井倉浅葱③
現状を把握。並々ならぬ緊張感の中で、自分が対峙している相手を睨みつける。河口和己の姿を借りた何者かが、見慣れた顔に見慣れない表情を貼り付けて、全裸に男性用ジャケットを羽織っただけというとんでもない格好で、突っ立っている。しかも浅葱の部屋に。どう考えても不自然である。浅葱の妄想の中にさえ、ここまでぶっ飛んだ場面はそうそう登場しない。一度だけ、下着姿の和己に自分のぶかぶかのワイシャツを着せたらどんな風になるのか考えたことがあった。罪悪感すら覚えるほど異常に興奮してしまった自分を思い出すと、今でも一人で気まずくなるが、それはそれ。ここにいるのは本物の和己でないし、状況が状況だけに、今は興奮などしようはずもない。想いとは裏腹に血液が身体の一部に集まってくるのを感じながら、浅葱は警戒を続ける。これが敵の作戦だとしたら、術中に嵌りすぎていると言って良い。妄想を遮断する。出来るだけ肩より下には目をやらないようにする。自ら視野を狭めるのはうまくないが、背に腹は変えられなかった。
完璧に和己を象ったらしい変身能力から考えて、敵の正体はやはり『女神』以外考えられない。浅葱はそう結論していた。だからこその報告であり、だからこその独断専行だ。今更違いましたではお話にならない。だから、それ以外の可能性は、今は除外する。
『女神』と直接戦ったことはない。あの忌まわしき初任務の際も、手合わせすることなど到底叶わない、一方的に追い詰められた限界状態でしかなかった。正直な話、真正面から向かい合うのすら今が初めてだ。『女神』が人間ではないという話は、今やもう疑うべくもないだろうが、噂に聞く通り何をやっても死なないのだとしたら、浅葱が採るべき最善の行動は、一体何だというのか。
相手が不死身で、自分は脆い有機体で。こんな状況で万が一殺しあうような事態になったら、どうやって生き延びればよいのだ。まさに絶望的。単純な戦闘は避けるべきだろう。だとすれば、交渉ということになる。幸いにも、日本語が通じることはわかっている。勿論、浅葱はおよそ六〇の言語を自在に操れるので、日本語が駄目でもどれかは引っ掛かるだろう。会話をするのだ。やはりそれしかない。
しかし、相手が何者か尋ねたまま、答えがない。このまま膠着状態を維持していても埒は明かない。七二時間。タイトな制限時間が、浅葱の心をぎしぎしと締め付ける。芳しい結果を出すためには、この『女神』からの情報が不可欠だ。
だが、口を割らせるだけが情報を得る手段ではない。膠着状態を崩すためだけに、浅葱は質問を続けた。
「お前、『女神』だろう?」
『女神』というのは裏の社会で勝手に付けられているそいつらの単なる俗称であり、向こうがその名を自覚しているかどうか浅葱にはよくわからない。浅葱は口に出してからそのことに気付いたが、あえて気にしない振りをした。同時に、袖口に仕込まれたインスタント・ギミック「ドコニソンナブキガ」を作動させ、とんでもないサイズの重火器を両手で構えて相手に向ける。引き鉄を引いてしまえば相手の胴体に穴が開くどころか、家の壁すら崩壊するだろうそれを、連鎖誘導させて叩き起こした「ドコニソンナチカラガ」のサポート付きで軽々と扱い、相手に示す。不死身らしい『女神』には毛ほどの意味もないかもしれないが、少なくとも、言葉と行動とをセットで提示したことで、『女神』に対する敵愾心は間違いなく伝えることが出来る。
それで、相手はどう出るか。
なまじ向こうが和己の顔をしている分、何を考えているのかよくわからない。本物の和己の声、言葉が頭の中でぐるぐる回る。駄目だ。今、それを思い出してはならない。
「……何言ってるの?」
ほら、そんな声だ。浅葱の手元が動揺で僅かに震えた。
「僕は僕だよ。まあ、ちょっと悪ふざけが過ぎたかもしれないけど」
声帯模写も、完璧としか思えない。一人称、僕。そんな奇妙奇天烈なところまでうまく真似する。どこでそんな情報を手に入れたのか。
「ふざけるな。俺だって何も知らないガキじゃない。お前がインスタント・ギミックを作動させている時点で、カタギの人間じゃあり得ない。考える時間を稼ごうとしたのか知らないが、墓穴を掘ったな。何が目的だ? 何らかのエターナル・ギミックを回収、封印しにでも来たのか?」
声を荒げることで、逆に自らを落ち着かせる。そんな奇妙な恫喝だった。引き鉄を引く気のない重火器、その発射口を相手に差し向け、迷いを断ち切るため、言葉を撃ち出す。
訊かねばならないことではなく、訊いておきたいこと。それ以上にないこと。
「どうして、和己の格好をしているんだ?」
にやり、と不気味に片頬の上がったその瞬間の相手の顔を、浅葱は二度と忘れることは出来ないだろう。考えまいとしていた全ての考えが、一瞬間に脳裡をよぎり、次の一瞬間には爆発的に体積を増大させて、頭の中を隙間のないほど埋め尽くしていく。
「どうしてだと思う?」
