもしれない。入口もないわけではなく、このように隠れて、まとめて作られているのかもしれない。

「そんなことはいいんです、無事でさえいてくれたら、いいんです……って、そう言えればいいのだけど、僕ももう、戻りません。一緒にいます」

「なんだ、それ」

「石川さん、ここで死ぬ気だし」

 稲光がまたひとつ、闇が支配する室内を照らす。雷鳴が尾を引き、拡散するように消えてゆく。雨音を愉しむような口調で、石川さんが答える。

「いつからそんな風に、俺を見ていたんだ?」

「最初から」

 少し間を置いて、石川さんは答える。

「まいったな……」

 やれやれといった口調。僕は言葉を続ける。

「一度は、そういう気はなくしたのかと思いました。夏藩を出るって言ってたから。でも、大事にしてたギターを置いてまで、身軽になって消えたから、ここに違いないと思って、追いかけてきました」

 轟音に紛れ、石川さんはひとつ息を吐く。

「……まさか、あぎさんにそうやって見られていたなんてな……。自分のことは、自分じゃわからないもんだな」

「僕も、崖の上で言われて、初めて気づきました。そうやって見られていただなんて」

 互いの口元が、同時にそっと弛んだ気がした。優しくぶっきらぼうな口調で、石川さんが聞いてくる。

「一緒にいるって、どういうことだ? 俺がここで自殺でもする気でいるなら、考え直して連れ出すまで、そばにいるってことか?」

「別に、いいですよ。それならそれで。ただ、一緒にいます」

「何だかな」

「どうせ、日本にもどこにも、戻る気なんてありませんでしたから」

 美也子を失い、ひとりになってから、僕の前にあったはずの道は、ひとつひとつと、見えなくなっていった。

 ただひとつ、真っ暗な、いや、真っ白な霧の中で、覚えのある道が浮かんで見えていた。

 僕はそれだけを、とぼとぼとたどり、またこの地に導かれていた。ただひとつの後悔を支えにして。

 ……もしもあの時、美也子と一緒に、鳥葬を見ることができていたならば……。

「元気になったように見えたけどな」

 抜け殻のまま、再びたどり着いた夏藩に、この人がいた。散歩や食事に誘い、草の上でギターを弾いてくれた。

「石川さんが、いっぱい歌を聞かせてくれたからです」

 毎朝二人で、鳥葬を求め、夜明けの道を並んで歩く中、時々横目で、高い所にある遠い瞳を、僕は伺っていた。どこにも通じていない、虚無のようなまなざしには、覚えがあった。

「せっかく元気になってくれたのに、道連れにさせちまうんじゃ、しょうがないな」

「だったら、一緒に戻ります?」

「そうしたら、その後どうするつもりだ?」

「そりゃ、ずっとついて行きます」

「ずっと?」

「ずっと」

 愉快そうに、大時代な話だなと笑い、困ったなと石川さんはつぶやく。

「そこまで言ってくれて、嬉しいけれど、そりゃ、だめだ」

「僕、勝手にそうしますけど」

「佳代ちゃんと英恵ちゃんが、崖の上で待ってるだろ」

「…………」

 こみ上げていた感情に、冷や水が注がれる。

「二人は何もわからず、あぎさんが戻って来るまで動けないぞ。危険な場所でずっと待ちぼうけて。どうするつもりだったんだ?」

「……いやあの、その、……忘れてました」

 本当に忘れていた。我ながら、ひどいと思う。

「戻ってやれ。すぐに。そして二度と、ここに連れて来るなよ」

「すぐに、ですか……」

「早い方がいいだろ」

「外輪にいても、危険なんですか?」

「あぎさんはさ」

 僕の質問に答える代わりに、石川さんが聞いてくる。

「この町が、どういう場所で、この地形が何なのか、理解したのかい」

「町はわかりません。さっぱり」

「この、妙な穴は?」

 ひとつ息をついてから、僕は答える。

「実験の結果ではなく、偶然の事故で出来てしまったのかと……。ネバタの同じクレーター群や、カザフとかウラルでのそれを、わざわざ見に行っていた、物好きなバックパッカーに、画像を見せてもらったことがあったんです。さっきまで、思い出せなかったんですけれど」

