セリスティア・メロディア④
殺害されたメロディアは、形而上においてジャクジャキジャッキジャケットの本質と交流することに成功した。このエターナル・ギミックと意思疎通が出来たことはまさに僥倖だった。これ以上は無いと言えるほどの窮地だが、それでも逆転の手はまだ残されている。そう確信した『女神』は、好機と見るやすぐさま行動を開始した。男の子が、隣家の様子を知るためにか、部屋を飛び出して行ったのだ。戻ってくるまでが、勝負だった。それまでに何らかの結果を出しておきたい。これ以上は考えるよりも、一か八かに賭けてやってみたほうが早い。セリスティア・メロディアは、ジャクジャキジャッキジャケットの本質に向かってこう告げた。
「あなた、私になってみる気ない?」
「どういう意味か全くわからないんだけれど」
「私の失った何かが、こちらの私に依拠しているのか、あちらで転がっている私に依拠しているか、あなたはその答えが知りたいでしょ。そして私は、この危機をどうにか切り抜けたい。双方にとって決して悪いようにはならない、とっておきの方法よ」
「へえ、どんな?」
セリスティア・メロディアは、若干苛立ちを覚えた。彼女の知る限り、『女神』の中にはこんなに勘の悪い奴はいない。それが、『女神』と『エターナル・ギミック』の間に横たわる、深い深い溝であるのかもしれない。この情報伝達が形而上で行われているから良いようなものの、もしも現世において悠長に会話などしていたのなら、時間切れでとっくに計画は破綻しているだろう。
「あなたは、仮にも『エターナル・ギミック』なのだから、形而下で形が残らないほどにまで破壊されたら、その本質を他の物に移すわけでしょ?」
「勿論。けれどもそれは、あくまで自分のギミックを発動させられなくなるのが勿体無くて移るのであって、別に君のように何かを持っていかれて、元の身体を使えなくなるから、というわけではないよ。やろうと思えば、僕はたとえ灰になっても僕でいられる。まあ、その姿では誰も僕を着てくれないだろうけど」
「じゃあ逆に、私の死体の中に入ってもあなたでいられる?」
「……それは、わからない。やったことがない。『女神』がこんな風になるのを見るのは今が初めてだし、それが他のものと同じように行くかどうか見当もつかない」
「つまり、他の物体の中に本質を移し変えることは自由に出来るわけね?」
「何か不思議でも? もしかして君達は出来ないの?」
質問に質問で返事が来たことについては、今更何も言うつもりはない。それが、予想を上回るほどに良い返事であったのであれば尚更だ。
「出来るならどうして今、誰も着てくれないジャケットなんかに固執しているの? もっと皆が着てくれそうな服に移ればいいじゃない」
「……その考え方は、残念ながら僕には理解出来ない」
『女神』と、エターナル・ギミックは本質的にはきわめて近縁であるはずだった。こうして意思の疎通をはかることが出来るのは、その証左である。しかし、現世において生物と無生物という決定的なまでに異なる形質をもって長年存在して来たためか、本質部分において、やはり大きな差異も存在する。セリスティア・メロディアは、そこに興味を惹かれた。『女神』は生物の形態をとってはいるが、変身によって好きな姿になることが出来、基本的に不老不死であるため、その本質と現世での依代は常に一対一の対応であり不変である。これは巨視的に『女神』の総体を捉えると、むしろ無生物の在り方に近い。一方で、エターナル・ギミックは無生物の形態をとるため、破壊や消費などによる損失の憂き目に遭いやすく、その本質は現世では幾多もの依代の中を常に流転しうる。これは、エターナル・ギミックという生物種が隔離され、二五五という決められた個体数を維持したまま、生存に有利な形質を次代に残しながら進化して行く特殊なモデルであるとも言える。この考え方に照らすと、他のジャケットにその本質を移すことに考えが及ばないジャクジャキジャッキジャケットのあり方は、生物が自主的に生存に有利な形質を獲得し進化をするのでなく、偶発的に現れた生存に有利な形質が次代以降にも伝えられて行きやすいだけである、という生物進化論を裏付ける。
皮肉なことに、『女神』よりもエターナル・ギミックの方が生物らしい面を多く持っているのではなかろうか。この仮説は、突き詰めていけばいくらでも反論の余地があるだろう。しかし、生物と無生物という構図で単純にその二者を括れないことは間違いなく、ならばこれからメロディアがやろうとしていることも、あながち夢物語とは言えないはずだった。
