第十二話 地獄のノルランディ

「ど、どうなっているんだ!?」


 タイラー・クーパーはハセミガルド王国からの帰途で、優弥から言われた通り基地ノルランディに立ち寄った。そこで見た光景が異常だったのである。


 基地の壁から一メートルほどのところで、兵士たちが見えない壁のようなものをドンドンと叩いて何かを叫んでいるようなのだ。しかし彼らの声もを叩く音も全く聞こえてこない。


 補給部隊は入り口で足止めされており、周囲の人だかりもこの状況が理解出来ていないようである。


 試しに彼も手を出してみると、確かにそこには見えない壁があるようだった。すると一人の兵士、身なりから将校と思われる者が文字の書かれた紙を広げてこちらに見せてきた。


『数日前から我々はこれ以上外に出られなくなった。何が起きている?』


 すぐさま彼もペンと紙を用意して筆談に応じる。


『分からない。私はジュード皇太子殿下の遣いでハセミガルド王国に赴いた帰りなのだ』


『すぐに何とかしてくれ。このままでは出撃出来ん』

『急ぎ帝都に戻り、皇太子殿下にこのことを伝え』


 そこまで書いたところでクーパーはハッとした。


「見れば余の言を皇太子に伝えやすくなるであろう」


 あの時ハセミガルドの王は不敵な笑みを浮かべながらそう言った。つまり、この状況を作り出したのは敵国の王ということである。


 スタンノ共和国への侵攻のために、この基地におよそ二十万の兵を集めていたはずだ。詳しい戦況は聞かされていなかったが、ハセミガルド王国に向かう途中で耳にした噂では、帝国は初戦で大敗を喫したとのことだった。


 そしてハセミ国王のあの言動。彼は筆談を再開する。


『食糧はあと何日持つ?』

『半月ほどは持つが、それがどうした?』


 クーパーの顔から血の気が引いた。ここから帝都まで十日はかかる。夜通し走るはやを乗り継げば三日か四日程度に短縮可能だが、あれは事前準備なしには使えない。


 すでにハセミガルド王国を発ってから一週間が経過しているから、戻った三日後にはハセミ国王がバール城を訪れるはずだ。


 つまり皇太子の答えによってはやがて基地内の食糧が底を尽き、二十万の兵士たちが飢え死にさせられることになる。実際には第一陣で多少人数が減っていたとしても、この見えない壁がある限り外部との一切の交流が叶わない。


 あの国王の口ぶりからして、もしこれが彼の仕業だとしたら自然に元に戻るとは考えにくい。そこでクーパーは信じられないことに気づいて息を呑んだ。


『数日前からと言ったが、正確には何日前からだ?』

『気づいたのは五日前だ』


 まさかそんなことがあるとは、実際に聞いてもやはり信じられなかった。もしそれが本当なら、あの国王は自分が王国を出立した二日後にここに来たことになる。つまり一週間かかる道のりを、わずか二日で辿ったのだ。


 途中で追い抜かされた様子もなかった。だとすればハセミ国王は何かとんでもない移動手段を持っている可能性がある。考えられるのは魔法しかないが、一週間の距離を二日に短縮する魔法など聞いたことがない。


(いや、自分が知らないだけかも知れないな)


 普通に国力の差を説いても、動じるどころか嘲笑っていた感さえある。あの国王は危険だ。これまで漠然と思っていたことがこの状況を見て確信に変わった。


 要求を呑まなければテヘローナ一族は元より、帝国自体の存亡が脅かされるのではないだろうか。いや、そもそも要求は帝国の滅亡そのものだ。


 もはやテヘローナ帝国に未来はない。


『すぐに戻って皇太子殿下に伝える!』

『頼む。早く何とかしてくれ』


 筆談を終えてクーパーは力強く頷き、馬車に戻って帝都への帰還を急ぐのだった。



◆◇◆◇



「ロッティ、どうだった?」

「クーパー様はどうやら事態を把握されたようです」


 そこはソフーラ城の執務室、優弥とロッティの他に宰相のドミニク・キャンベルがいる。


 クーパー伯爵と面会した二日後、優弥は基地の周囲に完全結界を張り巡らせた。


 ただ、窒息を防ぐために結界の高さを十キロにして蓋はしていない。これならどんなに騒いでも声や音が外側に漏れず、異常な状況のみが伝わることだろう。


 なお、基地の地面と外部を常時開放型の転送ゲートで結び、空気が循環するようにもしてある。このゲートは空気と優弥しか通れないので、存在に気づかれる心配はない。


「陛下は皇太子がどう出てくるとお考えで?」

「すぐに使者を寄越したのは評価出来るが、要求を呑むかどうかは分からんな」


「呑めば事実上、テヘローナ帝国は滅亡ですからね」

「ま、十日後には結果が出るさ。ところでロッティ、例の件はどうなってる?」


「はい。全員お館様のご提案に感謝しておりました」

「よし。準備は万端だな」

「はい」


「失礼致します。サラサ・スミス様がお見えになられました」

「ああ、通してくれ」


 メイドが扉を開けると、エリヤの妻サラサが一礼して執務室に入ってきた。


「呼び出してすまない」

「いえ、とんでもございません」


「城での暮らしに不自由はないか?」

「はい。王妃様方にもとても親切にして頂いております」


「それはよかった。ところで戦時中ではあるが、今は落ち着いているのでベンゼンに帰ることも出来るがどうする?」

「本当ですか!? あ、でも……」

「うん?」


「帰る前に出来ればもう一度、その……」

「ああ、アルタミール領の温泉か」

「ぶ、不躾で申し訳ございません!」


「よいよい。こちらは暑いが向こうは過ごしやすいからな。ポーラなどはほとんど入り浸りだし」


 夫人はエリヤのことを心底心配していたが、戦での活躍とその後は小競り合いすらないことを聞いて安心したようだった。それでもやはり心労が隠しきれないほど表に出ていたので、ソフィアに頼んでアルタミール領の温泉を案内させたのである。


「どうせならエリヤも呼んで一緒に行ってくるか?」

「よろしいのですか!?」


「一家でゆっくり温泉を楽しんでくるといい」

「ありがとうございます!」


「ロッティ、すまないがエリヤを連れてきてくれ」

「かしこまりました」


 それから間もなく転送ゲートでやってきたエリヤは、家族と共にソフィアの案内でアルタミール領へと旅立っていった。予定は一週間、エリヤにとっては久しぶりの休息となるだろう。



――うんちく――

 実は早馬より早駕篭の方が長距離には適しているのです。

 サラブレッドは人を乗せて時速60〜70km/hで走れますがそれは全速でのこと。せいぜい数分が限度でしょう。しかも暗闇の中では馬を走らせることは出来ません。

 つまり通常馬や馬車が一日に進める距離は50〜60kmなのだそうです。時速5〜6km/hで正味10時間といったところでしょうか。途中で休憩も必要ですから、実際にはもう少し時間がかかるでしょう。

 対して早駕篭は人力ですから、先頭に灯りを灯せば夜間でも走行が可能です。

 速度が馬車と同じ時速5km/hだったとしても乗り継ぎで24時間走行可能とすれば、理論上一日に進める距離は120kmになります。馬車の2倍以上の距離が稼げるということですね。あくまで理論値ではありますが。

 ただ、途中で乗り換えを繰り返す必要もありますので、普段の需要がなければ事前準備がないと使えないというわけです。

 なお、基地ノルランディから帝都までの距離はおよそ500kmを想定してます。


 もし矛盾があればご指摘下さい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る