セリスティア・メロディア③

 上手くやる目処など何一つ立っていなかったのに、本当にどうにかなるものである。時間稼ぎも無駄に終わり、数分で男の子はバキバキと靴音を鳴らしながら階段を上り、部屋に戻って来た。最初、追い詰められていたのは明らかに自分だった。男の子に隙は無く、黙秘を貫こうとすると、こちらを揺さぶるように、『女神』という言葉を巧みに利用してきた。同時に、どこに隠していたのか、とてつもないサイズの重火器を突然取り出した辺りで、計画の完全なる破綻、逃亡を視野に入れた窮地さえ覚悟したものの、自分が河口和己の格好をしていたことを利用して、形勢を逆転させることが出来た。ただ、この部屋の鉛筆立ての中に、相手の銃を空包に変えるあのインスタント・ギミックが無ければ、間違いなくメロディアの体は粉々に吹っ飛ばされていたことだろう。

 和己を人質にとっている。

 自分でもどうしてあんなハッタリがかませたのか、メロディアにはわからない。ただ、いかにも和己のことを気にしている相手の様子を見ているうちに、どうすれば相手を追い詰められるのか、そのアイデアが天啓のように思い浮かんだのだ。と、そう思っている。実に狡猾なやり方ではあるが、目的のためには手段を選ぶべき時代はもう終わったのだ。

 本物。

 この和己の身体は、本物。

 操られているにしろ何にしろ、そう思わせられれば、後はもうどうにでもなると思った。

 それほどまでに、井倉浅葱の想いは強いはずだった。メロディアの口から和己の名が出た際の過剰なまでの反応で、それがわかった。そして男の子である限り、好きな女の子の色仕掛けに掛からないわけがないのだ。

 実際どうだろう。今や井倉浅葱はメロディア扮する河口和己に押し倒され、なすがままにされている。裏社会を生きる猛者とは言え、まだ思春期。女も知らないに違いない。抵抗らしい抵抗もせず、舌先を這わせるたびに声を上げている。完全にメロディアが主導権を握ったのだ。こうなれば、この後の展開を模索する時間も無制限。メロディアは、その気になれば、完璧に自分の身体を制御して、通常の人間の女性と全く同様な肉体構造、そして生理状態を再現出来る。つまり、生殖行為が再現可能なのだ。そこで、浅葱を誘って最後までやってしまい、その後、和己が自我を取り戻した振りをして、ぼろぼろと涙をこぼし、「ひどい、ひどいよ浅葱」と呟いてやることも出来る。この男の子はどうなるだろうか。きっと、絶望の淵に立たされ、自責の念で押しつぶされそうになる。その後、メロディアがさっさと姿を眩ませれば、彼の怒りのやり場がなくなる。本物の和己は何も知らないからいつも通りに振る舞うのだが、その全てが井倉浅葱には無理して明るく取り繕っているようにしか見えない。和己に対する罪悪感はもう一生消えることはないだろうし、その一生を今すぐにでも終えたい、と考えるようになるかもしれない。そうだ。人は、こうやって、壊れるのだ。

 さらにその後、素知らぬ顔で、和己の前に美男子の格好ででも登場してやろうか。メロディアが和己の心も身体も奪ってやれば、本当の意味で浅葱は全ての拠り所を失うことになる。その時一体、彼はどんな顔をするのだろうか。

 楽しくて仕方がない。メロディアは浅葱の首筋を舐め上げる。汗ばんでいて不快なため、味覚は遮断してある。そんなメロディアのことなど露知らず、快楽に負けて、びくりと震える彼のその様には愛おしさすら覚える。地獄に落ちる前に天国に行くような心地を味わえるのだから浅葱としても本望であろう。『女神』と交渉出来るなど、光栄の極みだと思え。

 全身をまさぐっていたメロディアの右手が、井倉浅葱のベルトにかかる。

「夢だ」

 今や虚ろな表情の浅葱が、うわ言の様に呟いた。彼の左手が、メロディアの右手を律しようとする。全く力の入っていない制止。メロディアは続ける。ファスナーを下ろす。笑む。誘う。惑わす。和己の顔で、それを成す。


「舐めてあげようか?」


 返事は聞こえなかった。

 左のこめかみから鉛の塊が飛び込んできて、メロディアの頭蓋内、ほぼ完全に擬態していた人間の脳様の組織を食い破って止まった。

 メロディアの意識もしっかり途切れた。血が、しぶくこともなく穿たれた穴からぬるりと零れ落ちていく。その生温い感触すら、メロディアには感じることが出来ない。


 『女神』セリスティア・メロディアが今、形而下において物理的に殺害された。

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