河口和己④

 洗面所で顔を洗い、髪を梳かして寝癖を直す。鏡の中の冴えない顔に笑いかけ、頬に一箇所にきびが出来ているのを見つけた。少しだけ腹が立ち、そんな小さなことに腹を立てた自分を自覚した時、頭の靄が掻き消えるのを感じた。脳が、全身に遅れること十数分でようやく覚醒したようだった。ちっぽけな自分。にきびに腹を立てる平和な河口和己は、だからこそ決定した。もう、迷わない。

 今日は学校をサボろう。良い子であろうとする強迫観念は捨ててしまおう。どうせ自分は、誰にとっても良い子でなんてない。窮屈な制服を脱ぎ捨てて、自由になっても良いじゃないか。少なくとも今日ぐらい。精霊が家を訪れた日くらい。天の神様がもし見ていたとしても、きっとこのくらいの悪行は見逃してくれるはずだ。もしかしたら、もう老眼かもしれないし、だったらなおさら。

 笑う。良かった。いつものように笑えた。

 和己は意気揚揚と二階に戻り、自分の部屋のドアを開けた。迷うことなくクローゼットの前に立つ。開けっ放しのクローゼット。精霊を名乗る少女が転がり出て来たクローゼット。どこか異次元に通じる魔法の扉があって、今は閉ざされてしまったのだろうか。半透明のラックやら小型の箪笥やら、ハンガーに掛かった洋服やらでだいぶ埋まっているが、元々の収納スペースは広い。無理矢理詰め込めばもう二、三人入れる空間が余っているので、もしやと思って奥を覗き込んでみたが、流石にそこには誰の姿もない。他のどんな精霊も自分をご主人様と呼んでくれはしないらしい。

 もう一度、あの娘の笑顔を思い出す。記憶の中のそれですら、和己を言いようもない心地に押し上げた。いかんいかん、と首を横に振る。自分にそんな趣味はないはずだ。むしろ、浅葱が心配だ。あんなのに感化されることは無いと信じたいが。

 そうだ、今日はこの間買ったばかりのワンピースを着ることにしよう。

 羨んでばかりいられない。セリスティア・メロディアのインパクトに圧倒されっ放しであったが、彼女に負けてはならないのだ。見方によっては、和己と彼女はライバル同士なのだから。確かに自分には、彼女のような豊かな胸もないし、くびれた腰も、人目を惹くような美貌も、悩殺ポーズも、見た者を蕩かす笑顔も、鈴を転がすような美声も持たないが、劣等感をばねにする甲斐性くらいは持ち合わせている。対抗意識。それだ。戻って来た二人をはっとさせるくらいの大変身を短時間で遂げてやりたい。化粧の時間はないだろうし、そもそも自分にファッションのセンスがあるとも到底思えないが、まあアイデア次第ではいくらかは今より輝けるだろう。第一、あの寝起きの姿から比べれば、少ししゃきっとした今の段階で、もう大幅に輝きは増しているはずだ。いつもの野暮ったい服と違う、少し大人びた服でちょっと着飾るだけで、浅葱には衝撃的かもしれないし。まあ、あいつのことだから全然気付かないかもしれないけど、女性であるメロディアはその変化に気付いてくれるだろう。

 浅葱と一緒に歩くなら、ヒールの高い靴で少しだけ背伸びすることも必要だ。浅葱は長身なので、並みの努力ではその身長差をカバーすることは出来ない。制服姿ならまだしも、私服姿でその身長差のまま歩いたら、ほとんど親子、良くて兄妹の構図になってしまう。特に、今日はそこにメロディアが加わるわけだ。後ろから見たら子供連れの若夫婦ですね、では洒落にならない。きちんと手を打っておかなければ。

 そう。これだけは絶対に言わねばならない。

 今日だけは、浅葱を母親役から降板させる。

 あれは、一人暮らしが始まってすぐの頃だった。受験前で神経質になっていたこともあり、何かと自分の世話を焼きたがる浅葱が鬱陶しくなって和己は、

「母親代わりだって言うんなら、それ相応の言葉使いで喋ってよ。じゃないなら、帰って」

 と、半ば追い払うつもりで告げたのだった。

「……よし、面白そうだな。良いぜ」

 浅葱はわずかに哀しそうな顔を見せたが、一瞬でそれを拭い去り、驚くべきことに了承してきた。

「え、本当に? これから、僕の前で男言葉で喋るの一切禁止だよ? お母さんみたいに喋るんだよ?」

 にやにやしながら追い詰めても、浅葱は首を横に振らなかった。

「わかった。……それでいいわよ」

 思わず和己は吹き出した。その口調は、和己の母とは似ても似つかなかった。浅葱は、顔を赤くしていたが、何も言わなかった。

 そうやって冗談で確約させた時以来、浅葱は本当に和己の前では気色悪い声色でぎくしゃくとした女言葉を使うようになった。

「和己、御飯早く食べて。遅刻するよ!」「お、あ、私? いらないわよ」「もう大丈夫ね。安心して行っておいで」「全く駄目ね」「ほら、あんた、無理でしょ、それじゃあ」「そうじゃねーわよ」などなど。

