第8話

 翌早朝、神々を称えるような雄大な地平の陽光を受けて、僕らはランクルに乗り込み出発した。

「あぎさん、ちょっと聞いていいですか?」

「何?」

「この車、なんかまっすぐ走ってないですよね」

「こういうのを、センターが狂ってる、と言う」

 なるほどと、後席で英恵が感心し、嬉しそうに頷く。

 ともかく左に寄りたがるランクルだった。若い時にプロレタリアートにでもはまっていたのかと、粋なジョークを思い浮かべてほくそ笑み、佳代に気味悪がられる。

「壊れたの? それにしてもあぎさん、運転ヘタねえ」

 助手席で頬杖をつき、冷たい視線を浴びせてくる佳代に、僕は反論する。

「この車、すげーポンコツだぞ。船の運転してるみたいなんだぞ。替わってみるか?」

「あたしもう、ミッション車無理。オートマだけ。一体何をどうやるのか忘れた」

「私、本物のオートマ限定免許です。取得してから一度も乗ってませんけど」

 戦場でも大人気、雑に扱えば世界一、日本の誇る名車ランドクルーザーは、夏藩から聖なる地までの道のりを、僕らを乗せてフラフラと走る。道は単純というか、荒野をまっすぐ走ってゆくだけなので、迷うことはない。

 やがて聖なる地の、丘の麓に、僕らは再びたどり着いた。

 前はここから歩いて登ったけれど、今回はそうはいかない。僕は一度車を降りて丘を眺め、ざっとライン取りを決める。

 車に戻り、うん、行ける、と言う。

「本当に大丈夫? あたし降りてよっかな……」

「後から登ってきてくれる?」

「男なんだから、大丈夫、俺を信用しろとか言いなさいよ」

「男だからこうとか、女はこうじゃなきゃダメとか、そういう考え方ってどうかと思うな」

「早く行きましょうよ」

 デフロックをし、4WDギアをローに入れる。バックして少し距離を取ってから、アクセルをふかし、勢いをつけて登り斜面に車を突っ込ませる。がくんと巨体をきしませて、ランクルが斜面を駆け上がってゆく。

「うわわ」

「あははは」

 ジェットコースターが登ってゆくようだ。起伏で跳ね上がるたびに、車がそのまま後ろにひっくり返るような恐怖を覚える。

 助手席で佳代が顔を引きつらせる。英恵はなんだか笑っている。ひときわ大きく前輪を跳ね上げさせて、ランクルはクレーター外縁の丘の上まで登りきった。皆でほっと息をつく。

「ああ良かった。無事に登れた。奇跡だ」

「冷や汗かきながら言わないでよ。どんなもんだいとか余裕かましなさいよ」

「車止めないと、むこう側に落ちますよ」

 佳代と悲鳴を上げ、クレーター内に落ちそうだった車を急停止させる。

 外縁を成す丘の上は、それほど広くはないけれど、車の取り回しは余裕でできる。クレーターの落ち込む崖から少し離れた位置にランクルを停め、車外に降りて周辺を見渡す。石川さんがザイルを確保しているような場所は、ここからは見あたらなかった。

「今日もいい天気。……少し、雲が出てきたかしら?」

「町に人は、今は、見えないな」

「見えませんね」

 聖なる地がまた、湖のほとりに見える。あそこに今、石川さんはいるのだろうか。僕らがここに来たことに気付いて、向こうから手を振ったりしてくれないだろうか。

「うそ。本当だ。ここも圏外になってない……」

 佳代と英恵が、携帯を手にしながら、驚きの声を上げる。アンテナは普通に立っているのだ。

「どうなってんの? だって……」

 周囲をぐるりと見渡す。地平の果てまで、青い光がにじんでいるだけの、無人の世界が広がっているばかりである。

「ずっと電源切ってた。使わないし、使えるなんて」

「じゃあ、私かけますね」

 英恵が番号をなぞると、佳代の携帯が鳴り、普通に通話が繋がった。こんな無人の荒野のど真ん中で。

「中国では奥地とか辺境とかで、携帯の電波をものすごく強化してるんだ。電話線を引くよりもそっちの方が簡単だって気がついて。アフリカでは携帯の普及率が欧米よりも高いなんてジョークがあるけれど、それと同じさ」

