セリスティア・メロディア②
セリスティア・メロディアがエターナル・ギミックを纏った瞬間から、事件は始まった。尤もそれは、自らが撒いた種であることに相違なく、そういう意味では自業自得であったとも言えよう。
その朝、男の子の家の天井裏に潜んでいたメロディアは、男の子が目を覚まして着替えを済ませ、歯を磨いて用を足す為に階下に向かったのを見計らって、覗き穴を通ってするりと部屋の中に降り立った。変身を解いて、クローゼットを開け、前日奥の方に戻しておいたその男物のジャケット――エターナル・ギミック――を全裸の上に羽織る。ぶかぶかであるため袖の部分が長く余っており、反対に裾の端からは生足が直接伸び下りるというその姿は、あまりにも煽情的で、何度見ても完璧だった。フェティッシュではあるが、誰に対しても強力な攻撃性能を発揮してくれるはずであった。『女神』は自分の容姿に絶対の自信を寄せていたし、これで何の心配もなく、絶大なるインパクトを健全な男の子に与えることが出来るはずだった。
だがここで、メロディアの中で更なる悪戯心が鎌首をもたげ始める。メロディアには自覚がなかったが、これがエターナル・ギミックの効用であることは言うまでもない。本人は自分で閃いたと思っているのだから、これは実に巧妙である。享楽的な彼女は、その『女神』の本質そのままに、悪意に裏打ちされたその悪戯を、ほんの軽い気持ちで実行した。
その内容は、要するにこういうことである。
この『女神』の姿でいるよりも、隣家の女の子の姿に変身して、その上でこの服装をした方が、遥かに大きなインパクトを与えるに違いない。
少なくとも、その思い付きの内容に関しては、確固たる自信があった。思いを寄せる女の子が、普段は見せない大胆な格好で、無防備な姿を晒して部屋で待っているのだ! そんなシチュエーションで平常心を保てる日本人男子がいようはずはないではないか!
遠距離からの目測によるデータを元に、うねらうねらと体を蠢かし、身長からスリーサイズに至るまでをほぼ完璧にコピーし、『女神』は変身を極めて短時間で終わらせる。壁に掛かっている鏡で最後の確認。顔のつくりを、細部まで丁寧に検めていく。どれくらい細部までかと言うと、鏡が左右反転して見えることを考慮に入れて、それでも違和に気付かないほどに、である。『女神』の執念は実に恐ろしい。
そこに、男の子が荷物を取りに戻って来た。彼は、女の子の家に持って行くべく、小さな空の弁当箱を手にしている。目が合う。視線が絡まる。少年の目が驚愕に見開かれ、手の中の弁当箱を取り落とす。『女神』は口に出す。インパクトだけを重視したその、狙い済ました効果的なセリフを。第一撃目の衝撃が伝わり切らぬ内に、追い討ちをかけるのだ。
「初めまして、ご主人様」
完璧な口調、完璧なタイミング。『女神』の計算に狂いは生じない。自分を完全なる制御下に敷いた者だけが到達可能な、ある種、性愛の極限。それを目の当たりにした健全なる男性諸君は、美的感覚から倫理感、恋愛観、結婚観に至る全てを根底から覆され、その魅力の虜となって撃沈するはずだった。
そう。そのはずだった。
『女神』は自分の誤算を知る。とんでもない見落としに気付く。
男の子の目の色を見る。一瞬だけ素に戻った、その表情を見る。ここ数日、屋根裏から観察していただけでは垣間見ることのなかったその顔。家にいる時でさえ彼は、真なる自分を覆い隠していたのだ。完全に、裏をかかれた。メロディアは、今回のケースにおいても既に後手後手に回りつつあることに気付いた。
少年は、真理に触れたことのある賢者のような目をしていた。それでいて老獪さすら感じさせる、熟練した兵士の顔をしていた。皺の一つも刻まれていない若輩の身で、この雰囲気はまさに、世界の裏側を生きる人間の、そのステレオタイプであった。
この男の子は、普通でない。
まずい。こういう輩は間違いなく、『女神』の存在を知っている! 変身能力を持つ、高次元の存在が実在することを疑わない。一般の人間が突拍子もないものとして即座に切り捨てるだろうその考えに、彼の回路は接続しているのだ。あの目。私を本物の幼馴染の少女であるとは微塵にも思っていない目。正体はばれてしまったと見た方が良い。『女神』以外に、誰が他人と完全に同じ姿に変化出来るというのか! この姿が本物でないと一瞬で見破った時、この男の子の頭には、すぐさま『女神』という言葉が浮かんだであろう。何てことだ。幼馴染の少女の姿をとってしまったばっかりに! 『女神』そのものの姿で対峙していれば、まだ言い訳のしようもあったろう。だが、こうなってしまったのだから仕方ない。過去は変えられない。前を見るしかないのだ。
