河口和己⑤

 通常ならば始業のベルを教室で待っている。そんな時間になっても、浅葱とメロディアは戻ってこなかった。和己としては、必要以上の時間を与えられて準備はもう万端。余った時間を利用して部屋の片付けまでこなしてしまっていた。もしや、こんな自分を置き去りにして、浅葱は一人で学校に行ってしまったのではないだろうか。それを考えるのは怖かったが、こうも戻るのが遅いとなると、その可能性も十分考えられる。

 大きな不安がまた鎌首をもたげてくる。置き去りならばまだましな方だ。万が一、あの二人の間で何らかの揉め事が起こったのだとしたら。万が一、あの二人が二人きりというシチュエーションを利用して浅葱の部屋でよからぬことをしているのだとしたら。それはどちらのケースであったとしても一大事だ。すぐにでも井倉家に駆けつけて事の次第を確かめなければならない。

 どうせ大丈夫に決まっているから、という投げやりな楽観論に支えられていつもは不安を押さえつけるのだが、今日は何と言っても特別な日だ。和己が生まれて初めて謎の美少女にご主人様と呼ばれた日だ。生まれて初めて学校をサボることに決めた日だ。いつものように待つだけでは埒があかない。どうせ近いのだし、行ってみても良いのではないだろうか。もしも決定的なシーンを目撃したら、その時はその時だ。泣き喚けば浅葱も優しくしてくれるだろう。

 和己は、背中の大きく開いたワンピースにお気に入りのトートバッグというしごくシンプルな出で立ちで、部屋を後にした。派手さは無いが、現段階で自分に一番似合うと自負している。さりげなくイヤリングもしているが、浅葱はこういう点に関しては全くもって鈍感なので、たぶん気付かないだろう。髪形を変えた時も、和己が口に出すまで絶対に気付かないし、それどころか、口に出しても本気にされないことすらある。まあ、それは、浅葱をからかうために、「昨日、髪切ったんだ」という嘘を常套的に吐くようになった和己にも責任はあるのだが。

 階下に降り、玄関でヒールの一番高いサンダルを履いて、家のドアを開けたところで小さく悲鳴をあげた。玄関先に無言のまま、ぼうっとした表情で、当の浅葱が立っていた。

「びっくりした。どうしたの? そんなとこで突っ立ってないで入りなよ」

 何から不審に思えば良いのかわからないくらい不可解な状況だった。和己は、自らの口を突いて飛び出したあまりにも当り障りの無い言葉に自分で驚いた。飛び切りのお洒落でテンションを上げている自分と、何やらわけあり顔で戻って来た制服姿の浅葱の間に、越えられない溝のようなものを感じて、和己は無性に不安になった。

 何より、肝心な人間がいない。

「メロディアさんは? どうしたの?」

 浅葱は、たった一人で戻って来ている。隣に、精霊を名乗った謎の少女の姿は無い。聞いているのかいないのか、やけに曖昧な顔で立っていた浅葱は、ようやく中へ上がり込み、ぽつりと呟いた。こんな様子の幼馴染は、見たことが無い。

「……消えた」

「え?」

 何かの聞き間違いかと思った。浅葱とメロディアは着替えに行っていただけのはずだ。

「いきなり、いなくなった」

 和己は浅葱のその言葉に、大きな違和感を覚えた。自分の前なのに母親モードの口調でない、という点もさることながら、それだけでは完全に説明のつかない何かがあるのだった。だが、どこがおかしいのか冷静に考えようとすると、漠然としていて捉えどころが無く、言葉に出来ない。その感覚が和己をひどく不安にさせる。強いて言うなら、まるで目の前にいるのが実は浅葱の格好をした全く別の何かであるような、そんな不安。

「ちゃんと説明して」

「いや、もう、そうとしか言えない。いきなり、消えたんだ」

「いつ?」

「いつって?」

「だから、どこまでは一緒にいたの?」

「俺の部屋に一緒に入った。俺がクローゼットから服を取り出して、振り向いたら誰もいなかった」

「それだけでこんな時間になる? それまでは何やってたの?」

「いや、遅れたのはその後のせい。家中あいつを探したり、あと、言い訳考えてた」

「言い訳?」

「こんな話、和己には信じてもらえないんじゃないかって思って」

「まあ、信じないけど」

 浅葱は、こんな人間だったろうか。ここしばらく、彼は本当に母親代わりとして自分に相対していたのだな、と実感する。

「信じないって言われても」

「だって、浅葱、嘘吐いてる」

 核心を突いたつもりだったが、それでも浅葱の顔色は変わらなかった。洗練さを欠いても、ポーカーフェイスは健在だった。何故か、それを見て安心した。

「そう言われるのが嫌だったから、なかなか戻れなかったんだよ」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「じゃあ、今から浅葱の家行って良い?」