「そういえば、羊を引いてるおじさんが、携帯で話してるの見たわ」

「私の部屋よりいいですね」

 ふたりの携帯がサービスに対応している機種で好都合だった。これで崖の上と下とで交信ができる。

「よし、始めるか」

 ランクルのウインチに装着されていたワイヤーは外し、その代わりに、長さのあるファイバーロープを巻きつけてある。このロープは車を持ち上げるような強度はないけれど、人ひとりを引き上げる程度ならば充分にある。

 輪にしたロープの先を、カラビナで自分の体と繋げる。これで手を離しても気を失っても、ロープから体が離れることはない。

「おっけ。少し送り出して」

 運転席に戻った佳代が、電動式ウインチを起動し、ちょうどいい長さまでロープを送り出す。僕は恐る恐る、崖の方に近づいてゆく。

「大丈夫?」

「だ、大丈夫」

 昨日までに考えた方法だった。ランクルに装備されているウインチを使って、クレーターの下まで降るのだ。登る時は同じように、ロープを引き上げてもらえばいい。二人は喜んで協力しますと引き受けてくれた。

「じゃあ、携帯借りるね。しばらくイヤホンつけて、通話状態にしとくわ」

「あぎさん、気をつけてね」

「ああ」

 親指を立て、なるべくカッコよく佳代に言ってみたつもりだった。

 崖のへりにさしかかり、足から体を空中にそーっと投げ出す。体が重さを失う。思わず目を閉じる。

 軽い衝撃を受け、ロープがぴんと張り、体が宙で揺れているのを感じる。怖くてとても目を開けられない。

「あぎさん、どう? 大丈夫?」

 イヤホンから佳代の声が聞こえる。僕はなんとかそれに応える。

「……大丈夫。今、下でぶら下がってる。降ろしてくれていいよ」

 ウインチに送り出され、僕はクレーター外縁の崖を、ロープにぶら下がって降下してゆく。消防士とか海上保安庁とか自衛隊の皆さんは、これをヘリの上からやったりするのだ。このくらい余裕余裕と、必死で自分に言い聞かせる。

「もうちょい早く」

 ぶら下がっている時間が辛くなってきた。早く済ませて欲しいので、佳代に速度を上げるように言う。

「あい」

 返事が返ってくるやいなや、ものすごいスピードで降下し始める。

「早い早い! バカ、早すぎるっての!」

「あれ、どうだっけ?」

 降下速度がさらに増す。落ちているのとあまり変わらない。

「あああ。止めて止めて止めろバカ」

 速度が緩んだと同時に、体を草がかすめた。斜面が緩やかになっている。

 ちらりと上を見ると、恐ろしい高さの崖の上のへりから、自分が繋がったロープが垂れ下がっている。あんな所から降りてきたのか。

 やがて斜面を歩いて降りられるようになる。ふうと息をついて佳代に聞く。

「ロープの残りはどう?」

「全然あるよ。もう底に着いたの? ところでさっきバカって言ったわね」

「もう歩ける。そのまま送り出して」

「はあい。ねえ、バカって言ったでしょ」

 平地になり、送り出しを停めてもらい、カラビナを外す。目印のタオルをロープの先に置いておく。

「じゃあ、町に向かう。ひとまず通話は切るよ」

「まめに連絡してね。さっきさあ」

 通話を切って歩き出す。電池が切れたらアウトなので、なるべく控えておく。

 周囲を見渡す。……不思議な景色だった。陽の当たる明るい草原の地平は、ぐるりとそびえる崖の上に丸く切り取られている。穴の底なのにかなり広いので、閉ざされているという感じはあまりしない。

 遠くに湖面が見え、町が見える。もうすぐあそこに行けるのだ。次第に胸が高鳴ってゆく。入ることができなかった場所に、足を踏み入れてゆく高揚感がある。子供の頃に、立ち入り禁止の場所へ忍び込んだり、知らない町まで歩いた冒険を思い出す。

 静かで暖かな雰囲気の草原を歩いてゆく。崖の上に人影が見える。手を振ると、二人が手を振り返してくれる。

 ひゅうと、風にあおられる。

「誰も見えないな……」

 町が近くなってきた。人の姿は見えないけれど、それはやはり、自然の地形ではないようだ。はっきりと人工の建築物だった。

 自分の歩調が、次第にゆるくなっていることに気づく。どうしたことかと思う。いつの間にか、向かい風が強く吹き始めていたせいだった。天候の変化か、地形のせいだろうか。

 うん?

