第九話 草の者

 テヘローナ帝国に入って三日目の夕刻、ここまでは馬車を乗り継いで夜は宿場町と順調に旅が続いていた。しかしロッティによるとこの先しばらくは宿場町がなく、いくつかの村を経由することになるそうだ。


 ひとまず二人は夫婦を装って宿を取った。


「中継地点となる村には配下の者が数人ずつ待機しております」


「そうか。俺はこれで城に戻るが何か欲しいものはあるか?」

「特には」


「分かった。この部屋に敵対結界を張ったから帝国の刺客が襲ってきたとしても入ってこられない」

「はい」


「だが、お前がその者を捕らえたり倒そうとしても、部屋から出ることは出来ない。結界は敵意を弾くからな」

「心得ております」


「よし。ではまた明日会おう」

「はっ!」


 部屋から主の姿が消えると、ロッティは一瞬悲しげな表情を浮かべたが、両手で頬を叩いてすぐに馬車の手配や食料品の調達のために外に繰り出すのだった。


 ところがその翌日のことである。


「お館様、申し訳ありません」

「馬車が出ぬか」

「はい」


 早朝から降り始めた雨は時間を追うごとに激しくなり、雷鳴を轟かせて土砂降りとなっていたのである。これでは当然馬車は出ない。


「お前の責任ではないさ。完全結界を頭上に張れば雨は凌げるしな」

「ですが足元が泥濘ぬかるんでおります」


「致し方なかろう。先を急ぐ旅だ」

「かしこまりました」


 宿を出る時に主人から、宿代を半分にするからと危険な旅立ちを止められたが、それに甘えるわけにはいかなかった。何故なら――


「ロッティ、気づいているな?」

「はい。敵は三人おりました。ですが今は一人」


「二人は別行動……この先に崖があるんだったな」


「道幅は狭くはありませんが、落ちれば命はないものかと。お館様は瞬間移動でお逃げ下さい」

「バカを言うな。返り討ちにしてくれるさ」


 昼になろうかという時間になっても、相変わらず雨が止む気配はなかった。山道をずい分と進んだところで、二人は問題の崖に差しかかる。右手の山側は二十メートルほどの高さだが、左手の崖側は雨のせいもあって底が見えない。


 確かに山側を歩いていれば落ちる心配など無用な道幅だったが、それでもこんな時に外に出る者など一人もいなかった。もっとも刺客と思われる一人の気配は、つかず離れずといった感じで二人の後をついてきている。


 それは突然のことだった。完全結界にパラパラと小石が降ってきたと思うと、二人の周囲が大きな影に覆われたのだ。頭上を見ると、直径三メートルはあろうかという大岩が落ちてきていた。


「お館様!」

「問題ない」


 この場所で仕掛けてくるとすれば、おそらく岩を落としてくるだろうと予想していた彼は、すぐさま無限クローゼットの入り口を開いた。結界があるのでそのまま落下させてもよかったのだが、この岩の大きさならかなりの威力の隕石弾メテオを放てる。


 頂いておこう、と彼は考えたわけだ。


 そしていつまで経っても岩が落ちる音が聞こえなかったため、迂闊にも敵の刺客は半身を乗り出して上から崖下を眺め硬直していた。


「ロッティ、耳を塞げ!」

「はっ!」


 頭上の完全結界を解き、追尾投擲で小石を投げつける。辺りに爆音が轟くと同時に、二つの小石は刺客の眉間を打ち抜いていた。


 さらに彼は背後に姿を見せていた残りの一人にも小石を放つ。だがそれは眉間ではなく、太股を貫通するに留まっていた。


 ところが二人が足を射抜かれてうずくまる刺客の許に駆け寄ると、奥歯を噛み締めて苦しみだし、間もなく動かなくなってしまう。


「やはり訊問は出来なかったか」

「アリエッタの幻惑にかからなかった手練れです。無理もないかと」


 そう言ってロッティは刺客の死体を崖下に蹴り落とした。眉間を打ち抜かれた二人は落ちてこなかったので、放っておいてもいずれ魔物か獣に食われることだろう。


「ロッティ、先を急ぐぞ」

「はっ!」


 その後二人は予定通り次の村に到着した。この村には五年ほど前からロッティの配下が草の者(その地に根づいて暮らすスパイ)として生活しており、彼女の家で一夜を過ごすこととなった。


 村長には古くからの知り合いだと伝えて帝国金貨十枚を差し出すと、ニコニコしながら不干渉を約束してくれたのである。


「お初にお目にかかります、お館様」

「うむ。不自由はないか?」


「出来れば金子きんすを銀貨で頂きたく」

「分かった」


 ロッティは不躾な願いを諫めようとしたが、彼はそれを制した。いかに密偵といえども金がなければ生きていくのは難しい。まして他国の地で頼れる者もなく、この先も草の者として暮らすのであればどうしても金が必要だろう。


 そこに一人の青年が飛び込んできた。


「ロザリー!」

「エリック、どうしたの?」


「見知らぬ男女が君の家に入っていくのを見かけたから」


「心配してくれたのね、大丈夫よ。ロッティ……こちらの女性は私の古い知り合いで、男性はロッティの旦那様なの」

「な、なんだ、そうか……」


 ホッと溜め息を漏らす青年に優弥は微笑みながら握手を求めた。


「君は妻の友人のよき相手かな?」

「え? あ、はい。年が明けたら祝言を挙げることになってます」


「それはめでたいことだ。ロッティ、あれを」

「はい、旦那様」


 彼がエリックに見られないようにロッティに銀貨を手渡すと、彼女はさも懐から取り出したようにして小さなテーブルの上に重ねた。


「突然のことで気の利いた物は持ってませんが、お祝い金として受け取って下さい」

「そんな……今日会ったばかりなのに……」


「エリック、お祝いに頂くのだから断ったりしたら逆に失礼よ」

「そういうものなのか?」


「ええ。ユウヤ様、ロッティ、お気持ちありがたく頂戴致します」

「ロザリー殿、エリック殿と末永く幸せにな」

「はい!」


 草の者はその土地に根づいて暮らすので、中には結婚して子を作る者もいる。ただし主のめいは絶対で、必要となれば伴侶は元より、腹を痛めて産んだ子さえも見捨てる運命さだめを負っているのだ。


 ところが、中には情にほだされてしまう者もいる。彼はロザリーの偽りが、いつか本当の幸せになることを願わずにはいられなかった。


 そしてその夜も彼は一人城に戻る。だがそこに、このところ激しく新妻を求めていた鬼畜の面影はなかった。

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