井倉浅葱④

 汗をかいていない。

 和己と身体を密着させた浅葱は、忘我の中で違和を感じた。違和の正体に気付くまで、本気で悦楽の中に溺れていた彼は、奇跡的に自分を取り戻せたことで自らの中に久々に「天才」を見た。それは、過信と決定的に異なる確信として、浅葱の胸いっぱいに広がった。頭が冴え渡っていく。剃刀のような鋭さに、冷たい静けさが混じる。懐かしいその感触は、心の底から歓喜を沸きあがらせた。その喜びが、悦びを大きく上回っていくのは、浅葱の性格上ひどく自然なことと言えた。

 汗をかいていない。

 浅葱は、べとつく自分の肌の感触と、白磁のような和己の肌の滑らかな感触に、文字通り、温度差を感じた。和己は汗をかいていない。浅葱は、覚醒したのだ。相手にそうと悟られないまま、彼の脳はフル回転を始めた。

 汗をかいていない。

 和己を操っている、と言っていた。本物の和己を操って人質にしている、と。だが、わざわざ発汗量まで制御する必要はあるだろうか。自律神経系に支配されているそれを操作する力が『女神』にあるかどうか、そんなことは知らないが、もし可能であるとしても、そんなことをしなければならない理由が見つからない。

 汗をかいていない。

 唾液は分泌されている。それは嫌と言うほどわかっている。片方は正常で片方は異常。もしかしたら、と思う。考えられる可能性はいくらでもある。直感的に浅葱が思い至ったのは二つ。そのどちらかが正解にしろどちらも不正解にしろ、このまま濡れ場を演じていても状況が好転することはない。まだその存在に気付かれていないようだが、万が一にでも「アールジュウハチ」を起動されたら、取り返しがつかなくなってしまうだろう。官能用ギミックは半永久的に継続する傾向にあるし、そうなると浅葱は目くるめく快楽の世界から逃れられなくなる。可能な限り早く、行動しなければならない。今ならまだ間に合う気がする。

 七二時間。いや、和己に朝食を作らなければ。

 日常に、帰るのだ。

 浅葱が思い至ったことは二つ。

「夢だ」

 さもなくば、やはりこの和己は偽者だ。

 浅葱の学生ズボンのベルトを外そうとしている和己の右手に触れる。素肌に触れる。紛い物としての身体に触れる。確信は行動に直結する。人間の身体をゼロから復元する上で、完璧に模造すると、だいたいこんな風になるのだろう。悪い意味で。この『女神』が何を考えているのか、それは全くわからない。だが、肉の感触を再現しただけの、いまや不気味な塊にしか思えないそれは、発汗していない上に産毛一つ生えていない。

 非現実的な肉感。溺れるにはあまりにも寒々しい代物ではないか。視野の狭窄を起こしている。自分の状態を一つずつ確認していく。仰向けになっている視界に、見慣れた蛍光灯が入って来た。焦点が合うのに少し時間がかかった。これまで自分は一体何を見ていたのだろうか。五感を開き、世界を噛み締める。

 和己が上目遣いでこちらを見た。

 和己の顔をした『女神』が和己の上目遣いを真似ている。

 和己の造形を模した『女神』が、その顔の構成パーツを意図的に動かして一つの表情を形作ったのだ。

 ただ、それだけだ。

「舐めてあげようか」

 その言葉の意味が、浅葱の脳内に浸透する前に、浅葱は動いていた。自由な右手の袖口で、こんな状況でもまだ発動していた「ドコニソンナブキガ」をさらに過発現させ、手元に現れた拳銃を握り、不自然な体勢のまま、上目遣いでこちらを誘っている『女神』のこめかみに突きつける。覚悟が必要だった。

 夢だ。さもなくば――

 引き鉄は、軽かった。銃声は響かない。無音声状態でスローモーションになっている。確かに弾丸は発射された。『女神』の頭に突き刺さった。手応えはあった。他人事のようにそれを見送る。時間が動き出す。頭の芯の方で警鐘が鳴っている。