 百キロトン超の実験により生成され、現在観光地になっているセダン・クレーターなどに比べると、ここのクレーター直径は、その数倍はある。これだけの規模の穴が生成されたとなると、メガトン級の実験か、事故が起こった結果だろうか。

「事故はないよ。うっかりそうなったってのは、機序的に、およそあり得ないんだ。明確な目的を持って、ここでそれは行われたのさ」

「そう、なんですか……」

「そこまでわかっていたなら、ここにいるのが、どれだけ危険なのかも、わかるだろう?」

「石川さんは、最初に来た時から、わかってたんですか?」

 いいやと否定しながら、告白する石川さん。

「……夏藩の古老から、ようやく聞き出せたんだ。ずっと昔に、地平に神が現れたのを見たって。その光を浴びて、多くの羊が死んだ。ヤクも死んだ。……神が降りたそこには、かつて神聖な場所があった。当局から、危険な事故で、そこは無くなったから、近づかないようにと言われた。けれども、そこに向かう者たちがいた。行ったきり、誰も戻らなかった。やがてそこに、いつのまにかまた、町ができていた。いや、ひとの住めない、町みたいな何かができていた」

 毎日、夏藩のあちこちを訪ね回り、信頼を積み重ねていたのだろう石川さんが、世界中のどこよりも、ここが好きだと言っていたのを思い出す。

「このあたりの旅行者が、ごく稀に言うんだ、おかしな場所を見たって。誰もおらず、誰も住めない、旗ばかりが立っている、奇妙な町を通る時、決まって、バスの車内は、誰も何も喋らなくなる。目を伏せ、それについて一切口を開かなくなる。……古老の話と、そのへんを照らし合わせて、ようやくピンときたよ。ここに、チベットに、あったら困るものを、一番確実な形で消したんだ」

 渇いた喉を、苦い味のする唾が落ちてゆく。風と共に流れる雨音が届いてくる。失われた者たちを歌う、河のせせらぎのように聞こえる。

「背景はわかったけれど、再建とも言えない、この建物の群れの正体なんて、わかりゃしない。ただ、ひとつだけ確かなのは、ここは他のどこよりも、ひとが近づくことのできない場所だ。……生きていたい人間であればな。つまり、そいつらから何かを隠し、守り、触れさせないようにするには、最適な場所さ」

 行くだけならば、行ける。戻らないことを、前提とするならば……。

「俺はひとつ、このヘンテコな場所に対しての、ある仮定を立てたんだ。おそらくそれは、当たっていると思う。あとどれだけ、ここでこうしていられる時間があるのかわからないけれど、残りの時間を、ここに捧げるつもりさ。ここが、気に入ったんだ」

 ひとつ間を置くようにして、石川さんは言った。

「ここにはな、全てがあるんだ。全てのものが、ここにあるんだ」

「…………」

 ……その言葉。まただ。どうなっているんだ、ここは。

 そんなのうそだ。そんなはずないじゃないか。チベットになんか何もない。ここには何もないんだ。

 なのに、どうしてそんなことを、どいつもこいつも言うんだ。

「どうして……。佳代や、英恵はともかく、石川さんは、何かを失ったわけでもないのに、一体どうして……」

「あぎさん、俺にはな、もう、居たい場所がないんだ」

 問いかけようとした僕に対し、また石川さんが先に口を開く。

「皆が苦しみ、ひとによっては命がけでも手に入れようとする、普通ってやつを、俺は当たり前に完璧にできた。それに迷ったことも、そこから外れたこともない。そんなのはみんな、くそったれにしか映らなかったけどな。そんな俺の行き着いた先が、放浪まがいの海外旅行だった。次の町へ行けばいくらでも新しい出会いがある。しがらみなんてひとつもない。楽しいのが当たり前の、普通さんたちが忌み嫌う本物の自由の中で、思う存分誇らしいのだろう時間を過ごしてきた。……そんな愉快な、いつもと変わらないある夜にさ、ふと、思ったんだ。……俺の足跡が一番、くそったれだな、ってな」