「ともかく、あなたが私の死体の中に入っても本質を維持出来るのだったら、その場で変身してみて欲しいの」
「待ってくれ。僕は変身など出来ない。僕は『女神』ではないんだ」
「だからこそよ。『私が持っていかれた何か』と同じものをあなたが持っているとして、さらにそれがこちら側のあなたに依拠するものであるならば、私の体に入ったあなたは、実質的に『女神』と全く同じ存在になるということでしょ? 空っぽになった『女神』の肉体を操って自由に変身できるはず」
「……もしも出来なかったら」
「いくらかの可能性は残るわね。『私が持っていかれた何か』が、やっぱりあちら側の体に依拠しているのか、あるいはそもそも、エターナル・ギミックであるあなたはその何かを持っていないのかもしれない。まあ、それを調べる実験も考えてあるから、安心して」
これは嘘だった。メロディアの予想では、おそらく変身など出来ないはずだったが、その先を調べる実験など考えていない。考える必要のないことだ。変身の成功失敗は、実はどうでも良い。とにかく今は時間が惜しい。早く作戦を開始しなければならない。
「ほら、早く。お願い」
ジャクジャキジャッキジャケットは、何か言いたそうな顔をしたそうな気配を伝えてきたが、結局それ以上は何もしなかった。渋々ながら、動き始めたようだ。
セリスティア・メロディアの目には、ジャクジャキジャッキジャケットの本質に何らかの変化が生じたようには見えなかった。ただ、現実世界でメロディアの死体が羽織っているジャケットから、エターナル・ギミックの気配がすっと消え失せるのがわかった。ただし、こちらのジャケットにも視覚的には何ら変化は生じていない。随分と地味なのだな、とメロディアは場違いな感想を持った。
「ええと、何だかやけに核まで遠いんだけど」
ジャクジャキジャッキジャケットの意思が伝わってきたが、メロディアにはよく意味がわからなかった。核とは何だ? 『女神』であるメロディアは、その本質を他の物体内に入れ替えるという概念が、全く理解出来ない。どうも、それにはそれで決まり事があるらしい。『女神』の行う変身は、もっと漠然としたイメージだけで都合良く物理法則すら無視してしまえるものだった(勿論その皺寄せは形而上において現出しているのだが、通常の『女神』はそれをあまり認識していない)。そのため、エターナル・ギミックの本質の乗り替えも同じ風に気楽なものを想像していたので、これは少し意外だった。
「ようやく届いた。でもこれは、駄目だ、いや、おかしい」
唐突に、ジャクジャキジャッキジャケットが異変を伝えてきたそのままに、現実世界で変化が起こった。ジャクジャキジャッキジャケットの本質が入り込んだらしい『女神』の死体が、粘土細工のように不躾に形を変え始めたのである。羽織っているジャケットが、もぞもぞと隆起したり陥没したりを繰り返し、中の動きに翻弄されている。
変身か、とメロディアは一瞬光明を見た。だが、その動きには、『女神』の変身における、イメージの具現化という非常にご都合主義的な、それ故に洗練された美しさは欠片も無かった。ヘドロの堆積した海底を巨人の右手で掻き回す様な、不気味で醜い様相を、それは呈していた。
「おかしい、逃げられ、待て、これは、ここを、駄目か、離せ、助け」
ジャクジャキジャッキジャケットが徐々に追い詰められて行くのを知っても、メロディアは一切動揺しなかった。この事態は要するに、エターナル・ギミックの本質では『女神』の肉体を制御することは出来ない、ということを示しているに過ぎない。何より、メロディアの肉体は既に何かを持っていかれた後なのであるから、『女神』である自分にすら扱えない代物だ。エターナル・ギミックがそれを操るなど、勝手が違うという以上にハードルが高すぎる。ジャクジャキジャッキジャケットの本質が前後不覚に陥るとは予想外であったが、元々無茶を言っていた自覚はあるので、メロディアにとっては想定の範囲を越えるものでなかった。さらに言えば、これは彼女の計画を遂行する上では、好都合だった。