まずいことに、『女神』は、今や裏社会に生きる人間にとっての最大の敵だ。こちらには、この男の子に害を加える気はさらさらないのだが、ラブコメをやりに来たのです、では絶対に納得するまい。このエターナル・ギミックを奪いに来たと最初の目的を口にしたところで、どちらにしろ友好的関係が望めないのは明らかだ。それ以上のどんな嘘をついたところで、建設的でない。
……うかつだった。とんだハプニングだ。お色気インパクトどころの騒ぎでなくなってしまった。もっとよく観察していれば良かった。全てが後の祭りではある。ただ、想像以上のスリルを予期せぬタイミングで楽しめたというのが不幸中の幸いと言えた。尤も、苦し紛れに負け惜しみを言っているだけと思われるかもしれないが。
「和己……、あんたそんな趣味があったんだ」
男の子が、相変わらずの女言葉でお茶を濁そうとした。自分の感情が表出するのを必死で誤魔化そうとしているのが手にとるように分かったが、それは相手も承知の上だろう。
咄嗟に、何をすべきか逡巡して行動が滞る。気付かぬ振りをしてくるとは、事実予想外だった。相手の攻撃行動ばかりをシミュレートしていた『女神』は、後の先を取る気でいたのだ。あるいは、誰何の質問に対して、どうやってはぐらかすか、など、とにかく相手の出方次第だと思っていたのに、向こうは咄嗟にそれを放棄したのだ。その意味では、相手の方が幾分か格上だった。しかも、逃げるように部屋を出て行く。戦略的撤退。男の子の側としても、突然の『女神』の出現に衝撃は受けているだろう。そこから立ち直りつつ、体勢を立て直すつもりか。がむしゃらに突っ込んでくるより、遥かに潔い選択であると言えた。素晴らしい判断力だ。正直、手放しで賞賛してやりたい。それに引き換え、今の自分は何だ。男の子の後を追うことも出来ず、メロディアはただ歯噛みした。
時刻は六時三六分。よくよく見れば、黙々と時を刻む壁掛け時計に始まって、部屋中至る所インスタント・ギミックの媒体だらけである。自分としたことが、エターナル・ギミックの気配に気を取られて、インスタント・ギミックには一切注意を払っていなかった。しかも、まさかこんなに山のように作為的に設置されているとは夢にも思わなかった。前もって気付いてさえいれば、こんな不覚をとることはなかっただろう。自分は期せずして、虎子を得るために虎口に入ってしまっていたらしい。インスタント・ギミックは、なかなか巧妙な代物だ。まさかとは思うが、状況によっては人間でも『女神』と互角に戦い得るかもしれない。まさかとは思う。まさかとは……。
やはりここは諦めて、このエターナル・ギミックを持ったまま逃げるべきか?
いや、だが、しかし、それは勿体無い。どうしてもその意識から逃げられないのが、『女神』としての悪癖か。このハプニングが、これはこれで非常に面白そうに思えてしまうのだ。まだ切羽詰っているわけではない。少しの間、今後の方向性を考えようではないか。
まず、男の子がこのまま逃走するとは思えない。逆に、増援を呼ぶと考えた方が妥当なくらいだ。それは十分有り得る。もしもこのまま待って、家のドアが開く音が聞こえたら、その時は要注意だ。男の子が家を出る場合にしても、何かを家に招きいれる場合にしても。どちらにせよ、危険な兆候だ。決してメロディアの本意ではないが、そうなったら一旦逃げるべきかもしれない。
いや、駄目だ。どうしても逃げる選択肢に行き着いて、メロディアは苛立った。何もせずに敵に背を向けて逃げるのは癪である。それは、あらゆる可能性を放棄することだ。まだ、どうにかすればラブコメに持っていけるかもしれないし、最悪のケースになってぎりぎりまで追い詰められたとしても、『女神』は本質的に死ぬことは無いのだし、結局は逃げられるに違いない。何を恐れることがあろうか。やはり動ける内は好きなように動いた方が『女神』らしい。これまで上手くやって来られた自信、あるいは慢心か。メロディアは一つだけ決めた。逃げることだけはしない。これを貫く覚悟は出来た。
メロディアは、とりあえず近くにあったインスタント・ギミックを発動させた。このギミックの周囲何メートルだかの空間に他人が非常に近寄りがたくなる、という代物であったはずだが、何せ人間の作り出したものなので詳しいところはわからない。ギミックの起動方法は、本質が形而上に存在する『女神』にとっては一目瞭然であるので、困ることはないのだが。
男の子は、このギミックの発動に気付くだろうか? 気付くだろう。その場合、効果を打ち破る術を持っているかもしれない。だが、増援を呼ぶのは難しくなるはずだ。物理的というより、むしろ概念的にここに近付きたくなくなるわけだから、ここに誰かを呼び寄せようとしても、相手に精神的抵抗が働くはず。とりあえず、少しでも時間稼ぎになってくれることを祈るのみだ。
今は、それだけで良い。
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