 いつものような、という表現がいつも似合っていた、石川さんの口調が、これまでとははっきり違っていた。僕はしばし、呼吸を忘れた。

「それに気づいてからは、もう、だめさ。何をやっても。それからはさらに、無茶もいっぱいした。しまいにゃ、全てが青い、世界の上の果てにまで立ってみた。そこではっきり、わかったんだよ。……俺にはとっくに、行きたい場所なんてないんだって。なくしちまったんだって」

 佳代の告白と同じだろうか。行き過ぎた者の言葉なのか。

「何かを失ったわけでもないのにって、あぎさんも言うんだな。ふふ。恵まれた奴の特殊な苦しみで、ぜいたくな悩みかい? でもな、自分を損ねることなんかで、俺は苦しんだりなんかしないさ。むしろ、こんな自分、さっさと消えちまえとしか思わないさ。どこかの旅の空の下で、どうでもいい相手にでも殺されて、野垂れ死にするのが夢さ」

「……ごめん、石川さん」

「なんでかなあ……、そんな下らない俺みたいなのに近寄ってきては、あぎさんみたいなことを言ってくれるひとがいるんだ。一緒に行くって。地の果てだろうと、あの世までだろうと、どこまでもついて行くって。……本当に、うっかり先に行っちまった奴がいるんだ。二人」

「話してくれなくて、いいって」

「もう、ごめんなんだ。俺は繰り返し、誰かをおかしくしながら、誰も救えない。誰のためにもなれないくせに、誰かを求めることもやめられない。振り返れば生きてるような骨が転がってる、そんな夢ばかり見て、夜中に目が覚める日々の中で、次の何かを始めることももうできない。忘れることもできなければ、新しいこともやれない。……ここ最近に、決めたことじゃないんだよ」

「そんなの、聞きたくない」

 後悔でも、懺悔でもない、済んだことを、ただそうだったと語る愚痴を、僕は、このひとの口からだけは聞きたくはなかった。

「ただ、たださ、見ておきたかったんだ、鳥葬を。なぜだか一番好きになったこの地でだけ、ずっと残っていた、鳥葬を」

 雨音は、少し小さくなっていた。雷鳴も遠のいただろうか。それでも時折、稲光が室内を照らし、ぼろぼろの土壁と古い木戸を照らす。

 僕はそっと、椅子から立ち上がる。

「そうしていたらさ、あぎさんが来て、佳代ちゃんが来て、英恵ちゃんまでが、死神に魅入られた顔してやって来て、なんだかなあって、おかしくなってきたよ。……楽しかったな。何百回も繰り返してきたはずなのに。もう一度俺も、今を素直に楽しめるのかなって思ったよ」