エターナル・ギミックが『女神』の肉体に入れるのであれば、その逆、『女神』がエターナル・ギミックの抜け殻に入ることも出来るのではないか。メロディアが考えたのは、その一点だけだった。彼女が持っていかれた何かは、彼女の考えでは、現実世界側の体に依拠している。とすれば、エターナル・ギミックにあるその何かは、本質が抜け出たジャケットの中にも残っていることになる。彼女がそれを手に入れることが出来れば、現世に復活することが可能なのではないだろうか。つまり彼女は、ジャクジャキジャッキジャケットの乗っ取りを謀ったのだ。
ジャクジャキジャッキジャケットジャックである。
「助け、これ、何かおかしい、出られない、戻れな、ねえ、手を伸ば」
エターナル・ギミックの本質が足掻いている様は痛ましかったが、『女神』にとっては今が千載一遇のチャンスなのだ。メロディアの本質はすかさず、ジャクジャキジャッキジャケットの中に飛び込んだ。
否。正確には、飛び込もうとした。彼女の意識は、現実世界にあった時間の方が長いため、何事においてもまず物理的に考えようとするのだが、残念ながら形而上において彼女が飛び込むような対象は存在していなかった。誤算だった。『女神』として現世にいた頃は意識したこともなかったが、こうして何の後ろ盾もない本質剥き出しの状態から見ると、形而上と形而下の隔たりは余りにも大きく、それを片手間で繋ぐなど不可能に近い。先ほど、『女神』の死体へ移動する際のジャクジャキジャッキジャケットの様子を見ていたが、何ら変化を感じられなかったので、参考にすることも出来ない。
否否。――核がある。
ジャクジャキジャッキジャケットは、メロディアの身体に入る折、確かこう言った。核までやけに遠い、と。核というのが具体的に何だかはよくわからないが、文字通りそれが本質乗り替えにおける核なのであるとすれば、それだけで事足りる。抽象物の、さらに聞きかじった印象だけでしかないとしても、『女神』にとっては十分な手がかりになる得る。ここは、そういう世界である。核。メロディアが銃弾で持っていかれた何か、とは別に、本質と肉体を結ぶ重要な鍵。ジャクジャキジャッキジャケットの抜け殻の中にあるそれさえ見つけられれば、メロディアは現世に舞い戻ることが出来るのだ。
だが、核とは何か? 何を見つければ良いのか、見当もつかない。時は刻一刻と過ぎて行く。焦燥感に後押しされるのだが、何から手を付けて良いのかわからないので、如何ともし難い。もどかしい状態が長引き、メロディアが諦めかけたその時、視界が急に開けた。
何が起こったわけでもない。核というキーワードを軸に思考を捏ね繰り回していた彼女の前に、突然にその実体が姿を現したのだ。それは頓悟に近い。核は、ジャケットを円として捉えると、丁度その中心に位置していた。三次元的に複雑な形状を持つジャケットに対して、二次元的な換言しか許されないようなそれは、メロディアの認識の上では虚空に浮かんでいた。真っ赤に光っている。地球から見た月と大体同じくらいの大きさで、じっと見ていると吸い込まれそうな感覚はあるが、比較対象がないため、近いのか遠いのかはよくわからない。核を視界の真ん中におくと、ぎりぎり視野の縁にジャケットの輪郭が引っ掛かっている。のっぺりと、それが見える。ジャクジャキジャッキジャケットの抜け殻だ。現世における視界と絶妙にそれを重ね合わせながら、メロディアは核に手を伸ばした。本質の腕を、目一杯前に突き出した。夜空の星を竹竿で落とすよりは遥かに現実的に思えたが、実際にその瞬間が来るまで、彼女は自分の様子を道化のように見下ろしていた。
ぐるりと、視界が反転した。文字通り完全なる反転だった。上下左右というよりも、自分の表と裏が、核を中心として引っ繰り返される感触があった。ゴムボールの一箇所に傷を付けて、そこからべろんと裏返しに剥くのに似ていた。彼女の場合、その傷にあたるのは眼球だった。思いのほかスムーズに、体の中と外が逆転し、視野の中心にあった核は、彼女の本質の中へと上手く納まった。視野の縁を占めていたジャケットは、彼女の体の輪郭と完全に一致し、この時をもって、『女神』セリスティア・メロディアの現世への再降臨はなされたに違いなかった。彼女は、本質の部分を使って笑った。実体はジャケットである。ジャケットは笑わない。