 すぐにやめるだろうと高を括っていたのだが、浅葱としても引くに引けなくなっているのだろう。意外と長続きしてしまっており、今更口出し出来ないような雰囲気になってしまった。信じられないことに、学校でも外でも、本当に浅葱は和己に対してその口調を貫いており、すっかり変態カップルという印象を友人達に植え付けてしまったようだ。だが、それについてあれこれ詮索してくるような良い意味での悪友など和己にはいなかったので、時折からかわれるくらいが関の山だった。陰でどれだけ何を言われているのかは、あえて考えないことにしている。浅葱が友人と話し合っているところに和己がおずおずと乱入すると、浅葱はしどろもどろなりながら口調の切り替えに腐心し、何も知らない友人に対してでさえ女言葉を使ってしまったりする。そんな様子を見ていると、微笑ましいを通り越して母性本能をくすぐられてしまう。普段の口調がぶっきらぼうなだけに、そのギャップがたまらない。自分だけの浅葱。母親役というより、それは既に、女房役みたいなものだったが。浅葱が自分の配偶者になってくれるのは嬉しいが、そもそも性別が違っている。

 今日は、久々に男に戻ってもらって、この、不意に訪れた両手に花状態を楽しんでもらおうか。彼にだって、時折こんな役得があっても良いはずだ。片方の花は随分とあくが強く、もう片方は小さくて地味だが、男の子なら嬉しいに決まっている。

 鏡の前で笑ってみる。オーケー、いつもの笑顔がそこにある。それだけで十分だ。それだけで、和己は和己になれる。名前の通り、自ら笑うことで和んでいる。この世界に上手く馴染んでいる。

 河口和己。かわぐちなごみ。

 珍しい読み方だと思う。名前の由来を母に聞いたところ、

「和己がお腹にいる時から、男の子だったらかずき、女の子だったらなごみって決めてたんだけど、漢字がなかなか思いつかなかったわけ。でも、お父さんが、和風の和に自己紹介の己っていう字面なら両方に使えるぞって言ったから、なるほどってことで採用したの」

 なるほど、じゃない。なごみという柔らかい響きの割に、漢字はかなり堅い印象がある。名前だけで男性に間違われることも多々あるし、良くても「かずみ」と読まれる。小学校時代の渾名が「カズ」だったのは殆ど嫌がらせだったにせよ、教師や友人から寄せられる誤読と付き合い続けて一五年。もうそれにも慣れてしまった。

 なごみです。これで、なごみと読むんです。変わった読み方ですね。

 放っておいてくれ。

 和己にとっては、これでも、一生付き合っていかねばならない名前なのだ。変わった読み方だろうが何だろうが、誇りを持って歩いていかねばならないのだ。

「なごみ。これで、なごみって読むの」

 まだ、幼稚園の頃だ。井倉家が隣に引っ越してきて、浅葱と初めて会った時。平仮名を読むのがやっとで、漢字などアラビア語と何ら変わらない未知の言語であったその当時、和己は表札にある自分の名前の部分を指差しながら、そう説明した。自分で読めないくせに、大人達の会話から、その名前が変わった読みをすることだけは知っていた。だから、知ったかぶりをして、彼にレクチャーしてやったのだ。そうしたら、へえ、とか呟きながら、浅葱は妙に大人ぶった調子でこう続けた。

「おのれでなごむ、でなごみか。良い名前だね」

 ぽかんとする和己に対し、浅葱はさらに、それぞれの漢字の音読みと訓読み、意味までを平然と説明し、見たこともないような愛らしい笑顔を向けてきたのである。和己は機嫌を損ね、その顔面をぐーでぶった。見事な猫パンチだった。そしてその後、河口家井倉家で後々まで酒の肴として語られている、歴史的大乱闘に発展するわけである。

 あの時握った拳の意味は、よくわかる。ただ、子供ながらにしろ、それは決して本心では無かった。あの時の和己は、本当はただこういう風に返事したかったのだ。

「うん。ぼくも、そう思う」

 少なくとも今なら、胸を張ってそう言うはずだった。浅葱の薀蓄にもきっと耐えるだろうし、顔面を殴ろうとしても簡単に避けられて終わってしまうに違いない。

 だが、今でも彼はそう思ってくれているだろうか。鏡を見る。その中に映り込む自身の顔を見る。この和己を知った今、それでもその名を良い名だと、彼は言ってくれるのだろうか。おのれでなごむ。良い名前だね、と。

 溜息を吐きそうになり、慌てて息を止める。微笑むたびにメロディアの笑みが思い出され、その歴然とした差にやり込められる思いがする。だが、負けてなるものか。何年間のアドバンテージがあると思っているんだ。幼馴染として積み重ねた何かが、この笑顔には宿っているのだ。次に浅葱が戻って来たら、笑ってみれば良い。横のメロディアがどんなに輝いていても、うろたえるな。とびきりの笑顔は必要ない。今度は引き攣ってさえいなければ良い。変な言い回しだが、しっかりと、ただ『いつも』のように笑うのだ。

 和己はもう、鏡に向かって笑いかけたりはしない。

 いつもの笑顔に、練習など必要ないからだ。

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