 暗い室内を横切り、木戸の前に立つ。

「けれどもな、見てしまったんだ、鳥葬を……」

 戸を開けようとすると、強く遮る声が闇の中に響いた。

「あぎさん、だめだ」

 声はどこからだろうか。木戸の向こうから、ではないのか。

「……石川さん、どこなんです?」

 闇の中で、周囲を見渡す。またひとつ、稲光が弱く室内を照らす。ずっと遅れて、遠い太鼓のように、雷鳴が地上を渡る。

「どうしてさっきから、姿を見せてくれないんですか」

「だめなんだ」

「何がだめなんですか?」

「だから、だめなんだ」

「石川さん、僕もひとつ、仮説を立ててみたんです」

 死を望む者だけに見える、いるはずのない大勢の人間たち。そして、姿を見せぬ、この声。たったひとつの質問で、馬鹿馬鹿しいその真偽が確かめられる。

「ひとつだけ、聞かせて下さい」

 闇の奥に、木戸の向こうに、僕は言った。

「美也子もそこにいるんですか?」

 雨音はいつの間にか消えていた。部屋の中は静寂に包まれたまま、石川さんからの返事はない。

 長い沈黙の後に、僕は戸を引く。きしむ音を立てて、木戸が開く。

「石川……さん……?」

 木戸の向こうには、誰もいなかった。

 少し闇に慣れた目をこらしても、そこには想像していたような、隣の家への通路も何もなかった。三畳くらいの、どこにも行きようがない狭い空間に、石川さんはいなかった。

「石川さん……」

 周囲を見渡す。暗がりに包まれた、狭い、部屋とも言えない小さな空間には、誰かがいた形跡も、何もなかった。

 ただ、奥の壁に、一枚の肖像が飾られていた。

 暗すぎて、どんな人物のものなのかわからないけれど、かなり古い、子供が描かれている絵だった。誰だろうか……。

 どこかに、この建物に入ってきた時のような、隠し扉でもないだろうかと探すけれど、暗過ぎて見えない。静かだった。風も雨も止んでいた。神のいなくなった神殿に、ひとり取り残されたようだ。

 小部屋から出て、ひとつつぶやく。

「行かなきゃ……」

 やっぱり、佳代と英恵をそのままにはできない。

 この家に入ってきた時の、土壁がそのまま扉になっている隠し扉を開き、雨のやんでいる路地裏に出る。空はまだ真っ黒だった。

 むっとする湿気が体を包む。さっきまでの強い風は全くない。時の止まったような静寂の中で、時折建物のへりから雨だれが落ちている。

 無人の迷路を成す町の中を、小走りで歩いてゆくと、すぐに息が切れる。

「はあ、はあ、……あ、いけね」

 ここが富士山頂よりも、はるか高所であることを思い出す。すぐに歩調を緩め、激しい呼吸と鼓動を落ち着かせようとする。そのまま、周囲を窺う。

 ……何かまた、おかしい。

 さっきまでの、吹きすさぶような様子とも違う。空気が重い。息を切らせたせいか、足も重い。歩き出そうとしても、自分の体ではないように、全身がくまなく重い。

 前に進もうとするけれど、手足がまるで鉛のようで、そろりそろりと歩くことしかできない。何かから逃げまどう、子供の頃の悪夢のようだ。

 石川さんは、なるべく早くここを離れろと言っていた。被爆のことを言っているのだろうか。被爆……?

「……まさか?」

 ここにいるのは、まだほんのわずかな時間だ。世界各地の核実験場跡も、短時間の滞在であれば影響はなくなっている。そもそもこの症状が被爆によるものならば、石川さんが無事でいられるはずがない……。

 ……あれは本当に、生きている石川さんだったのか。

「くそっ……」

 頭を振って、体を引きずり、折れ曲がった路地を進んでゆく。進まない足のもどかしさに、さらに息が切れてゆく。

「…………」

 まただ。

 何かが追ってきている。背中に気配を感じる。

 それから逃れるように、狭い路地をのろのろと辿る。奇妙な建物の全てが、ざらざらと自分に迫ってくるような気がする。これも錯覚か。薄い空気のせいで、脳に酸素が行き届いてないのか。

「はあ、はあ、あいて……」

 十字路を少し幅の広い通りへと左折しかけて、とうとう膝をついてしまった。低い位置から、道の先を仰ぎ見る。

「……うわ」

 路地いっぱいを、赤黒い旗が埋め尽くしていた。ぼろぼろに擦り切れた、古い血のような色の布が、無数に垂れ下がっており、先が全く見えない。

 這いつくばるようにして、路地の先へ、旗の中へと進んでゆく。体はどんどん重くなる。もうすぐ、動かなくなる。

 ……誰かがそこにいる。僕の周りを、ぐるりと囲んでいる。そんなはずはない、そんなはずはないと、自分に言い聞かせる。

 這いつくばった指の先に、人の足が見えた。

「…………」

 足首から上は、旗で隠れて見えないけれど、目の前に、人間が立っている。

「佳代……英恵……」

 支えていることも辛い体を、物のように土の上に沈める。薄れゆく意識の中でつぶやいた名前は、美也子でも石川さんでもなく、丘の上で僕を待っているはずの二人だった。無事でいるだろうか……。


――待ってたよ――


 肩をかつがれ、体を起こされている感触がした。

 優しい、ささやかな力で、僕は引き起こされる。誰かに肩を貸されている。そのまま僕は引きずられ、旗の中を歩いてゆく。

 ……誰?