エターナル・ギミックの抜け殻である駱駝色のジャケットは、前の『女神』の体とは勝手が随分違っていて、感覚器官もなければ外部への干渉手段もない。出入力の両方を欠いた、実に鼻持ちならない代物であった。それが『女神』とエターナル・ギミックの最も特徴的な差異か。ジャクジャキジャッキジャケットは、このジャケットの中から外の世界の様子を把握していたようだから、エターナル・ギミックに特有のやり方があるのだろうとは思うが。『女神』であるメロディアにはそれが出来ない。彼女は憤慨したが、贅沢は言っていられない。むしろ、ここからが本番だ。完全に暗転した視野の中、彼女は、ジャクジャキジャッキジャケットの内部を見回した。勿論比喩ではあるが、その内情を、『女神』の見地からじっくりと分析した。時間をかけることは許されない。現世での時間はほとんど残されていない。銃弾によって彼女が持っていかれた何かは、予想通り、ジャケット内部に残されているようだった。どうしても曖昧なままだが、そのぼやけた認識を今は信じるしかない。自分の本質と、ジャクジャキジャッキジャケットのものであったその何かが上手く噛み合うのを確信してから、メロディアはゆっくりと最初の歯車を回した。自分の中で自分が律動して行く感覚がある。それだけは本物と信じる。内側から突き上げるような快感がある。体のいたるところで、ジャケットが自分に塗り替えられて行くのを感じる。細胞の一つ一つを認識する。いつもの、変身の感覚にそれは似ている。だが完全に一致しない。『女神』は不完全であってはならないのに。全部で一〇箇所以上も、合わないジグソーパズルのピースを無理に嵌め込むような、決定的な違和があった。誤差範囲だと見なして、無理矢理変換させてみたが、どうもしっくり来ない。そこで咄嗟に、本質と依代で不具合を起こした部分全てを一箇所に収斂していき、捻じ切るようにして切り離した。激痛が走るが、我慢するしかない。いつだって、変革には痛みが伴うものだ。
メロディアは『女神』としての身体を取り戻していく。
体性感覚を獲得し、外部の状況を認識する。少年の部屋の中央で、転がっている。自分はまだかろうじてジャケットの形をしていたが、そのスタイルは先程より遥かに洗練されていた。自らが自由に変形可能なことを確信し、変身を試みる。突然、吐き気のような、内側から身体を突き上げる猛烈な不快感に襲われたが、外面的には『女神』時代と何ら遜色のない、スムーズな変形となった。
人型ではない。逃亡に最も適したスタイルだ。むしろ、彼女の本当の姿はこれだと言ってもよい。だが、どうもどこかがおかしい。完璧さとはかけ離れた不快感が、意識を靄のように覆って消えない。ぎくしゃくと、どこか不自然に動き出す。
駱駝色の生地が一部、自分の真横に転がっていた。それは自らが先ほど不具合を感じて切り捨てた部分であり、まさしくエターナル・ギミックの残骸だった。先程まで、二つの意味でその中にいた者は、現実世界において今、一切原形を留めていなかった。皮肉なことに、ジャクジャキジャッキジャケットの本質が入り込んだ『女神』の死体は、灰とも炭ともつかない黒っぽい粉となって散乱しており、著しく部屋の秩序を乱すことに一役買っている。どうやら、エターナル・ギミックの本質では、『女神』の抜け殻を物質として維持することが出来なかったらしい。完璧に、滅んでいる。この様子では、あのエターナル・ギミックの本質も、それと運命を共にしたことだろう。憐れに思うが、今のメロディアにはもう関係の無いことだ。掃除が大変だろう、と愚にも付かないことを考えて、彼女は一旦、この場からの逃走を計る。勿論、一時的な戦略的撤退だ。
侵入経路を逆に辿る。彼女は大きく伸び上がり、天井に開けた覗き穴からするすると部屋を脱出した。メロディアは今、細長い紐のような姿をしている。新体操のリボンのような、触り心地の良い真っ白い薄布を想像してもらえばよい。その先端に、よく見ると申し訳程度に顔がついている。視覚と、聴覚と、嗅覚を感知する器官を全て一方の端に集めたものだ。地球上の生物で言えば、蛇に最も近いか。動くたびに、体のどこかで異変を伝える警告が鳴り響く。苛々しながら先へ進んだ。どうも、本調子ではないようだ。
彼女はそのまま天井裏を通り、誰にも見られず少年の家を脱出する。埃っぽさに辟易しながら、太陽の光の下に出てきた彼女は、外壁を伝って下りてきた裏庭で一度背伸びをした。人型だったら間違いなく骨が鳴っているところだ。全身が、奇妙に強張っている。ぐるりと顔を一周させ、偶然通りがかった猫を威嚇して追い払ってから、隣家を見上げた。ごくごく一般的な、庭付き一戸建て。白い壁は朝日に照らされ、少年の家の影でその一部が切り取られている。本当に近い。物理的にも、そして心情的にも。そこに住んでいるのは、少年の最も大切な人間であって――メロディアが屈辱を味わう原因となった少女だ。