 力を失って崩れ落ちる『女神』の下から素早く這い出し、ベルトを締める。深呼吸とも過呼吸ともつかない不安定な息遣いで自分を律しようとして、失敗する。足元に倒れている、幼馴染の少女の形をしたものが、ぴくりとも動かない。死んだら正体を現すと勝手に思っていた。こめかみに開いた小さな穴から、真っ赤な液体が遠慮がちに流れ落ちてきている。「ゼンネンレイタイショウ」のギミック弾であったため、血流量はごく僅かで、弾痕も綺麗なものだ。外見面において、正視に耐えられないような肉体の損壊は起こっていない。ただ、その本質的な威力は実弾と等しい。

 目の前で起こっていることなのに、何故か全て、スクリーンの向こうの出来事のように感じられた。フィクションの中に、浅葱が一人外から紛れ込んでいる。そうとしか考えられなかった。不安を押し殺し、事実だけを何度も冷静に繰り返す。

 浅葱は、『女神』を殺した。不死身の『女神』を殺した。

 浅葱は警戒を続け、銃口を相手に向けたまま、一切の行動を止めた。何をすればよいのか、また少し見失った。理由もなく目尻から涙が零れ落ちる。理由がないわけがない。足先で小突いても、『女神』は反応しない。肉だ。ジャケットを羽織った肉。

 もう一度、繰り返す。『女神』を殺した。殺されたのは、『女神』であって、和己ではない。この和己は偽者である。そう判断して発砲した。ギミックは全部で、片手で数えられるくらいしか使用していない。僅かそれだけの消費で、たった一人、無傷で『女神』を倒した。これは素晴らしい戦果である。何とか報告は纏まるだろうし、最悪の事態は避けられるだろう。『女神』の首を手土産に、組織へ凱旋というわけだ。『女神』の首。それは和己の顔をしている。深い闇を映す、死んだ眼をしている。

 浅葱が撃ったのだ。この和己は偽者と、そう判断したので。

 そう、浅葱が、勝手に断定したので。あるいは全て夢だと思ったので。浅葱は天才だったので。咄嗟に、引き鉄を引いてみたくなったので。

 そう。だから。

 だから早く、隣の家に行って確認しなければならない。一刻も早く、裏づけを取らねばならない。本物の和己が無事である、と。ここで転がっているのが本当に偽者である、と。決して自分は間違っていないのだ、と。だが、今ここから目を離すわけにはいかない。これが『女神』なら、死んだ振りをしているだけという可能性が十二分に残されている。浅葱が背を向けた瞬間に腕を伸ばして掴みかかる気かもしれないし、腐りかけた頃になって震えながら起き上がり理性のないままに襲い来る気かもしれない。とどめの刺し方はわからない。心臓に木の杭でも打ち込むしかあるまい。

 けれども、もしこの死体がこのまま起き上がらないとしたら? 浅葱はここで、この死体が腐敗し、朽ち果てて骨だけになるまで、見張っていなければならないのか。今にも起き上がるのではないかという緊張感を、ずっと持続したまま。

 ……いっそ早く、起き上がってくれ。

 生まれて初めて、自らの手で人を殺めた。人ではないと信じて引き鉄を引いた。和己の顔を持つ少女に発砲した。浅葱の右腕からは硝煙の匂いがする。自室の床には血痕が、一滴ずつ緩やかに、だが着実に、広まろうとしている。事件現場に一人立つ殺人犯の構図。殺人犯。殺人。人ではないと信じて引き鉄を引いたのだ。組織のために。和己のために。いや、本当は自分のために。自分だけのために。

 間違っていない。そのはずだ。

 だがいつまで経っても、少女は和己の姿のまま。床に伏して固まっている。

 駄目だ。

 このままでは、発狂する。半ば発作のように、浅葱は階下に走った。走り出してしまった。焦燥の中、インスタント・ギミックの拳銃が掻き消えた。武器も何もない、ただの必死な高校生のなりで、がむしゃらに階段を駆け下りる。二段飛ばしで疾走する。玄関に揃えられたスニーカーに足を通し、ダブルロックの鍵を開けるのももどかしく、平和をただ漫然と謳歌しているいつもの外界へ飛び出して、門扉を越え、アスファルトを踏み、全速力で河口家の玄関先まで辿り着いて、いつものようにチャイムも押さずにドアノブに手をかけた。目撃者はいない。別にいても構わない。ドアノブは動かない。施錠されている。