 これも核心を突いたつもりだったのだが、やはり浅葱は狼狽する様子を見せない。

「え……いや、何で? 学校は?」

「この格好見りゃわかるでしょ。学校はサボる」

 今初めて和己の服装に気付いたように一度視線を落としてから、浅葱は複雑な表情になった。しばらく沈黙が続いて、

「学校サボって何するの?」

「知らない。三人で買い物にでも行こうと思ってたけど。何でもいいじゃん。カラオケでもゲームでも何でも」

「ボウリングは?」

「嫌だ」

 浅葱は大きく溜息。その顔を見て、和己はまた少しだけ安堵する。自分が浅葱に求めているものは、一体何なのだろうか。隣家に住む幼馴染であり、母親の代役であり、恋人に極めて近しい間柄の少年だが、その本質は和己には手の届かない場所に置きっ放しになっている。その距離を感じるのが、和己は辛い。見ず知らずの浅葱が、良く見知った浅葱の中に見え隠れすると不安になる。しかし、それが浅葱の本質なのだとしたら、自分はそれでも浅葱の隣で笑っていられるのだろうか。まやかしでも良いから、『いつも』のように、自分の良く知る浅葱の殻を被っていて欲しい。そう願ってしまうのは、和己のエゴだろうか。あくまでも、自分にとって都合の良いだけの存在を欲しがっている、これは邪な感情だろうか。こんなことを考えているから、何もかもうまくいかないのか。

 浅葱は。本当の浅葱は、どういうつもりで自分の隣にいるのだろう。それを知りたいと思うのも間違っていると言うならば、和己は正しい人間になど戻れそうにない。どこかで致命的に大きく道を踏み外したのだ。そこから、理由と言い訳のバリアに守られて、道なき道を無駄に歩いてきただけだ。隣に浅葱がいたら、それに寄りかかって利用して。そう思うと、ひどく苦しい。やけに虚しい。自分には、惨いほどに何も残らない。

 だが、浅葱の困っている顔を見るのは、少し楽しい。何でも卒なくこなす彼が、自分如きに振り回される様を見られるなんて、まさに幼馴染冥利に尽きるというものだ。この感情がどれほど倫理的に逸脱していたとしても、和己は自分を好きでいられるだろう。浅葱の傍にありたいと思う自分の感情だけは、無条件で肯定出来るはずだ。「いつも」の浅葱がたとえ偽りであったとしても。

 関係ないのだ。それはきっと、和己と浅葱の人間関係に何ら支障を来たすものでない。そのはずだ。和己は『いつも』の浅葱の傍にいられる限り幸せで、ならば、それが本物か偽物かなんて、考えなくてもどうにかなるのだ。『いつも』のように、上手く回るのだ。

「じゃあ、俺、着替えて来るから、待ってて」

「駄目だって。僕も一緒に行く」

 自分が何に拘っているのか、良くわからなかった。ただ、メロディアが消えたことから目を逸らそうとしている浅葱の、その態度が若干気にかかるのだ。

「だから何で?」

「見たいから」

「何を?」

「現場」

 別に意図して使ったわけではなかったが、その和己の言葉に浅葱が少し不快感を示した。

「……別に、事件事故が起こったわけじゃない」

「ならいいじゃん、見せてくれても。やけに隠そうとするから不審に思われるんだよ」

「ま、どうせ無駄なんだけどな」

「何が?」

 浅葱は、それには答えず、今まで見た中で最も洗練されていない動きでのそのそとドアを開けると、無言で外に出て行った。和己は慌ててそれを追う。玄関の鍵をかけようとして、部屋にそれを忘れて来たことに気付き、少しだけ躊躇した。が、結局和己はそのまま浅葱に続いた。浅葱が背中で問う。