『女神』に敗北は許されない。稀に見る窮地を脱し、こうして戻って来たのも、雪辱のためだ。少なくとも、このまま何もせずに敗走するほど、メロディアはプライドが低くない。何もせずに逃げることはしない。これは復讐だ。奴らは、私を虚仮にした罰を受けねばならない。
……あいつらの関係性をぐちゃぐちゃに引っ掻き回さなければ気が済まない。
メロディアの中で、その行動指針が、ここまで来てもなお、ラブコメの枠から外れなかったことは、人類にとって実に幸運なことであった。
かくして次の行き先は、決まった。一歩ずつ着実に、彼女は破滅の道を辿る。
一階のトイレの窓の隙間から、室内に侵入した。這うように階段を上がり、音もたてずに忍び寄る。正面から堂々と侵入するのは初めてで、廊下側から目的の部屋を探すのに少し時間をロスしたが、考えうる限り、最短時間で彼女はそこに辿り着いた。中に少年はいない。それだけを確認する。体に付き纏う違和感は、大きく増大している。やはり、身体が違うと勝手も変わってくる。『女神』らしからぬ嫌な予感に身震いし、メロディアは、ドアの隙間から身体を捻じ込んで到着したその部屋の光景を眺めた。カーテンの色だけは女の子らしい、と言えなくもない。それ以外は実に中性的、機能的で簡素な洋間だった。勉強机と、オーディオ機器の乗ったサイドテーブル、小さな本棚とベッドだけで構成されている。洋服箪笥が置かれていないことから、収納はどうやらクローゼットだけで収まっているらしい。ベッドの脇には、やけに整った顔立ちの若い男性が大写しになったポスターがかかっており、それに見守られるような位置で、背の低い少女が無防備な寝顔を晒していた。寝相は良いのか、毛布に包まったまま真上を向いて微動だにしない。隣家で、今しがた自分と全く同じ姿の存在が殺害されたことなど知る由もなく、安らかに朝を迎えている。それを微笑ましいと思えるだけの余裕が、今のメロディアにはもう残っていなかった。
一体、ここでどんなことをやらかせば良いのか。どうすれば自分の気が済むのか、最早それすらも見失いつつある。綿密な計画を立てている時間は無い。あの男の子に一泡吹かせるためには、間を空けずに畳み掛けた方が良い。今この瞬間、そこのポスターの男性に変身し、少女をキスで起こすくらいの無茶をやるべきだ。だが、それには決定的な不安がある。果たして自分は、もう一度上手く変身出来るのだろうか。
違和感は膨れに膨れ、今や体中、細胞の一つ一つがばらばらに動き出しているような気さえする。元々エターナル・ギミックであった体が、『女神』の制御を嫌がり、逃れようとしているみたいだった。力尽くで抑え込み、白蛇のような格好でうねうねと自分を維持しているが、気を抜けばジャケットに戻ってしまうのではないかとさえ思う。それでは、もはや『女神』ではない。
完璧からは、程遠い代物。それを認めるわけにはいかない。少なくとも変身は、是が非でも成功させなければならない。
階下で小さく、鍵を開ける音がした。まずい。男の子が早くも訪ねて来たようだ。予想外の早さだった。少女の無事を確認しに飛び出していってから、一旦自宅へ戻ったところは見ていた。幼馴染が生きていてさぞかし安心しているだろうと思ったら、何故か、飛び出していった時と同じく酷く狼狽した表情で走っていた。自室に戻った時、『女神』の姿が消えているのを知って仰天したことだろうと思う。そして、彼ならばその行方を、少なくともその手がかりを、遅刻の限界ぎりぎりまで調べるはず。メロディアはそう読んだのだが。ところがこれはどういうことだろう。『女神』は完全に死亡して消滅したのだとこの短時間の内に断定したのだろうか? そんな安直な行動に出るタイプではなかったはずだが? 玄関のドアが、ゆっくりと開く。ベッドの上の少女が、わずかに身じろぎした。
床の軋む音が、少しずつ近付いてくる。少年が、ゆっくりと、階段を踏みしめるように上っているのだ。メロディアは混乱した。いつもの行動パターンでは、先に台所で朝食の用意を始めるのではなかったか。何故、真っ先にこちらに向かうのだろうか。まだ、女の子の起床時刻には時間があるはずだ。それなのに何故? いや、考えていても仕方がない。とにかくここにいてはまずい。身を隠しておかなければ、あの勘の良い少年なら、即座に自分の正体に気付くだろう。タイミングとして、今は最悪だ。体中の違和感を少しでも飼い慣らしておかなければ、満足に反撃も出来ない。
