井倉浅葱②

 そして浅葱は、目元を拭う動きの延長で、ハンカチに包まれた薄型通信機を口元に持ってきて、そのスイッチを押した。上にいる者には絶対に聞こえないような小声で、しかも暗号化された通信文を口にする。

 それは日本語に訳すと、大体以下のような意味になる。

『こちらシャロウ・リーク。緊急事態発生。何らかのエターナル・ギミックが関与している可能性高し。繰り返す。何らかのエターナル・ギミックが関与している可能性高し』

 分かりきったことだった。『女神』が現れている以上、エターナル・ギミックが関わっている何らかの事件、あるいはその所有権を巡る戦いとしか思えない。浅葱は、思わず舌打ちする。闇の世界の住人は、結局、光の中で暮らしていくことは出来ないということか。こうして自分は、あくまでも組織のために動くしかないのか。それが和己のためにも自分のためにも一番良いのだと、自分の中だけで言い訳しながら。

 出来ることなら和己を連れて二人きりで逃げ出したかった。誰にも邪魔されずに、組織もエターナル・ギミックも関係のないところで、暮らしたかった。

 やろうと思えば出来るのかもしれない。ただ、組織から逃げ切れる自信が無い。そしてそうするだけの勇気が無い。浅葱は表社会では一介の高校生に過ぎず、金も権力も何も持っていない。それだけのことだ。

 上層部が返信するまでに要した三分もの間、浅葱はずっとキッチンに蹲っていた。自分で焼いたトーストの香ばしい匂いが、どうしようもなく涙を誘った。お手製のエプロンに零れ落ちた雫が、小さな円を描いていく。

『こちらメタル・ワン。シャロウ・リークに今より七二時間の単独調査を命ずる。刻限までこちらへの一切の通信連絡を禁じる。また、増援の用意は無い。手持ちの装備、及びインスタント・ギミックの使用に関しては、一切の制限無しに許可する。健闘を祈る』

 ようやく告げられた通信内容に、浅葱は絶句した。一見正式な命令の通達にも思われたが、その全ての状況を鑑みるに、自分が組織に見放されつつあることがわかった。組織上層部は、緊急事態の詳細を聞かずに、いきなり現場の判断に全てを任せると言った。さらに、通信連絡が完全に途絶された。状況についての連絡を一切せず、無制限でギミックを使って事件に対処したとすれば、それは客観的に見て、『独断専行』以外の何者でもない。浅葱がこの任務に成功しても失敗しても、上層部は飄々とした顔で浅葱の独断専行を責めることが出来る。確かに、何が起こるのか全くわからない状況だ。任務に成功したのなら情状酌量の余地もあろうが、失敗したとなれば目も当てられない。上層部は自らの命令があったことなどそ知らぬ風に、一方的に浅葱に責任を押し付け、当然のように罰を与えるだろう。そうなると、浅葱にはさらに惨めな任務しか回らなくなる。そんな体たらくでは、最悪、井倉家から追い出されてしまうかもしれないし、少なくとも待遇が悪くなるのは避けられない。だが、かといって組織を辞めることは許されない、完全な飼い殺し。身動きが取れなくなる。自分の居場所が、なくなってしまう。

 ……やるしかない。

 この事態を見極めることから始め、どうにかして完全なる解決を導き、自分の立ち位置を守り切るしかない。七二時間。三日間。この期間をどこまで有効に使えるだろうか。

 ……やるしかない。

 そもそも、何が起こっているというのか。あの『女神』は、どうしてこんな風にここにいるのか。わからないことだらけ。雲を掴もうとして、霧の中で必死に腕を振り回しているような状況だった。

 涙はいつの間にか引いている。深呼吸を二度。向かう先は階上だ。本当は、すぐさま外に走り出したい。そして、確認したいことがある。だが、そうやって長時間目を離して、奴を逃がすわけに行かない。あの『女神』を、追い詰めていかねばならない。一歩ずつ、上り慣れた階段を踏みしめる。そうしながら、考えろ。助けは来ない。自分だけで現状を切り開く力が必要だ。天才。そう呼ばれ続けた自分の全てを、今、賭ける。そうでなければ、失ってしまう。何もかもを。きっと。