「鍵、良いの?」

「良くないけど」

「けど?」

「今の浅葱から目を離すわけにはいかない気がする」

 浅葱が立ち止まり、首だけで振り向いた。頭二つくらい高い位置から、見下ろしてくる。人を見下すような、それでも優しい目。

「俺、変?」

「うん、変だよ」

「やっぱり」

「……女言葉じゃないし」

「あ」

 ばつの悪そうな顔で頭に手をやる。よもや、今気付いたということはあるまいが。

「でも、それは良い。今日は母親代わりじゃなくて良い。ない方が良い」

「…………」

 浅葱は、何か言いたいことがあるのに言えない時の和己にそっくりな顔になった。予想通り何も言わず、前に向き直り再び歩き出した。和己は早足でそれに追いつき、隣に並ぶ。ヒールが高いので、転びそうになる。

 浅葱は嘘を吐いている。和己は確信している。浅葱とメロディアの間で何が起こったのかはわからない。しかし、メロディアが煙のように消えてしまったと本気で信じるほど和己はおめでたい考え方をしない。これは、メロディアが精霊か否かという馬鹿げた疑問以前の問題だ。浅葱が目を離した隙に普通に逃げ出したという話であっても信じられない。浅葱はそんなミスをしない。メロディアを着替えさせることに本当は意味なんてないのだ。それは、和己の前からメロディアを引き剥がし、連れ出す口実に過ぎないはずで、彼からすれば、わざわざ実践する必要はないに違いない。相手に背を向けてクローゼットを開けた、など、とても信じられない。そんな浅葱は、和己の知る幼馴染の姿ではない。

 しかし一方で、和己への口実を律儀に守った上で、メロディアと一緒に戻れない理由を考えるとすれば、それは理に適っている。いかに不自然であろうとも、いや、不自然であるからこそ、そう口にするしかなかった。それが、浅葱の和己に対する誠意なのだろう。不器用な誠意だが、彼は和己を巧妙な嘘で遠ざけることを選ばず、あくまでも彼なりのやり方で和己の傍に戻ろうとしているのだ。

 そして自分はそれに気付きながら、浅葱の思惑を踏みにじろうとしている。無邪気な顔で。無邪気な振りで。まやかしであっても良いからと、『いつも』の浅葱を望んでいるくせに、浅葱の本質に土足で踏み入ろうとする。不可触な部分に手を伸ばして、浅葱のことをわかったふりして、一番近くにいるのは自分だと安心したいのだ。それでいくら浅葱が嫌な思いをしたとしても、『いつも』の浅葱が自分と話してくれるだけで何事もなかったのだと勝手に錯覚し、いつの日か関係が完全に破綻する時が来たら、悟ったように「ああ、やっぱり浅葱はそういう人だと思ってた」とか呟くのだろう。

 本当は何も見えていないのに。

 浅葱のことがわからない。自分のこともわからない。それでも、そこから目を逸らして生きると楽なのだ。気にしなければ、それだけで上手く回る。世界はいつだってそうなのだ。少なくとも和己の生きてきたちっぽけな世界では。何も考えなければ、楽しくやっていける。流されるままに生きれば、楽でいられる。

 それは決して、悪いことではないのだ。

 今なら、まだ間に合うのではないか。和己の中にそんな予感が閃いた。決して快い予感ではなかった。むしろ、最悪の方向に進もうとしている自分に対する警句のように響いた。虫の知らせというものが本当にあるのなら、きっとこういうものを言うのだろう。気のせいだと断じるだけの勇気があれば、きっと何も起こらない。

 ――浅葱の部屋に、行ってはならない。

 強迫観念のように和己を苛む。眩暈のように視界を覆う。空気が薄くなる。耳鳴りがする。五感に侵蝕を受けてもなお、予感は第六感の領分にあるというのか。足が重くなる。

 警告してくれているのか。だが、一体誰が?

 井倉家の玄関の前で、立ち止まった。

 ドアの鍵を開ける浅葱の背中が、やけに遠く感じる。


「僕、やっぱり戻るわ」


 振り向いた浅葱は、不思議なことにそれを当然のことのように頷いた。

「顔色悪いぞ」

「大丈夫」

 大丈夫なんかではなかった。

「朝飯食ったか?」

「食べてない」

「テーブルの上。もう冷めてるだろうけど。しっかり食べて来い」

「うん」

 踵を返す。それだけで、少し楽になる。やはり、浅葱の部屋に近付くな、そう警告してくれているのだろう。夢見心地で歩を進める。足がもつれるが、転ぶほどの元気がない。

「着替えたらすぐ行くから。せっかくだから都内まで出ようぜ」

 和己は、ふらふらと帰途に着く。一歩一歩、進むたびに振り向きたくなる。駆け戻りたくなる。禁忌は、必ず破りたくなるものだ。浅葱の部屋で、何があったのだろうか。気になる。気にならないわけはない。だが、もう気にしてはいけない。パンドラの箱は開けない方が良い。全てを鎖したまま、特別な一日という名の、それでも「いつも」に戻る。幸せなことだ。いくら後味が悪くても、きっとこれが最善なのだ。どれだけ言い聞かせても納得出来ないのは、自分が馬鹿だから。自分が悪い。頭が悪い。気持ちが悪い。