 町のすぐそばまでたどり着き、携帯の通話を繋げる。

「もしもし」

「はいはい。あぎさんの姿、ずっと見えてるよ。どんな具合?」

「ちょっと、変だ……」

 風が強く、佳代の声が聞き取りにくい。爽やかな風ではなかった。

「町に着いた。人の作ったものだ。土壁なんだけれど、夏藩とかの、よくあるチベット風の建物じゃない。よくわからないけど、なんかみんな似ているようで、バラバラなんだ。へんてこな形の家が、やたらと密集してる」

 旗のようなものが見えたので、タルチョかと思ったけれど、近づくとそれは違っていた。

「もしもし、あぎさん、よく聞こえない。もしもし?」

「誰もいない。誰もいないけれど、旗がいっぱい立ってる」

 強い風を受け、多くの旗があちこちでばたばたと音を立てている。轟音で、さらに通話が聞き取り辛い。

「建物のあちこちに、縦長の、ボロボロの旗が、ぎっしり立てられてる。旗には何か書いてある。漢字じゃない。蛇がのたくってるみたいな字だ。旗は色とりどりなんだけれど、赤や黒が多くて、なんか怖い。変な絵も描かれてる」

 ようやく到着した町だったけれど、どこか妙だった。上から眺めていた時の、穏やかで牧歌的な雰囲気は感じられなかった。

「町の中に入ってみる」

 いくつもある、狭い路地のひとつを選び、建物の間に入ってゆく。すぐに、そのことに気がついた。

「あれ? 変だな」

「どうしたの? あぎさん」

「あ、ない。そうか、ないんだ! ここもない。ここも……。なんだ、これ?」

「何よ? どうしたの? なにがないの?」

「入口がない」

「え?」

 どの家にも、入口がなかった。

 そんなばかな。これらの家々には、どこから入ってゆくのか?

 あちこち探してみたけれど、どこにも扉も開口部もなかった。窓はちらほらあるのだが、位置が高く、中を覗き込むことはできない。

「ねえ、人はいるの?」

「誰もいない。……いる気配がない」

 人間が暮らしているのであれば、必ずあるはずの気配や痕跡がない。ゴミや足跡といった生活の匂いが、ここには全く感じられない。

 建物は異様なほど密集し、入り組んだ細い路地は行き止まりも多く、まるで捨てられた迷路にいるような気がした。大通りもなければ、広場のように見渡せる場所もなく、戸口もなければ水場もない。

 ただ、旗ばかりがある。

 旗の長さはまちまちで、短いものは人間の背丈よりも低く、長いものは屋根に届かんばかりに高く掲げられている。あちこちで数本がまとまって立っていて、中には十数本もの旗がぎゅっと縛られ立てられているものもある。

 鳥葬の丘の、色あせたタルチョを思い出す。

「入口のない建物も、道も、旗も、どれも変なんだ。けれども、これは……」

 どの建物も、まるで粘土でこねあげたような、粗末に過ぎる作りなのだが、そのうちのひとつが、また特別に奇妙だった。

 縦長のひょろ高い建物は、屋根の形がいびつで、煙突のような突起がいくつも突き出ている。壁には蜂の巣を思わせるように、無数の窓があるのだが、そのどれもが、角度も大きさもばらばらに配置されていて、あちこちで窓と窓が重なり合っている。数人の子供が家の絵にてんでに窓を描き足したようだ。

 そして、全ての窓には『内側から』板が打ち付けられており、中を覗けるわずかな隙間も見当たらない。

「一回切るね。またかける」

「気をつけてね」

 風のせいでノイズがひどく、聞き取り辛いので通話を切る。

「石川さあん」

 どこへともなく、呼んでみる。

「石川さん、どこかにいますか? 石川さーん」

 返事はなく、声は、旗がなびく音にかき消されてしまう。石川さんは、ここに来たのだろうか。こんな所に、まだいるのだろうか……。

 人間の姿も見えず、建物のどこにも入れず、手がかりも何も見当たらないので、湖の方を見てみることにする。圧迫感のある高い迷路の中にいるせいか、少し息苦しくなってきた。

 湖面を望むほとりにまでたどり着くと、ここは風の音がさらにすごい。

「変な風だ。地形のせいか」

 護岸のようなものは作られておらず、妙な大きさの草が生えている湿地が、そのまま湖になっている。生き物の気配はない。高山の暗く冷たい湖だった。水をたたえているというよりも、行き場をなくして漂っているという印象を受ける。

