黒き鏡の玉兎。

けんこや

黒き鏡の玉兎。

 男は幻の秘薬、《黒き鏡の玉兎》を求めてやってきた。


 《黒き鏡の玉兎》はどんな難病でもたちどころに治癒すると言われている伝説の万能薬である。


 男は野を越え山を越え谷を越え、人里離れた山中を何日も歩き、ようやくその秘薬を持つと言われる老婆のもとにたどり着いた。



 男は早速老婆に「《黒き鏡の玉兎》をよこせ。」といった。


 老婆は「ならぬ。」と言った。


 男は「金ならいくらでも出す。」といった。男は事業をいくつも成しており資産家だった。


 老婆は「いくら金を積まれても《黒き鏡の玉兎》はやらぬ。」と言った。


 男は「それならばどうしたらよいのか。」と言った。


 老婆は男の胸に杖の先を突きつけて、「心の腐った人間には《黒き鏡の玉兎》をやる資格はない。」と言い放った。


 男はひるむこともなく「自分の心は腐ってなどない。」と言った。「自分の妻が病気でいまにも死にそうなのだ、その妻を助けたい一心で、藁にもすがりつきたい思いでこんな辺境の地までやって来たのだ、けっして腐った心地ではない。」と言った。


 老婆は即座に「それは嘘だ。」といった。


「お前は妻を愛していない。お前にはすでに別の愛人がいて、妻には死んでくれた方が都合よく、ただ建前上、努力の汗を見せたいだけなのだ。」と言った。


 それから、「そもそもお前は秘薬、《黒き鏡の玉兎》の存在など信じていないはずだ。」と言った。


 それらは全て真実であった。男はズバズバと本心を言い当てられ、頭が真っ白になった。


 しかしそれを認めてしまう訳にもいかず、「こんなところまで来るんじゃなかった。」と言い、「どうせ《黒き鏡の玉兎》なんてインチキに違いない。」と捨て台詞を残してその地を離れていった。




 それから幾日もたたないうちに、男の妻は死んだ。


 男はすぐに愛人と結婚をしたが、うまくゆかずにすぐ別れた。



 数年後、男が再び老婆のもとを訪ねてきた。


 今度は「自分の病を治したい。」と言った。


 それは命に係わる病ではないが、意識がもうろうとして事業が手に着かず、しかしどんな医療技術を尽くしても治すことが出来ない病気だった。


 もはや打つ手がなく、伝説の《黒き鏡の玉兎》にすがるしかないと考えたのだった。



 男は前回の非礼を詫び「私は心を入れ替えました。だから今度こそ《黒き鏡の玉兎》をいただけませんか。」と頭を下げた。


 老婆は「《黒き鏡の玉兎》はお前には効果がない。」と言った。


「秘薬、《黒き鏡の玉兎》の材料は人間の“魂”なのだ。自身の命とひきかえに、誰か別の人間の病を治すものなのた。だから病にかかっている者自身を治すことはできないのだ。」と言った。


「ただし」と、老婆は続けて言った。


「お前の病気を治すために命を捧げてもよいという人間がいたら連れて来い。その者の“魂”を使って《黒き鏡の玉兎》をこしらえてやる。」と言った。


 男は、そんな人間がいるはずない、とすぐに思ったが、それを言うとなんだか自分が孤独な人間だと認めてしまうような気がして、口をつぐんだ。


 それから、ふと、この老婆が自分を騙しているだけのような気がしてきて、「やっぱり《黒き鏡の玉兎》なんてインチキに違いない。」と吐き捨てて山を下りていった。



 男の病気は進行し、次第に事業が頭が回らなくなり、人に手放した。



 それからさらに数年後、みたび男が老婆のもとにやってきた。

 

 病気の為か、手足は棒のようにやせ衰え、髪の毛は抜け落ち、まだ五十を過ぎたばかりだというのにすっかり衰弱した老人のようになっていた。


 男は、「自分の娘の病を治したいのだ。」と言った。


 男には死別した妻との間に娘がいた。


 その娘が妻と同じ病気にかかり、余命いくばくもない状態となっていた。


 男は「今度こそ、《黒き鏡の玉兎》を下さい。」と言った。


 老婆は「それではお前の命をいただくことになるが、よいか。」と言った。


 男は「かまわない。」と言った。


「娘が助かるのなら、この命は惜しくない。」と言った。


「そもそも自分は長年の病で衰え、この先長くはない。自分に残された時間と引き換えに、娘がこの先、何年も生きてゆくことが出来るなら、どんなにありがたい話だろうか。」と、涙交じりに訴えた。