浅葱にとって、最も気がかりだったのは、その点だった。『女神』が突然現れたことよりも、不自然な格好の和己の姿であったことの方が余程重要であって、それについてすっきりと論理立てて説明出来る明快な答えが欲しくてたまらなかったのだ。
浅葱の顔色が変わる。
浅葱はずっと、怖くて仕方がなかったのだ。そして今も、怖くて仕方がないのだ。だから、そこから目を背けずにはいられなかった。
「お前、和己に何かしたのか?」
重火器を持つ手が震える。今度こそは止められそうもない。相手の表情が、みるみる内に邪悪に歪められていく。和己の顔が、見たこともないような悪意に染められる。それがさらに、浅葱の不安を煽る。
「なーに。安心していい。殺しては、いないよ」
瞬間、浅葱の人差し指が発作のように屈曲し、重火器に付いた大きなトリガーが何の抵抗もなく引かれていた。
後悔する間もなかった。
だが、一瞬の後に訪れるはずの大破壊は、拍子抜けするほどの静寂に打ち負かされ、浅葱の行動は何事もなく世界に素通りされた。
空包だ。
浅葱は、引き鉄を引いてしまった強い衝動のやり場を丸っきり失い、空転する思考に乗せて無理矢理自分の殻に引き戻した。困惑と混乱という二つの名を与えられて暴れ回るそれを、冷や汗の滴る喉で抑え付ける。
弾は確かに入っていたはず。いや、違う。これは敵の仕業だ。「タマハマエモッテヌイテオイタ」だ。防御系のギミックで、空包にさせられたのだ。浅葱は、二つのギミックを並列稼動させている上、動揺を隠し切れず、隙だらけだった。そんな自分に気付かれないよう、中級インスタント・ギミックを作動させるなど、『女神』にとっては造作もないことだったに違いない。本来なら拳銃対策として知られるギミックを、まさかこんな重火器に対して利用されるとは夢にも思っていなかった。その発想力が、やはり人間離れしている。
自分は、随分と苦い顔をしているに違いない。浅葱は自覚する。いつの間にか、完全に相手のペースに嵌ってしまった。まさにあっと言う間に。
これは、まずいことになってきた。
焦りを悟らせないように平静に振る舞おうと決意した瞬間、
「穏やかじゃないな。この身体がどうなってもいいのか?」
思わず、全身の筋肉が強張る。
嘘だ。
「まだわからないのか? お前は、『女神』である私が愛しの河口和己ちゃんの姿に変身してここにいるのだと思い込んでいるが、それは何故なんだ? 私は、この娘の身体を操り、人質にして交渉役を務めさせているだけだ。早合点して損をするのはお前だぞ? 何なら、今すぐ隣の家に行って確かめてきたらどうだ? そこに、この娘の姿があるか、ないか」
集中が弾けて、「ドコニソンナチカラガ」が終息する。突然二の腕にかかった猛烈な負荷に悲鳴をあげ、浅葱は重火器を取り落とす。相手の言う通り、一刻も早くこの場を離れたい。やはり、上司に指示を仰ぐより何より先に、外に飛び出して隣家の和己を見に行くべきだった。彼女さえ安全ならば、それで良かったのだ。全てが夢だと言ってもらいたい。
和己。
隣の家の二階で寝息を立てているはずの少女。自分と一緒にいると不幸にしかならない。浅葱のせいで第一希望の女子高に落ち、浅葱のせいで『女神』に関わってしまった。全部、自分が――。
そっと、右手に柔らかい感触が当たった。思わず手を引こうとする。
掻き抱くように自分の右手を包む、和己の両手。長いジャケットの袖は折り込まれており、露出した白く細い指が、浅葱の無骨な手に纏わりつく。
「浅葱」
小さな唇から零れ出す、自分の名を呼ぶ声。首筋から、露わな胸元へと視線が移りそうになり、自制する。
操られているのだ。和己が。
卑怯卑劣な『女神』によって。
だが、その言葉が、嘘であったら?
和己は何も知らずに河口家の二階で寝息を立てているのだとしたら?
それは、楽観的に過ぎるのか? 自分の妄想でしかありえないか、そんな平和は?
わからない。ただ、この手は、柔らかい。本当の和己もきっと。
では、本物? これは本物。本物の和己が今自分の前で全裸よりも艶かしい格好でこうして自分の手を握りそしてその手を胸元に引き寄せてはにかむような笑顔で本物の和己が『女神』に操られてそんな顔で唇で上気した頬が可愛いがいやこれは夢だそうに違いない本物の和己が今目の前にいるわけがない隣の家で寝ているそうとしか考えられない柔らかいしかしこれは夢全て夢『女神』など来るわけがない理由がない偽者偽物の世界偽者偽物夢だ夢夢夢柔らかくて温かい馬鹿違う悪い和己に悪いよせ止まれだが夢ならば何をしても良い構わない俺は今からここでこの娘とだって夢だからでも夢でなかったらどうなる落ち着けこれは罠だ罠以外の何物でもないギミックが作動しているに違いない「イロジカケ」の媒体がどこかにあったに違いないそうだだからここは負けてはいけない唇が触れて
あ
あ
あ
あ
夢だ。
さもなくば
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