少年と少女の密室②

 ドアが開いた。

 その部屋のドアを開けたのは、一五、六歳の少年だ。出て行った時と同じく、冴えない顔色をしている。室内に茫洋とした視線を向けている。洗練されていない動きだが、中を警戒しているらしい。しかし、当然ながら、室内に動く物の気配は無い。

ただ、クローゼットの扉にもたれかかるようにして、こめかみに穴の開いた少女が座り込んでいる。白い紐がぐるぐると体を覆っている。

 少年は、何も言わない。

 一瞬だけ動きを止め、恐る恐る近付いて行く。ドアは足で蹴って閉めた。少女の瞳は、空を捉えて離さない。何者をも認識しない、虚の鏡のようだ。

 少年は、生をどこかに置き忘れた少女の体を何度か触って確認すると、両肩を掴んで強く揺さぶった。白い肢体に絡まる細長い布が虚しく揺れるだけで、少女はぴくりとも反応しない。頬を伝って、真っ赤な血が首筋へ落ち、鎖骨の辺りから胸元にかけて、白い布が赤く染まっている。少年は右腕を少女の膝裏に回し、左手で背中を支え、力を込めて少女を抱え上げた。少女の首が大きく後ろに反り、綺麗な喉元が白く晒された。彼は、そのまま少女をベッドへと運び上げた。乱れた毛布の上に横たえ、形ばかり、両手を胸の上で組ませた。瞼を下ろしてやる。瞑目して合掌する。首を振ってから、自虐的に微笑んだ。

 そして一度、大きな溜息を吐いた。何かを吹っ切ったように、学生服のワイシャツのボタンを外しながら、クローゼットを開く。

 突然、中から黒い影が飛び出した。

「うわあ」

 少年は、完全に予想外だったらしい。不様な声をあげ、その黒いものに圧し掛かられて引っくり返った。

「よお、ブラザー。お初にお目にかかる。これから仲良くやっていこうじゃねえか」

 それは、どこから発声しているのかまるでわからない低い声色で陽気に告げて、開いた口の塞がらない少年の顔を覗き込んだ。

「うん? ……何だ、またお前なのか! こいつはたまげた。何たる偶然。何たる奇跡。つくづく俺たちは縁があるようだな、ブラザー」

「……お前、何物だ」

 少年は、むくりと起き上がり、勝手にぺらぺらと喋っているそれの首根っこを掴んでぶら下げた。それは、慌てた素振りでバタバタと動き回ったが、少年は離さなかった。

「俺は見ての通り、薄手の黒いジャケットだぜ、ブラザー」

 それは、まさにそれ自身の言う通り、薄手の黒いジャケット以外の何物でもなかった。ただ、両袖の部分を腕に見立て、裾を足に見立てて自在に動くため、滑稽ではあるが生物のように見えなくもない。

「そんなことはわかっている。自分で買ったんだからな、このジャケットは」

 少年はまたも、どこからともなく拳銃を取り出し、軽く弄ぶようにしながらジャケットに突きつけた。ジャケットは、大きく体をそらして射線から逃れようともがいている。

「俺が聞いてるのは、どうしてジャケットが喋るのかってことだ。お前も女神の仲間か?」

 それは、大きく首を振った。襟を掴まれて固定されているため、反対に全身がぶるんぶるんと震えた。

「とんでもねえ。そいつは誤解だぜ、ブラザー。まあ、仲間だったと言えなくもないが、俺は生まれ変わったのさ」

「女神じゃないのか?」

「それだけははっきり言えるぜ。俺は俺。女神とも、そして今までの俺とも完全に別物さ」

 頭痛を抑えるように、少年が顔を顰めた。

「……わけがわからん。今日は厄日か」

「そりゃあ、まさにあの女神の奴のセリフだろうさ。結局また持っていかれたみたいだし」

 少年は、声につられてベッドに目を遣った。少女が安らかに死に続けている。

「持っていかれた?」

「今ならわかる気がするぜ。持っていかれちまったものがな」

「……こっちにもわかるように説明しろ」

「長い話になるぜ、ブラザー」

 少年はうめいて、深く溜息。がしがしと頭を掻き、舌打ちしてから立ち上がった。ジャケットを放り投げる。それは、空中で風を孕み、バランスを整えると、見事床に裾から二本足で着地した。少年は、それを見て、頬をかすかに緩める。拳銃を掻き消すようにどこかに仕舞い込むと、クローゼットの奥から半袖のTシャツを取り出し、ワイシャツのボタンを外し始める。

「おや、どこかへおでかけかい、ブラザー」

「ああ。あいつが待ってる。開き直って今日は遊びまくることに決めた」

「ヒュー。あの娘とデートってわけか。なかなかやるね」

 それは、部屋をよたよたと覚束ない動きで徘徊し、ゴミ箱を見つけると不意に中から何かを拾い上げた。しばらくそれを両袖で掴んでじっと見つめているような素振りをしたが、結局何も言わず元に戻した。少年は、そのことに気付かず、洗い立てのTシャツに袖を通しているところだった。

「……ま、これが、最初で最後かもしれないんだけど」

「哀しいこと言うなよ、ブラザー。お前ならやれるって」

「……ジャケットに励まされると何か複雑な気分だな」

 少年はジーンズに履き替え、学校指定の黒ズボンから財布と家の鍵を移し変える。

「しかし、実に速やかに状況に順応してるな、お前。流石だよ。俺もまさかこんなに早く世界に受け入れられるとは思わなかったぜ」

「何だそりゃ。流石でも何でもない。どこかで正常と異常の境界線を見失っただけさ」

「おお、至言。まさに俺のブラザーに相応しい」

 少年はまたも苦笑。二足歩行のジャケットを見下ろし、ベッドの上の少女に目を遣り、壁にかけられた鏡を覗き込む。その三方に向ける視線は、どれも全て同じ色だ。まるで何か同じ物を見ているような。

「これ以上待たせたくないから、俺は行く。とりあえず、戻って来たら詳しい事情を聞かせてくれ」

「おいおい、そりゃないぜ。まさか俺を置いていくつもりじゃねえだろうな」

「……そのつもりだが」

「ジーザス! 何てこったい。こんな不条理があるかよ」

「喋るジャケットなんて喧しくて着てられるか」

 空のバッグを掴む。今にも出て行こうとしている少年の足元に、黒いジャケットが絡みついて止めた。

「お二人さんの邪魔はしねえ。喋ったり動いたり一切せず、普通のジャケット然としてやるからさ。な、お願いだよ、ブラザー。俺を着ていくと、きっと良いことあるぜ」

「どんな」

「そいつは着てからのお楽しみだぜ、ブラザー」

 少年は、一瞬だけベッドに視線を移した。少女は相変わらず動かない。ただ、その体に巻きついている細布が、風のせいか、少しだけ揺らめくように動いた。

「わかった。来いよ」

「おー、そうこなくっちゃ。流石、ブラザー」

 ジャケットは大きく跳躍し、少年の腕に飛び乗った。そのままだらりと力を抜くと、確かに少年が全く普通の黒いジャケットを抱えているようにしか見えない。少年は、それに袖を通しながら、小さく尋ねた。

「ところで、お前のことは何て呼べば良い?」

「何でも良いぜ、ブラザー。強いて言えばあれだ。ジャケットだけに、とでも呼んでくれ」

 少年はあしらうように鼻で笑った。ベッドで横たわる少女の紐が小さく揺れている。

 だが二人とも、何も言わなかった。

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