第2話 自分も家も疑う
女は自分がどうにかなってしまったのだと思った。
早く家に帰りたい。いつもに比べ一時間以上遅れている。明日も仕事だ。
職場では、二ヶ月前に長年勤めた同僚が退職し、補充人員の無いまま有り得ない職員数で何とかこなしている。
歳のせいか、溜まった疲労は身体を浸食して脳細胞まで蓄積した疲労物質老廃物を運んでいるらしい。
軽い眩暈がした。家に帰りたい。躰は帰路についているではないか?
果たしてこのまま足を運んでもいいのだろうか?
なぜそう感じるのか?
気持ち悪い。が、嘔吐を望む気持ち悪さではない。だが、気持ち悪い。
脳貧血か? ただの貧血か? 脳梗塞か? 一過性の虚血性のものか?
軽い眩暈の他に、動悸もして来た。
このままこの人家も
女は一旦足を緩め、脳梗塞ならばどんな症状がみられるのだろうと頭を巡らせた。
が、所詮素人である。確認作業など無理な話だ。
しかしながら、何かを確認せねば安心出来ない。このまま路頭に迷うかの様に倒れる訳にはいかない。もしも脳の疾患であるならば、一刻を争う。詰まってから最低三時間が勝負だと聞いた。
女は先ず、思い付く限りの身体の動作の様子を試してみた。
両手は動く。両足も動く。力は……? 入る。心なしか、少々弱いか? 力いっぱいは……入るか?
グーチョキパーを繰り返す。
出来る。
次は?
「札幌ラーメンとろろ芋」「らりるれろ」「りゃりゅりょ」「ぴゃぴゅぴょ」「みゃみゅみょ」「後は?なんだ? 」
因みに「札幌ラーメンとろろ芋」のら行は巻き舌の練習に使用した文である。女には昔若い頃、趣味でロシア語をかじった経験があった。
ロシア語のР《エル》は巻き舌のエルだ。
それも何とか言える。後は?
頭部を打撲した時に、昔の記憶を呼び覚まそうと確認する行為を試みる。
(An old Greek story……)
(One morning, a pretty ……)
(Жили были кот……)
二十年も三十年も、それ以上昔に暗唱させられた英文と露文の短文を思い出して言ってみる。
ほんの少しは覚えていた。昔取った杵柄は健在だった。
(今日のお昼ご飯……夕飯……大丈夫。思い出せる。若年性の認知症ではないかな?)
帰巣本能はある。が、どうやら家に帰る事自体が、妙な感覚らしい。
とにかく家を目指そう。途中で具合が悪くなりそうだったら、その前に救急車を呼ぼう。
女は荷物を抱え直して、重い躰と頭を自宅へとゆっくり向かわせた。
道はいつもと変わらぬ印象であった。
何とかして女は帰宅した。
思った通りに老母は先に寝ていた。猫たちだけが、食餌を待ち続けて起きていた。
老母は認知症ではないが、もしもの為に彼らの食餌は女が与えていた。帰宅時間が遅い時は朝の量を多目に与えて彼らに協力してもらっていたのである。
(おかしい……家もお母さんも猫たちもいつもと変わらない。だけど、帰りたい。……なんで? 帰って来たのに!ここは私の家なのに! 帰りたい! 違う!ここなのに!ここじゃない!)
女は混乱していた。駅から家までの道のりの途中で感じた違和感をずっと引きずっていたのだ。
そのうちに老母が帰宅に気付いて食事の心配をした。女は済ませたと話して、普段と変わらない母の様子に安心したが、やはり変だ。『家に帰りたい』と必死でそう思っている。何故か『置いて行かれた』『取り残された』感があるのだ。
女は生まれてこの方家を出た事が無い。結婚もしていない。同棲生活も無かった。家を空ける時は病院へ入院した時と、一泊二日のプチ旅行に二回ほど出掛けた時ぐらいであったか。
いつも猫たちが居たような生活であった。
東京、神奈川、新潟、福島、宮城のライブハウスへ遠出しても、最寄り駅まで最終列車が来ない時間であっても、電車が到着する駅からタクシーを使って日付が変わっても必ず帰宅していた。
真夜中に帰宅する事は初めてではない。なのにこの違和感たるや、とても気味が悪い。そう、気持ち悪さは『気味が悪い』なのだ。
明日も普段通りの仕事がある。女の勤務先は小さなクリニックで、そこでただ一人の医療事務をしていた。
寝不足で体調を崩して周囲に迷惑はかけられない。いつも『元気そうに』努めて『勤め』なければならない。
早く就寝しなければ……風呂は朝に回すとして、この置いてきぼり感と違和感をどうにかしたい!
……でなければ、とても眠れそうにない。
そう思っている間にも、最終列車の中で引っかかっていたSNSが頭を離れていなかった事がじわじわと蘇ってきた。
降りた駅で感じた違和感と、車内で読んだSNSの違和感が同じであったのだ。
帰宅したらもう一度読もうと思っていたのに、帰宅したら帰りたくなって取り残された感に困惑して忘れていた。
女はもう一度SNSを開いた。
余談ではあるが、女の父親が昔知人から聞いた話の中に
《日用品や食品を買い出しに出掛けた男が夜になっても帰って来ない話》
というモノがある。
男は買い物が終わると月明かりを頼りに家路を急いだ。いくら歩いたかは分からない。山道の木々の上を月が煌々と照らしていたのをおかしいとは思わず、家がすぐそこに見えているのにどんなに歩いても歩いても、近付かない。
気が付くと、その男は家の中に入っていて、ぼーっと呆けて佇んでいた。背負っていた荷物の中は下から食い破られて何にも無かったと言う。
キツネかタヌキかムジナに化かされたのだろう。木の上で自らの尻尾を抱えて丸くなり、そこへ息を吹きかけて月に見せていたというが、嘘か真か分からない。
余談の余談には、山道で迷い込んだ先に一軒家を見つけて助けて貰おうと立ち寄ったら、喜んで迎えられ、うどんを出され、頂戴したら……うどんはみ○○で風呂は肥え○○であったとの実話があったらしい。大昔の事である。
女は一応そんな話も頭の隅に置いていたという事を蛇足とする。
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