「……あれ。少し、曇ってきたかな?」

 いつの間にか、青い空に、黒い雲が漂い始めている。

 上から眺めていた時には、空を映し、美しいばかりの湖だったけれど、近くでこうして見ると、風に激しく波打ち、湖面の下まで光は届いておらず、陰鬱な雰囲気でしかない。なんだか、この湖のそばにいたくない……。

 どうしようかと思う。思ったよりも町の規模は大きく、その上迷路のような作りで、石川さんをどう探したらいいのかわからない。

「あ、……やばいな。まさか、雨、降ってくるのか?」

 世界を暖かく照らしていた光が、すっと陰る。目に映るもの全ての彩度が失われてゆく。空はいつか、黒雲にすっかり覆われていた。

 この地でも僕は、数十年ぶりの雨に見舞われるのか。建物に庇はなく、雨具の用意もない。降られたら最悪だ。

 湖を離れ、町の中に戻ると、携帯がおかしな着信音を鳴らせる。

「もしもし。空模様やばいな。湖の方にも、何もなかったよ」

「そこにいる人たち、何ですか?」

「え?」

 声は佳代ではなく、英恵だった。

 どこにも行き場のない、旗が鳴る袋小路の途中で、僕は立ち止まる。

「何の話?」

「ここから見えてます。人がいっぱい見えます。その人たち何? いつの間に、どこから来たんですか?」

「…………」

 上からは、英恵には、人の姿が見えているのだろうか。

「僕は町の中にいるけれど、誰の姿も見えないよ。そこからは、ひとが見えるの?」

 英恵がさらに切羽詰ったような声で、それに答える。

「見えてます、すごくいっぱいいます! それに、変! なに、そいつら?」

「佳代に代わって」

「え? 何ですか?」

「佳代に代わってもらって」

「ぶははブギュワアアアアアアアアアア」

 ものすごい雑音が入り、思わず携帯から耳を離してしまう。

「うわ、……もしもし、英恵? もしもし? あれ……?」

 通話は切れている。アンテナは立っていない。圏外になっている。

「いっぱいいる? ここに?」

 いないじゃん、と思い、数歩、意味もなく歩き、風に押されたように、足が鈍る。

「…………」

 路地の真ん中で立ち止まる。近くの旗が風になびき、悲鳴のように聞こえる。背筋が氷のように冷たくなる。


――こんなところに、人なんか住めるはずない――


 空は真っ暗だ。チベットで感じたことのない生暖かい風が、生き物のように路地を吹きすさぶ。見下ろす壁はどんどん高く狭くなり、押しつぶされそうな錯覚を受ける。

 ここから出ようと、きびすを返すけれど、行き止まりばかりで、道がわからなくなった。方向感覚を失っているようだ。

 あてなく狭い路地に入り込むと、広い壁に、無数の窓が現れた。がたついた木枠やガラスが狂風を受けて、中から乱打されているようなひどい音を立てている。

 稲光がひとつ、すくんだ足元と土壁を照らす。遅れて雷鳴が地上を揺るがす。すぐに降ってくるだろう。小さな軒先すらない迷路の中で。

 なぜか。

「……何?」

 なぜか、独り言が漏れる。

 少し先の、路地の曲がり角から、何かがやって来る。何も見えないし、何も聞こえないのに、はっきりと、それがわかる。

 振り返ると、今来たはずの道が消えている。錯覚だ。旅先は、これだから。まあいいけど、ひとひとりもすれ違えない狭い路地で、困る。文字通り、進退窮まる。

「…………」

 今、どうするべきかを考える。

 自分には今、何かが迫っている。そして、何かを急がなければならない。けれども、どっちの何かも、全然わからない。

 くすりと笑う。

 どうして笑うのか。銃口を向けられた死の直前にも、僕みたいな人間は笑うのか。

 もう一度、激しい稲光。と同時に、雨が落ちてきた。頬に冷たい雫が流れる。

 その時。

「あっ……」

 僕は、わかったのだ。なぜか瞬時に、全てを理解した。文字通り、雷に打たれたような衝撃が襲ってきた。

 なぜここが、近寄ってはいけない場所なのか。なぜ夏藩の住人は、ここを語ることさえ厭うのか。そしてここは、隕石クレーターなどではない。ここには隕石など落ちていない。そこから導き出される、多くの謎が解けた。

 それでも、まだまだわからないことはあった。僕にはもう、それらがわかることはないのだろうか。なんとなく、イヤだなあ、と思う。

 真横の壁が、扉の形にひっくり返った。

「あぎさん、こっちだ」

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