選択肢は、それほど多くなかった。ベッドの下か、本棚の裏か、あるいは……。
メロディアは、造反を試みる自らの細胞全てを鞭打って律し、鎌首をもたげたままフローリングの床を這って進んだ。ジャケットをジャックした直後、一瞬だけ感じた『いつも』の感覚を取り戻そうとしたが、どうしても思い出せない。何かが決定的に狂い始めたような、恐ろしい想像が頭を掠める。
合わせ扉の隙間から、クローゼットの中へ潜り込んだ。身体が思うように動かない上、隙間が予想よりも狭かったために、メロディアの全身がクローゼットに収まり切るよりも前に、部屋のドアが開いた。少年が入って来る。間に合わなかった。愕然とする。自分をここまで追い詰めるこの少年には、感動すら覚える。攻撃に備え、暗闇の中でメロディアは、とにかく自分を取り戻すことに努めた。精神的にも、そして、肉体的にも。
だが、何か様子がおかしい。いつまで経っても、危害が加えられる様子がない。不思議に思ったメロディアは、状況を把握するため、視覚の感覚器官を自らの最後尾、つまり室内にはみ出した部分へと移行させることにした。『女神』の変身能力を考えれば造作も無い行為のはずだったが、上手くいった時には自分で自分を褒めてやりたくなった。
男の子は、ベッドの傍で、放心したように少女の寝顔を見つめていた。深々と、息を吐き出す。心底安堵した様子が、そこから見て取れた。もしかすると、今初めて彼女の無事を確認したのかもしれない。そんな姿を見ていたら、いっそ女の子を殺し、変身によってそっくりそのまま成り代わってやろうかという物騒な考えが脳裡をよぎった。それで気の済むものなら、きっとそうしていた。メロディアの想いは、もっと遥かに屈折していた。
目が合った。
一通り気が済んだのか、少年は少女を起こすことなく部屋を後にしようとした。その、振り向いた瞬間、クローゼットからはみ出しているメロディアの一部に目を留めたのだった。『女神』は反射的に緊張で身体を強張らせたが、幸運にもその行為は現実世界に反映されていなかった。少女の安全を確認できたことで安心し、油断していたのだろう。少年は結局、見た目は一枚の細長い布に過ぎないメロディアの正体を、一瞥だけで看破することは出来なかった。一瞬だけ不審そうな顔をしたが、それで姿を消した。
動けなかった。
急速に、体内の違和感は萎んで行った。まだどこかで燻っているような気配はあるものの、とりあえず静かになってくれた。だが、それとは対照的に、メロディアの意識の中で何かが膨らんで行った。その感情は、メロディアの情緒を片端から崩しにかかり、完璧であるはずの『女神』は、感情の暴走を抑え込もうと必死になった。そうすると今度は逆に、細胞の造反が始まる予感がある。均衡を保つためにどこかで妥協したいが、その唯一点はどうしても見つからない。感情を抑える方が辛い。否、今はそうする必要は無い、と他でもない自分に諭されてしまうかのようだ。
メロディアは唖然とした。つまり、この恐ろしい感情に身を委ねろということだろうか。エターナル・ギミックの殻は、『女神』の本質に対して、そんなことを望んでいるのだろうか。あるいは、それを望むのは自分自身か。……全く、馬鹿げている。メロディアにそれを言う権利があるのかどうか別としても、これは馬鹿げているとしか思えない。が、しかし、本気でそう思う一方で、意識の片隅に悲鳴を上げている部分があるのを知覚する。それが、生物としての宿命だとでも言えば格好も付くが、『女神』はそれを超越していなければならないはずだ。メタ的な位置に立つからこそ、「ごっこ」遊びが楽しめるのではないのか。それが、いつもの彼女のスタンスだったはずだ。それが今や。このままでは。
本気になってしまう。
もはや、何が何だかわからない。『女神』は混迷の只中で苦悩する。この思考の発端がわからない。ジャケットに残されていた何かが原因なのか、あるいは乗っ取った後で一部を切り捨てたことに問題があるのか、それとも潜在的に『女神』という種として正しい思考の筋道を通っているのか、メロディアという個に依存するものなのか、そもそも間違っているのか正しいのか。どこからおかしくなったのか。
あいつらの関係性をぐちゃぐちゃに引っ掻き回さなければ気が済まない。……実際その時点で、他意は、無かったか?