 痛恨のミスに気付く。

 鍵がない。通学鞄の中に、和己の母から預かった鍵がある。通学鞄がない。苛立ち紛れに自分を一発殴る。心臓が鼓動する音が、耳元ではっきり聞こえる。逡巡の間に心音は一〇回。踵を返す。チャイムを押すという発想は無かった。家の中に和己が寝ているなら、まだ起こすのは悪い。ぎりぎりまで寝かせてやりたい。そう、和己はまだ寝ているに決まっているし、遅刻ぎりぎりまで起きてこないに決まっている。浅葱の世界と遥か遠い場所で、日常の中に浸り切っているに決まっている。絡まりそうな足で地面を蹴る。路面を蹴る。鍵を取りに戻る。住宅地の狭い道路にはセンターラインもない。車道も歩道もない。車は二台すれ違えない。浅葱だけが走っている。一〇メートルあるかないか。三段跳びの選手が三歩目で行き過ぎるようなその距離。そんな距離がやけに遠い。漠とした荒野を行くように、地平線が見え、蜃気楼が見え、陽炎が揺らいでいるその全てが幻。現実世界は徒歩一〇秒。その一〇秒目が、浅葱にだけ訪れない。いつまで経っても追いつけない。心音が鳴り止まない。鼓動が強く全身を打ち据える。落ち着くという言葉を忘れて浅葱は走る。暑い。理由は幾らでもあるが、禁物だとあれほど言われた焦りの中に溺れている自分を、身体が拒絶してくれているかのようだ。天才を捨てた。日常を捨てた。浅葱は叫び出したい衝動を飼い殺しにして、歪な笑い方で頬を上げた。逃げ出したい。組織からも、今の自分からも。投げ出したい。状況全てを放り捨て、いっそ死んでしまいたい。自暴自棄という言葉を座右の銘にして、千尋の谷に上手く頭から飛び下りて、崖下から懸命に這い登ってくる獅子の子供とすれ違う。目が合えば微笑みかけ、手が届けば引き摺り下ろす。そうしてようやく、自分は楽になれるのだ。その一瞬で。

 家の玄関をくぐり、階段を上がり、自室のドアを開けてから、浅葱は今日何度目かの怪異に遭遇する。そんな予感があり、それは絶対に的中する。浅葱は通学鞄、その中にある河口家の鍵が欲しいだけなのに、どうせ上手くはいかないのだ。闇の世界の住人は、光の中では生きていけない。蜘蛛の糸は最後には絶対に切られる。いつだって孤立無援。なのにいつだって傍に和己がいてくれたのだ。浅葱の世界はそれで全て。これで終わり。


 自室のドアを開けると、そこに倒れているはずの『女神』の姿は既に無かった。『女神』がいた辺りの床には、何か灰のような黒い粉が散乱し、その上に、ジャケットのごく一部分が転がっているのみだ。まるで、小火の後のように見えた。『女神』が着ていたあのジャケットが、この短時間で燃えた形跡。それが一番説得力のある説明だった。だが、焦げ臭い匂いや、着火装置など、それを裏付けるものは何一つない。火の気は一切ないのだ。また、床に零れ落ちていたはずの血の跡には、乾いた黒い粉が代わりに散らばっていた。

 わけが、わからない。

 浅葱は、わずかに原型をとどめているジャケットの破片を手にとる。これは元々、和己の父親のジャケットだ。何かの際に、背格好が似ているから着こなせるだろうという理由から、譲り受けたものであった。結局、機会に恵まれなかったため、浅葱は一度も袖を通したことはない。和己の父親の形見とも言えるジャケットを、こんな風に失ったのは非常に残念だが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。

