第3話 SNSをきっかけとして

 眠らなければならないのに、確認するまでは眠れない。

 女は家に帰っているのに『帰りたい、何かに置いて行かれた』思いを抱きつつ、寝床へ入り、スマホを見つめた。先程のSNSを覗いた時の違和感と、今、ここにいる違和感が交差している。 気味が悪かった。寒気こそしなかったが、背中がぞわぞわした。

 まるで心霊特集番組を見た時の様に、背中に何かがモゾモゾと這って移動しているかのたぐいの気味悪さだ。

 落ち着かぬまま、情報を辿る。文面をなぞらえて、画像を探して、目の当たりにした。

 SNSでは、ごく一部の人達が違和感や驚き、困惑、記憶の再確認などをそれぞれのスタンスで行っていたように感じられた。

 とてもではないが、自らが体験していなければ、『何を勘違いしている? 自分の記憶の誤りを、不確かな情報の取捨選択を、他人のせいにして、自らを正当化させたいのか? はたまた、頭がおかしくなったのか?』

 ……と、他人事ひとごとの様にせせら笑う、嘲う事だったろう。

 違和感を持った物……それは複数存在した。

 まずは、二点しんにょうの存在だ。

 次に、人体の内部構造。主として心臓の位置。

 最後は世界地図……主にオーストラリアの位置。

 これらの情報に於いて、それまで見た事の無い文字、女は高卒であるが、それまで学習した記憶と異なる地図、高校三年の夏休みからアルバイトを兼ねた医療事務としての職場体験学習(修行の様である)からの就職、勤務した三十数年間に体験し、学び得た知識が、根底から覆されてしまったのである。

 それらはごく一部分で、それまで知り得た知識は全て一夜にして風前の灯火の如く塵芥の様に霧散してしまった。


 世界線とはなんだ……?


 心臓が中央に在るだと……?


 胸骨が無い世界線? 医療事務の民間試験では、人体や病名や症状について、英語とドイツ語でほんの少し上っ面のみが出題される為に、狭く浅く一通り目を通した。学んだ。胸骨は有った。

 それが存在しない世界線から来た?どういう意味だ?

 現在は、心臓が中央に位置し、女が学んだ『肋骨下部は胸骨に完全に付いていない』ではなくて、肋骨は全て胸骨に付いていると言う世界線だと?

 どういう意味だ?

 心臓は左側だ。いや、完全に左側と言うよりは、左寄りか。中央部では断じてない。

 もし、中央部に在るとしたら、位置異常だ。

 二点しんにょう、とは? 初めて聞いた、見た、その存在を知った。

 女は一点しんにょうしか学んでは来なかった。

 昭和の時代から医療事務をしてきた。患者の氏名も、明治生まれの方々から令和の人へと保険証を通じて『漢字』を読み、カルテへと記入し、レセコンと呼ばれる医療事務用の保険請求をする為のレセプト用コンピュータシステムを扱い、氏名を入力して来た。

 難しい漢字に出会うと、保険証を幾度も拡大に継ぐ拡大コピーをして、尚且つ間違いが無いように、カルテの表紙へ貼付しておいた。

 保険証は、毎月確認するのは当たり前。毎年更新される度にコピーを取り、保管しておいた。

 二点しんにょうなど、お目に掛かった事は無かった。

 どういう事だ?

 どういう意味だ?

 何事が起きているのか?

 オマケにオーストラリアの位置が妙に上すぎないか……?

 女は愕然とした。

 愕然とした後に、思考を停止させた。  


 何故か今日はおかしい。


 夢を見ているかの様である。


 もしかしたら、リアルな夢を見ているのかもしれない。

 夢の中で夢を見て、目が覚めたらまた夢で……と言う面倒くさい夢を見た経験が有る女は、一度リセットしてみなければ、と、半ば強制的に瞼を閉じた。

 悪い夢から早く覚める様に願いながら。



 翌朝、寝不足を否めない躰をたたき起こした女は、躰の重さを除けばいつもと変わらない朝だと思っていた。

 (昨日は悪い夢を見たのかな? こんな事、前にも良くあったし。夢の中で夢を見て、起きてお母さんに『こんな夢を見たよ』って話したら、まだそれも夢の中で、二回目に起きて、お母さんに話し始めたらまたそれも夢で。そこで覚醒して……三度目は疲れちゃって話す気にもならなかった。結局後になって話したけど。アレは辛かったな。)

 そんな事を思い出しつつ、クリニックへと出勤した。

 午後になり、仕事が一段落した時である。ふと頭の隅に引っかかっていたSNSの文章や映像がフラッシュバックの様に蘇った。

 (まさか、ね……夢だよね……あんな字は見たことないし。医療事務の試験だって、胸部はあんな映像とは違ったと思うし。世界地図は……高校卒業してから三十年以上経っているから……自信ないけど。アレはどう見てもおかしいよ。ま、ちょっと確認のため。ちょこっと? 怖いからSNSは見ないでおこう。)

 ほんの冗談のつもり。遊び心。そんな感覚で、職場に常備してある、昭和62年から女が使用している文学博士監修の『字典』(昭和61年発行)と、『○波国語辞典』(1980年第3版第2刷発行)と、平成11年以降から使用している『○研 英和独対照 新看護・医学用語辞典増補版』(1999年第31刷発行増補版)を紐解いた。


 女は、見なければ良かったと後悔することになる。

 (……え……? 何? 何が起きているの!! に、二点しんにょうなんて習わなかったし、知らないし、保険証でも見たことないよ!!この字典は結構見てきた!!こんな字は無かったよ!!嘘でしょう??)

 まず、女が見た物は、二点しんにょうが記載された字典であった。

 くどい様だが、女はこの字典を確認作業の為に頻繁に使用していた。しかも三十数年間である。

 続けて、国語辞典の後ろの方に載っている、本表と言う読み方の手引で、二点しんにょうを見てしまった。

 (ちょっと待って待って待って!今までこんな字なんて載って無かったよ!!えっ? まさか、こっちが夢なの? えっ? 今この瞬間が夢なの??)

 女は、夢の中で自分が夢を見ている事を自覚し、起床時間を気にして、何とかして自らを覚醒させようと外部からの刺激は不可能だと思い、内部からどうやって自らを起こそうかと考えた事があった。

 女は寒気がした。眩暈も感じた。ショックだと自分の頭が叫んでいた。

 深いため息をつき、深呼吸を繰り返して、残りの一冊の骨格の図のページを開いた。

 ……胸骨はあった。が、しかし、図には肋骨下部が全て胸骨に繋がって描かれていた。

 (……は? 何? この図、おかしくない? 全部くっ付いて無かった図だったよね? これじゃ昨日見た変な妙な映像とソックリ同じじゃない! いや?確かに下部は離れていたはず!!試験に出たよ!!……多分。)

 女は頭が変になったのか、リアルな夢を見ているのか、とても不安になった。

 気を取り直して職務に戻れたのは、もしかしたら現実逃避行動であったのかもしれない。

 帰宅するまで待ちきれずに、駅の待合室で問題のSNSを開いた女であった。

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