この感情の名をメロディアは知っていたが、それを否定したい気持ちが、『女神』の意地として、確かにまだ残っていた。彼女の本質を支えている酷くグロテスクな何かとして。
落ち着かない想いに急かされて、彼女は変身を遂げる。正確には変身ではない。創造に近い。暴走するように、クローゼットの中で紐の全長が爆発的に伸び、さらには人型の何かが造形されていく。部屋の方にはみ出した部分は、しかしぴくりとも動かない。少年がもう一度来た時に不審を覚えないよう、完璧に意図されている。間違いなく、『女神』の理性は残っているのだ。ただ、クローゼットの中で構築されていく肉体は、『女神』をどこか他所に置き忘れて、全くの独断で出来上がっていく。メロディアは訳がわからない。まるで自分が二人いるようだ。落ち着くために目を閉じる。そう、目だ。いつの間にか感覚器官の位置が移動している。模造された眼球で、闇の中、内扉を見つめる。自分が何になるのか、彼女はまだ決めていない。決まっていない。そのはずだ。ただ、着々と事態だけが進んでいく。自分の制御を離れている。制御を放棄したのも自分だが。メロディアは、『女神』の立ち位置には、最早居ない。強がることは出来るが、間違いなく、そこには居ないのだ。目的は殆ど変わらないように見えても、ただ、彼女が本気になっているというその一点で。漠然とした欲求に衝き動かされている。もっと上手いやり方は、いくらでも、あるはずだった。クローゼットから出ないというのが、『女神』であった頃の彼女の残した、最後の矜持かもしれない。ここまできて、どうしようもないが。その二つを融和させることが出来なかったのが、自分の敗因だ。彼女は悟った。
静かに溜息を吐く。
どうせ、自分は何をやっても、道化に終わるのだ。
あの女の子を誘惑する男性に変身しようとしなかった時点で、建前は崩れていたのだ。メロディアの目的は、二人の仲を引き裂くことではなく、男の子をどうにかして振り向かせることに移行していた。そして、本気になった。そう、本気になったのだ。それを否定する気ならば、やってみれば良い。この姿で、それこそ少女の方をこそ篭絡しようとしてみれば良い。目くるめく百合の世界を教えてやれば良い。『女神』の矜持に随って、歪な三角関係を演出して楽しめば良い。楽しめるものならば、だ。どうせ、結局は男の子に対する目配せばかりして、話にならずに終わるはずだった。それが、この身体のメロディアの限界だ。
こんな自分が愛されるなど、土台無理な話だ。男の子との確執は何も消えていない。何をしても空回りで終わり、後には何も残らない。だが、誰を恨むことも出来ない。全ては『女神』だった自分が撒いた種だ。陳腐な言葉だが、彼とはもっと別の形で出会いたかった。彼女は結局、そういう役どころなのだ。ヒロインなどにはなれそうにない。ヒロインのライバルとして賑やかしの役を担い、二人の仲を発展させる踏み台にでもなるのだろう。もしも心の底から本当に、彼を愛しているのだとしても。
今更、取り返しのつく話ではない。
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