 細い腕。少し汗ばんだ匂い。小柄なくせに、体が隠れそうなバックパックを、どこまででも背負ってゆく、たくましい足腰。

「さあ、行こう」

 いつもと同じように。いつもそうやって、次の町へ移動していったように……。

「ねえ、知ってる? チベットではね、亡くなった子供は、川に流すの。鳥葬じゃないの。どうしてなのかは、うーんと、なんだかちゃんとした理由があったんだけれど、忘れちゃった」

 肩を貸してもらうのは初めてだ。貸してやったことならいっぱいある。熱中症にやられて、駅のホームで動けなくなったりと、案外世話のやける奴だった。

「ねえねえ、何度地図を見てもさ、今いる町が、どのへんの場所なのか、チベットって、さっぱりわからなくなるの。ここはね、世界で一番、人が少ない場所なんだって。こんなに空が綺麗で、どこも天国みたいに美しいのに、人間はほとんどいないの。わからない地図を眺めていながら、そんなことを想うとさ、すごく不思議で、素敵に思うの」

 一緒に旅をしていると、小さなことで響き合えて、いつも嬉しく、いつまでも楽しかった。このままずっと、腕をからめて、どこまでも歩いて行きたいと思った。

「鳥葬はね、こっちでは天葬って言うんだって。そうだよね。空があんなにきれいなブルーなんだもん。きっと、天国はね、光の中でも、闇の中でもなくて、青の中にあるんだよ。ここは空が近いんじゃなくて、空の中にあるの。その向こうの場所と、半分繋がっているの」

 そうだ、一緒に行こう。このままどこまでも、青のにじむ地平を目指して、誰も触れられない青の向こうで、空に抱かれて、君を抱いて眠ろう。

「ねえ、覚えててね? ずっと、ずっと……」


 音がする。風の音ではない。草や花が歌う声でもない。電子音? これは……。

「…………?」

 目が覚める。地面に倒れている。ポケットの中で携帯が鳴っている。

 体を起こす。辺りを見渡すと、かなり離れたあたりに、あの町が見える。

「ここは……」

 草原の真ん中に僕はいた。町からここまで歩いてきて、酸欠で気を失って倒れたのか。記憶が曖昧に途切れている。いや、少しだけ覚えている……。

 携帯を取り出し、通話ボタンを押す。

「もしもし」

「あぎさん? あぎさん!」

 佳代の声だった。なにかとても、懐かしい気がした。

「よかった、ようやく出てくれた。無事なの? 無事でいるの? ずっと繋がらなくなってて、心配してた」

 佳代が震える声を出して、精一杯僕の名前を呼んでくれている。少しかすれた、生意気な女の声が聞こえる。濡れた草の上で空を仰ぎ見る。重くたちこめた雲に、少しずつ切れ間が覗いている。

「ごめん、心配かけて。無事だよ。そっちは大丈夫だった?」

「うん、大丈夫だよ。雨とカミナリひどかったけど。今、どこにいるの?」

 手をつき立ち上がる。体は動く。ゆるく柔らかい、生まれたばかりのような優しい風が、頬をくすぐっている。

「町の外にいる。ずっと携帯繋がらなかったみたい」

「石川さん、いた?」

 雲間から光が射し、草原を照らしている。風が草の上をすべるように走り、また空へと舞い上がる。

「……いなかった。誰もいなかった」

「そうか、うん。戻ってきて。早く帰ってきて」

「ああ。すぐに戻る。待ってて」

 通話を切り、佳代と英恵の待つ崖の下へと歩き出す。息を切らさないよう、静かに足を進めて。

 町を振り返り、心の中で、ひとつつぶやく。今、佳代に言ったものと、同じ言葉を。

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