 このジャケットを纏っていた死体は、一体どこに消えてしまったのか。

 まさか、日の光を浴びて、こうして灰になってしまいました、とでも言うつもりか。だとしたら、どうしてジャケットの一部だけが不自然に残っているのだろう。この部分にだけ紫外線対策が施してあったというわけでもあるまいし。

 少なくとも。

 どうやらここの死体は本物の和己ではなかったらしい。


 …………。

 呆然とした表情で、浅葱はしばらく部屋の空気を吸うことだけに大切な青春の一ページを浪費した。そして、通学鞄を手に取り、部屋のドア付近に落ちたままになっていた和己の弁当箱を拾い上げ、廊下に出た。

 何事もなかったように、部屋の中を顧みることもせずドアを閉め、階段を下りて行く。廊下からリビングに直接通じるドアを開け、キッチンに向かう。焼いたまましばらく放置したためすっかり固くなったトーストを、バターもつけずに頬張る。冷蔵庫から取り出したパックの牛乳に直接口をつけて飲み下し、それだけで朝食を終わらせた。両親がいない間は和己の家で朝食を摂ることも考えたのだが、結局そうしなかった。理由は自分でもよくわからない。洗面所に寄って歯を磨き、顔を洗い、髪をセットする。まるで、いつもの朝と同じだった。

 妙にさっぱりした顔で家を出て、外から施錠する。

 一応の決着は見たのだ。浅葱は自分を無理に納得させた。『女神』はジャケットを燃やして逃げた。あるいは、死んで灰になった。『女神』本人の口からは何の情報も得られずに終わった。ただ、幾つか報告できるような成果もあった。銃撃によって致命傷らしきものを与えられたし、一対一であればインスタント・ギミック数種で充分に対応出来ることを示した。それだけでもう充分ではないか。いや、充分であろうがなかろうが、七二時間後までにこれ以上の展開があることは望めない。『女神』はいなくなってしまったのだから。あとは七二時間後に連絡を取り、上層部の判断を仰ぐだけだ。その結果、もう二度とこれまでのようには暮らせなくなるかもしれないし、現状くらいは維持出来るかもしれない。

 結局、あの『女神』は何をしに浅葱の家に現れたのだろうか。エターナル・ギミックの情報でも探しに来たのだろうか。浅葱の組織のデータベースへ侵入された形跡がないか、調べてみる必要がありそうだ。三日後の報告の際までに、その痕跡をでっち上げても良い。

 いや、考えるのはもう止めだ。高校生に戻ろう。

 今はただ、この日常の中を泳ごう。もしかしたら、これで最後になるかもしれないのだから。慎重に、息継ぎを忘れずに。溺れてしまわないように。

 少し予定より遅れているが、十分にまだ間に合う。河口家に着いたら、大急ぎで和己の弁当と、朝食を作ろう。炊飯器は昨日の夜から予約してあるし、煮物も作ってある。冷凍食品がまだ残っていたはずだし、どうにかなるだろう。野菜が余っていたからサラダか何かにして食べてしまわないと。弁当の具は冷まさなければいけないことも考慮して、浅葱は頭の中で調理の順番を組み立てた。寝起きの悪い和己を起こすために、フライパンとおたまで武装して二階へ上がる時間も必要である。

 そして学校までの道を、遅刻しないよう早足で歩く。見下ろすような位置にある、いつもの笑顔を横目にしながらだ。きっと、どうでも良い馬鹿話で盛り上がるに違いない。自分は勿論、女口調だから、通行人の視線を気にして時折小声になったりする。それもまた、一興。自分は、和己の母親代わりなのだから。

 それ以上のものを望むには、浅葱の罪は重すぎる気がした。

 瞼の裏にまで染みてくる陽光の中、浅葱は今、うまく笑えない。


 少し憂鬱だ。必死に日常を演じようとしているのに、一番最初、そこから逸脱した行動をとらねばならない。

 いつもの寝顔が、本当にベッドにあるのを確認しなければならない。

 生きて、そこにあるのを。

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