 セリスティア・メロディアはいなくなった。精霊を名乗った。紫色の髪をしていた。胸が大きかった。紐を着ていた。クローゼットに潜んでいた。夢だったのかもしれない。そんなもの、最初からいるわけがない。今の自分ごと、丸めて捨ててしまいたい。

 浅葱の作った朝食を食べて、食器を洗って、出かけるのはそれからだ。

 セリスティア・メロディアはいなくなった。

 ライバルが消えて張り合いがなくなったような、不思議な喪失感が胸に穴を開ける。夢を叶えた夢を見て、目を覚ました時にそれが夢だと一瞬気付けなくて、我に返るにつれて徐々に失望していくみたい。

 玄関のドアを開けたら、また冗談みたいな格好でメロディアが自分にもたれてくるのかもしれない。そうなったら、今度は狼狽しない。落ち着いて、「おかえり」とでも言ってやろう。和己はご主人様だ。鷹揚な方が良い。

 御飯にする、お風呂にする、それとも私?

 鍵のかかっていないドアを開けると、静まり返った我が家だけが和己を迎える。

 今日の御飯は少し張り切って作ったの。期待していいわよ。

 居間のテーブルには、温くなった味噌汁と、レンコンの煮物と、目玉焼きと、レンジで解凍した冷凍のコロッケと、サラダが並んでいる。お茶碗はまだ空で、御飯は盛られていない。ただ、作りかけの弁当箱の二段目に、白米が詰め込まれている。一段目は二階の和己の部屋にある。浅葱によって床に落とされた末、片付けられて今は勉強机の上に放置されている。いつもの席に座り、箸を取った。

 さあ、召し上がれ。

 何を食べても味がしないかと思った。柄にもなく考えすぎて、和己は『いつも』の自分を見失っているのだと思った。ただ、冷めてしまった味噌汁も、昨日の夜から準備されていた煮物も、いつもの浅葱の味がした。いらなくなった弁当から、箸の折れそうなほど固まった白米を掻き出し、がむしゃらに頬張った。

 おいしい?

 少し、黙れ。元々存在しなかったメロディアにそう告げて、その影を完全に掻き消すと、和己は食事を続けた。黙々と。淡々と。浅葱が着替え終わる前に食べ切るつもりでいた。こんな行儀悪く食べる様を、浅葱に見られるわけにはいかなかった。母親代わりでもある彼に、それを見られたら何を言われるかわからない。何と聞かれるかわからない。どうして泣いているのかともしも聞かれたら、どう答えてよいのかわからない。だから早く。一刻も早く。急いで食べ終わらなければ。そしてこの涙も飲み込んでしまわなければ。

 せっかくのナチュラルメイクが、台無しだ。

 特別な一日に相応しい表情を、早く思い出そう。メイクを補って余りあるほどの、何か適切な表現を。ライバルはいなくなったのだ。引け目を感じることなど、もうない。

 学校をサボって、二人きりで遊ぶのだ。いっそ、イケない街にでも繰り出すか。

 次に見つめ合ったら、きっともう我慢出来ない。和己と浅葱は幼馴染でいられなくなる。やけに落ち着かない。明日を考えない今日。今日だけの特別。まやかしの中でそれに寄りかかる。『いつも』の二人の枠組みを壊して、それでも『いつも』のように。訳がわからなくても何とかなる。それを確信して前だけを見る。世界はきっと和己贔屓に回ってくれている。今までも、きっとこれからも。ずっと、ずっと。和己が和己である限り。浅葱が隣にいる限り。それだけは信じる。


 和己にはきっと、それを信じる義務がある。


 溜息のように、大きく息を吐く。箸を置くのと同時に、玄関の開く音がした。

 目元を拭ってもう一度、上手く、微笑むことが出来るだろうか。

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