 そんな重要な戦いが、こんな身近で起こるなんて。浅葱の世界は狭い。

 やけに階段が上りにくい。一歩ごとに吐き気が増すのを感じて、浅葱は直感した。『女神』はインスタント・ギミック「オウゴンリョウイキ」を発動させているのだ。『女神』のいる部屋を中心に広がったそれは、「ここには近寄らない方が良さそうだ」という虫の報せを偽装して、浅葱の第六感にじわりじわりと浸透していく。インスタント・ギミックの中でもかなり強力な代物だ。だが浅葱は、自然と止まりかける足を奮い立たせ、反撃に転じる。強力なだけあって「オウゴンリョウイキ」の使用頻度は非常に高く、逆にその対応策も既に確立している。「オウゴンリョウイキ」の発動を感知出来た時点で、こちらの勝ちだ。浅葱は、靴下に仕込まれたインスタント・ギミック「アシオトヲタテルナ」の起動を宣言。「オウゴンリョウイキ」に接近した「アシオトヲタテルナ」は、共振反応を起こして完全反転し、容易に「コンナトキニカギッテ」を顕在化させる。階段を静かに静かに踏みしめたはずの足裏が、どうしてか小枝を踏み折るような大きな音と共に接地する。気付かれたくない相手に自分の存在を絶対察知されてしまうというマイナスのギミックであるが、その分、プラスのギミックの効果を打ち消して発現する。「オウゴンリョウイキ」は、そうなると全くの無力だ。開き直ったように、足取りが随分と軽くなった。『女神』に自分の接近を知られることになるが、それには目を瞑るしかない。近付くことが最優先だ。そうしなければ何も出来ない。

 部屋の前まで来た。ドアは半開きである。『女神』と目が合う。吸い込まれそうな瞳をしていた。わけも無く相手を許してしまいそうになる、柔らかすぎる微笑。あるいは、向こうがこちらの罪を許容しているかのようでもあるそれ。気分が悪くなってきて、浅葱は大きな足音と共に部屋へ踏み込んだ。本当は、逃げ出したかった。視線を合わせ続けることが、出来ない。

 第一声は、決まっている。


 からからに渇いた喉で、仮面をかなぐり捨て、いつも通りのぶっきらぼうな言葉をかける。感情を殺した、冷徹な声だった。

「おい、お前は一体何者だ?」

 質問した瞬間、「オウゴンリョウイキ」が唐突に停止した。浅葱は「アシオトヲタテルナ」をそれに合わせて終息させる。次のギミック発動に備える。

 何の予備知識もなしにギミックに気付く者はこの世に存在しない。それは、漫画の登場人物がコマ割の枠線に触れられないのと殆ど同じ理屈だ。だが、わかる人が見れば、わかる。漫画の登場人物の中に、これが漫画であることを把握してしまっているキャラクターがいることがある。こちらの例は正確には少し異なるが、要はそういうことだった。そして、そのわかる人からして見れば、にはそこら中にギミックが散りばめられているのに気付くはずだ。いざという時のために用意されたインスタント・ギミックの数は尋常でない。「コウインヤノゴトシ」の発動媒体でもある目覚し時計を一瞥してから、浅葱は『女神』を睨みつけた。。とっとと片をつけなければならない。

 浅葱の朝は早い。両親役のエージェントには、部活動の朝練があると言う名目になっているが、これは勿論、嘘だ。食事を済ませ、家を出てから学校に直接行かず、和己の家に寄っている。そして毎朝、河口家のキッチンを借り、朝食や、時間がある時は弁当を作ってやっているのだ。このことは、家族には秘密にしてある。まさか浅葱が、幼馴染の母親の代役を演じているなど、長年家族の振りをしているとはいえ、仕事上の同胞である二人には恥ずかしくて口に出来ない。ここ一週間は、両親役のエージェントが任務で出掛けているので、自宅からの視線を気にせず、隣家に駆け込むことが出来ている。それが日課なのだ。……崩すわけにはいかない。

 このまま長引けば、和己の家に行くのが遅れてしまう。出来れば日常は崩したくない。しかし、その上で、七二時間となると、だいぶ時間は限られてしまう。やはり絶望的か。何かを犠牲にしなくては、自分の居場所を維持出来ないか。小さな犠牲を躊躇って、全てを失うことだけは避けねばならないが。

 どうすれば良い。

「答えろ」

 目の前にいる『女神』の顔の輪郭をもう一度追う。苛立ちだけがつのる。

 緊迫した時間が続く。

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