 老婆は、仕方ない、という気持ちでうなずくと、満月の夜にもう一度おいでと言った。



 その月の満月の夜に男が老婆のもとに赴くと、老婆は山あいの湖のほとりに男を連れて行った。


 湖は夜の闇をたっぷりと吸い込んだかのように黒々とし、その水面には穴を穿ったかのように、天上の満月がぽっかりと映り込んでいた。


 老婆は、男を湖を背に立たせると、巨大な鎌を手に取った。


 それから「さあ死ぬよ。覚悟はいいね。」といって、鎌をおもいっきり振り上げた。


  すると、あれほど心に決めていたのにもかかわらず、男は恐怖にかられて取り乱し、思わず老婆を突き飛ばしてしまった。


 突然のことにふいをうたれ、老婆はその場にひっくりかえってしまった。


 と、はずみで手にしていた鎌がぐるっと一回転し、老婆の体のど真ん中にぶすりと突き刺さった。


「ぎゃあ!」と、老婆の叫び声があたりにこだました。


 胸から大量の血をあふれだしながら、そのままうめき声ひとつ立ず、老婆はあっという間に息絶えた。



 一瞬の出来事だった。


 男は、自分がしてしまったことの重大さに呆然として、突き飛ばしたその両手をそのままにした状態でぶるぶると震えた。


 老婆の遺体から、一条の血筋が湖に向かって流れてゆく。


 男は虚空をみつめるように、その血の流れてゆく様子を目で追った。


 そして、その流血が湖に達した瞬間、不思議な現象が起こった。



 遠くの湖面に揺らめく月影が、するするとこちらに向かって近づいてくるのである。


 男は思わず頭上を見上げた。


 月は上空を微動だにしていない。


 紛れもなく、湖面に映っている月の反射した光だけが、まるで生き物のように接近してくるのであった。


 その光は、こちらに近づくほど巨大な光のかたまりとなり、湖のほとりに到達するころに周囲一帯を照らすほどのまばゆさとなった。


 そして、その輝く水面がもりあがったかと思うと大きくはじけ、中から巨大な獣が姿を現した。



 男はしりもちをついたまま、唖然とその獣を見上げた。


 獣は2本の足で直立し、全身が黄金色の体毛に覆われていた。


 その顔は鹿のようであり、しかし頭頂部から生えているのは角ではなく耳のようであり、すなわちその姿は直立する巨大な兎のようであった。



 男はあっけに取られ、自分のほほを何度もたたいた。


 あまりにも衝撃的な出来事の連続により、思考も、全身の感覚も、何一つ正常に保つことができなかった。


 獣は男をじろりと見ると、傍らに横たわっている老婆の屍に歩み寄り、両手をそっと老婆の上にかざした。


 すると老婆の体から、透き通った真綿のようなものがふわふわと立ちのぼり、獣の両手に吸い上げられ、まとわりついていった。


 獣はそれをまるでわた飴をあやつるようにくるくるとまとめ、両手で器用にこねくり回すと、あっという間に銀色に輝く半透明の球体が出来上がった。


 秘薬、《黒き鏡の玉兎》であった。



 獣はがくがく震えつづけている男を見て、「病に侵されているのは貴様か。」と言った。


 言うなり、獣は男の返事を待つこともなく、《黒き鏡の玉兎》を男の体の中にめりこませた。



 瞬間、男の体に異変が起きた。


 全身の細胞という細胞が一斉に震え出し、枯れていた血管という血管に潤いがほとばしり、体の中枢から末梢に至るまで勢いよく養分を送り込み始めた。


 臓器のひとつひとつが活動を再開し、骨という骨の一本一本が頑強さを取り戻し、筋肉が盛り上がり、皮膚をおしあげ、禿げ上がっていた頭皮からは髪が勢いよく生え始め、干物のようだった皮膚は脱皮をするかのように表層から剥がれ落ち、その下からなめらかでつやのある肌が露出した。


 それまで男を悩ませていた意識の混濁は、まるで霧を吹きはらったかのように明瞭に冴え、張り巡らされた神経が活発に連携し、男の全精神を大きく、ゆとりある均衡へと沈着させた。


 もはや病気で老いさらばえていた男の姿はどこにもなかった。


 そこには肉体の絶頂期を迎えたばかりの青年が、若々しく起立していた。



 獣はいつのまにか姿を消していた。


 男はしばらく一歩も動くことが出来ず、茫然とその場に立ち尽くしていた。


 周囲には老婆の亡骸と、若々しく変身を遂げた男と、月と暗闇と、そして途方もなく膨大な静寂が残されているだけだった。



 数日後、男の娘は息をひきとった。


 男は娘のもとに帰ることもなく、そのままその地にとどまり続けた。


 病気で苦しんでいる娘に対して期せずして若返った己の身を恥じたのか、単に殺人の罪を恐れたのか、それともこの顛末に至るまでの全人生に対する贖罪の念であったのか、その理由は定かではない。


 言い伝えによると、男はその地で《黒き鏡の玉兎》の番人となり、数百年間生き続けたという。


 そののち男は白日昇天(注1)し、天仙(注2)になったとされている。




(注1)白日昇天:真昼に天に昇る。仙人になること。

(注2)天仙:仙人のこと。



『黒き鏡の玉兎。』 終わり

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黒き鏡の玉兎。 けんこや @kencoya

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